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チコの好きな人

「チコ、おはよー。今日もいい感じにもふもふしてるねぇ」


 お家から顔を出した僕を、テオくんが両手で掬い上げて頬ずりをしてくる。朝の恒例行事だから、僕もすっかり慣れたの。テオくんは僕のことが大好きで、僕も優しいテオくんが大好き。怪我をしていた僕の傷を治してくれたときから、ずっと感謝しているの。


「ほら、朝飯だぞ」


 そう言って僕のお家の前に、大好きなレタスを入れたお皿を置いてくれたのはエリオットくん。最初は僕のこと怖がっていたみたいで、僕も大きなエリオットくんが怖かったんだけど、今はもう大好きなの。テオくんは僕を愛でてくれるけど、お世話してくれるのはエリオットくん。ぶっきらぼうだけど、本当は優しくて照れ屋さんなだけなの。

 ちなみに僕の喋り方は、エリオットくんの妹のリオノーラちゃんの真似っこなの。リオノーラちゃんは僕にチコって名前をくれた子で、いつも元気いっぱい。可愛いから、僕も真似することにしたの。


 テオくんが僕をお家の前に下ろして、ふたりは食卓で朝ご飯を食べる。僕も一緒にレタスを食べる。僕の一日はこうやって始まるの。


 少し前までは、エリオットくんとテオくんと、でっかいおじさんふたりと旅をしていたんだけど、もうすっかり平和になったの。エリオットくんが具合悪そうなことも、テオくんが難しい顔をしていることもない。僕はそれが嬉しいの。

 僕は大きなレタスの葉っぱを両手で持ってかじる。しゃくしゃくと水気があって美味しいレタス――なんだけど、なんか今朝はおかしいの。レタスより硬くて、味がちょっと違うの。


 これキャベツなの。


 思わずエリオットくんを見たんだけど、エリオットくんはまるで気付いていないみたい。料理が得意なエリオットくんが、レタスとキャベツを間違えるなんて初歩的なミスをするなんて。でも、エリオットくんも人間だもの。間違えることだってあるはずなの。

 うん、そうなの。昨日のお夕飯の残りのコロッケが食卓に出ているからなの。コロッケのおともは千切りキャベツなの。それで間違えただけなの。


 僕はエリオットくんが大好きだから、このくらいで怒ったりはしないの。噛みごたえがあって歯に良さそうなの。





 朝ご飯が終わると、テオくんはお皿を洗って、エリオットくんはお洗濯とお掃除を始めるの。前は邪魔にならないようにお家の中にいたけど、最近僕は居心地のいい場所を見つけたの。エリオットくんがお家の中で来ている上着のポケットの中。僕みたいにふわふわの触り心地で気持ちいいんだけど、恥ずかしいのかエリオットくんはその上着をお外には絶対着て行かないの。いわゆるルームウェアなの。ポケットの中は適度に狭くて、エリオットくんの呼吸や体温が感じられて、暖かくて大好きなの。何より、ポケットの中で大人しくしているとエリオットくんの邪魔にならないで傍にいられるの。いつの間にかそのまま寝ちゃって、エリオットくんがそっと僕をお家の中で寝かせてくれているのを僕は知ってる。半分はそうしてもらうためにわざと寝ているようなものなの。

 だから今日も、脱衣所で洗濯物を洗濯機に放り込んでいるエリオットくんによじ登ったんだけど、今日のエリオットくんはあのふわふわ上着を着ていないの。ていうか、上着を今まさに洗濯機に入れようとしていたところだったの。


「あ、チコ、ごめんな。もう寒くないから、この上着は洗濯しようと思って」


 エリオットくんが申し訳なさそうにそう言って、網ネットに入れた上着を洗濯機に入れる。


 ちょっと寂しいけど、我が儘言っちゃいけないのも分かってるの。あの上着のポケットが一番好きだったけど、寒い冬が終わったのは僕も嬉しいの。また来年、この上着のふわふわポケットに入るのを今から楽しみに待つの。

 邪魔しちゃいけないから、大人しくリビングに戻るの。洗い物を終わらせたテオくんが構ってくれたから、僕は寂しくないの。





 そのうちテオくんはお仕事でお部屋に入っちゃったの。最近いつも忙しそうだから、頃合いを見てもふもふしに行くの。そうするとテオくんは喜んで頬ずりして「ありがとう」って言ってくれるの。でもやっぱり邪魔しちゃいけないから、それまでは僕も静かにしているの。


 お掃除をしてくれるクリーナーくんが、ゆっくりと室内の床を動いているのを見ていると、僕は無性に眠くなるの。いつも静かにお掃除をする働き者なの。移動するクリーナーくんの上に乗ってみたことがあるんだけど、危ないからってエリオットくんに首根っこ掴まれちゃったの。

 エリオットくんはその間に、洗濯物を干すためにお庭に出てるの。お庭の木と木の間に張ったロープに、次々と洗濯物を引っかけていくエリオットくんはプロなの。たまにテオくんがやっていることがあるけど、テオくんはエリオットくんほど慣れた手つきじゃない。きびきびお仕事しているエリオットくんは格好いいの。


 そんな時に、玄関がノックされたの。お庭に出ているエリオットくんには聞こえなかったみたいだから、僕が「キュウキュウ」って声をかけて呼んであげるの。それに気づいたエリオットくんが、ノックにも気づく。玄関に向かう途中で、僕の頭をいい子いい子してくれたの。褒められたの、嬉しいの。

 お客さんじゃなくて、郵便配達の人だったの。白い封筒を受け取ったエリオットくんは、なんだか嬉しそうなの。真面目なエリオットくんが、お洗濯を放り出してその場で封筒を開けるほどなの。余程のお手紙なの。


 気になって、僕はエリオットくんの肩までよじ登って手紙を見るの。勿論僕はエリオットくんたちが使う文字は読めないけど、でも分かるの。封筒の中から出てきたのは、ちょっと厚めの紙に描かれた、どこかの景色の絵。ふわふわして優しい色の絵なの。僕はこの絵を描いた人を知ってる、エリオットくんの大好きなセイラちゃんなの。

 セイラちゃんは、遠くにお出かけしているみたいなの。エリオットくんとは一年間離れ離れなんだけど、セイラちゃんは時々旅先からエリオットくんにお手紙を書いているの。セイラちゃんが書いた風景の絵は、いまセイラちゃんがいる場所の景色。色も綺麗で、セイラちゃんは絵がとっても上手なの。


 絵には言葉も添えてあるけど、そこは僕には読めないの。でも、エリオットくんが嬉しそうに何度も何度もその文字を見つめているから、きっと嬉しいことが書いてあるはずなの。

 一度こうなるとエリオットくんが手紙を放すのに時間がかかるの。早くしないと洗濯物がちゃんと干せなくなっちゃうの。そう思って耳元で声を出すと、エリオットくんは我に返ってくれたの。手紙をわざわざ自分の部屋まで置きに行って、それからお庭に出てお仕事を再開するの。


 エリオットくんはお手紙が本当に本当に嬉しいみたい。別に嫉妬なんてしてないの。セイラちゃんが可愛いのは本当だし、セイラちゃんと一緒にいた時のエリオットくんは毎日楽しそうに笑っていたから、僕も嬉しいの。でも、お手紙より僕のほうが優先順位が低いのは、なんか納得がいかないの。





 エリオットくんの家事が終わると、お家の中はとっても静かになるの。テオくんは部屋から出てこないし、エリオットくんも黙ってリビングで読書をしているの。エリオットくんはしょっちゅう出かけているように見えて、実はあんまり出かけていないの。テオくんがお仕事しているときは、いつお客さんが来ても良いようにってお家で待機しているみたいなの。だから食べ物を買いに行くときとお仕事のとき以外は、ずっと僕と一緒にいてくれるの。

 エリオットくんが読書を始めたのは最近なの。それまでは読書している姿なんて見たことがなかったんだけど、テオくんのお勧めで読み始めたらしいの。エリオットくんが使っている部屋は、元々はカーシュナーさんって人が使っていて、お部屋の中にはカーシュナーさんが残した本がいっぱいあるの。難しい本もあるみたいだけど、そうじゃない物語なんかもあるの。暇を持て余したエリオットくんが、ついにその本棚に手をつけたってわけなの。


 エリオットくんは、テオくんみたいにソファでごろんってしたりしないの。ちゃんと足は床につけて座ってるの。それが当たり前らしいんだけど、テオくんの寝姿が印象強いから僕にはちょっと新鮮なの。てっきりソファは寝るためのものだと思っていたの。


 エリオットくんの膝の上で丸まっていたら、いつの間にか僕は寝ちゃっていたの。気付いたら僕はソファの上に下ろされていて、エリオットくんはいなくなっていたの。慌てて起き上がったら、エリオットくんが読んでいた本はテーブルの上に置かれていて、エリオットくんはお庭に出ていたの。何をしているのかと思ったら、剣の素振りをしていたの。少しでも稽古をさぼると、腕が落ちるんだって。

 本に挟んであったしおりは全然位置が変わっていないの。案外エリオットくんは集中できる時間が短いの。じっとしているのが嫌いで、大人しく読書なんて柄じゃないみたい。黙々と本を読んでいるエリオットくんも好きだけど、やっぱり僕は元気に身体を動かしているエリオットくんが一番好きなの。





 午前中はお客さんが来なかったの。珍しいことなの。

 お昼ご飯を食べてから、テオくんはお出かけなの。街を守っている結界の調節に行くの。僕も一度連れて行ってもらったことがあるんだけど、あそこはすごいエナジーが満ちていて僕は酔っぱらっちゃうの。この街で一番大きな魔装具さんがいるところだから、当然だったの。エリオットくんも『体質的に駄目』ってテオくんに出禁を食らっていたから、一緒に行けないのはおんなじなの。


 テオくんはちょっと不思議なの。人間さんなのに、雰囲気はどことなく僕たちと似ているの。エナジーを浴びすぎた結果らしいけど、僕はそのおかげでエリオットくんたちの言葉や行動が分かるようになったから、全然構わないの。もうちょっとエナジー浴びたら喋れるようになるかなと考えたけど、テオくんは悲しみそうだからやめておいたの。僕には可愛いマスコットアイドルでいてほしいみたいだから。


 午後は本格的にお昼寝の時間なの。今日はぽかぽかして気持ちいいの。お昼寝なんてほとんどしないエリオットくんがうとうとしているくらいなの。寝顔は激レアなの、よく見ておくの。

 僕も自分のお家に戻るの。エリオットくんとテオくんが作ってくれた、僕だけのお家。ふかふかなクッションは気持ちいいし、いつも掃除してくれるから綺麗。その中でも僕が一番気に入っているのは、僕がこの家に来た日にテオくんがくれたピンク色の毛布で――。


 って、あれ?


「キュっ!」


 声を上げると、うとうとしていたエリオットくんがはっとして顔を上げたの。起こしちゃってごめんねとは思うけど、でもそれどころじゃないの!

 お家の中に置いておいた、お気に入りの毛布がないの! 朝まではあったのに!


「どうしたんだ……って、ああ、あの毛布か。あれ、結構ぼろぼろになっていたからさ」


 エリオットくんが頭を掻きながらそう言うの。毛布はこれまで何回もお洗濯してくれたけど、今日の洗濯物の中に毛布はなかったの。確かに糸がほつれたり、中の綿が飛び出したりしていたけど、それでもまだ使えたの。お気に入りだったの。


 それなのに、僕に何も言わないでエリオットくんは毛布を捨てちゃったんだ……。


「――キュウキュウッ!」

「あっ、ちょっと待て、チコ!?」


 僕は泣きながらお家を飛び出したの。ちょっと開けられていた窓からお外に出て、一目散に下町の路地を走るの。後ろからエリオットくんがばたばたと追いかけてくる音がしたけど、エリオットくんは僕ほど足が速くないの。エリオットくんが通れないような細い壁と壁の隙間を通り抜けて、僕は逃げるの。


 思えば今日は朝からいつもと違ったの。エリオットくんがレタスとキャベツを間違えたり、僕が好きだって知っていたはずの上着を脱いだり、セイラちゃんからのお手紙ににやにやしたり。酷すぎるの、あんまりなの。テオくんやリオノーラちゃんには負けるけど、僕はずっとずっとエリオットくんと一緒にいたのに。セイラちゃんより先にエリオットくんと出会ったのに。そりゃ、僕は人間じゃないし、セイラちゃんは可愛いけど、それとこれとは別なの。

 だから家出してやるの。僕はエリオットくんと喧嘩をしたの。謝ってくれるまで帰らないの。僕がいなくなって、大騒ぎしてくれればいいの!





★☆






 ――そうは言っても、小さな僕にとってこの街は広すぎるの。いつも僕はエリオットくんかテオくんの肩に乗せてもらって移動していたから分からなかったけど、自分の足で歩くととんでもなく広いの。それに大きい。人間さんたちは地面を歩く僕にそうそう気付いてくれないから、かなりの確率で踏まれそうになるの。屋根や塀の上に上がっても、今度は猫さんたちに追いかけられるの。

 そんな風にがむしゃらに進んでいたら、いつの間にか僕の知らない場所に出ていたの。僕はあんまりお出かけしないから、ちょっとお家から離れるとすぐ迷子なの。今まさに迷子なの。

 でも僕は迷子じゃないの。胸を張ってそう言えるの。だって、僕の目的はエリオットくんを走り回らせることだから。僕をナイガシロにしたことを後悔すればいいの。


 そのとき、地面を歩いていた僕を誰かが掬い上げたの。ごつごつした大きな手なの。驚いてその指に噛みつくと、その人は「いてっ」と悲鳴を上げたの。


「こら、噛みつくな! お前、妙に賢いくせに私を忘れたのか!」


 そう言われて見上げてみると、そこにいたのはでっかいおじさんの片方、イザードおじさんだったの。


「チコじゃないか。どうした、こんなところで? エリオットは一緒じゃないのか?」


 傍にいたのはイシュメルおじさん。周りを見てみると、おじさんたちと同じ格好をした人たちが大勢集まっていたの。僕は防衛隊の詰所に来ちゃったみたいなの。

 おじさんたちは良い人たちなの。旅の間、大きなお腹の上で寝るのを気に入った僕をイザードおじさんは好きにさせてくれたし、イシュメルおじさんも最初は魔物の僕を警戒していたけど、とても可愛がってくれたの。ふたりともお夕飯のときは野菜を分けてくれたりして、エリオットくんとテオくんの次くらいにお世話になった人たちなの。


「仕方ない、とりあえずテオに預けるか」


 イザードおじさんがくるりと向きを変えたから、僕ははっと我に返ったの。そうなの、テオくんは防衛隊と一緒にお仕事をしているの。おじさんたちがここにいるなら、テオくんも傍にいるはずなの。そうなったら僕はエリオットくんのところへ逆戻りなの。

 逃げなきゃと思って飛び移れるところを探していたら、後ろからエリオットくんの声が聞こえたの。


「――ここにいた! イザード、イシュメル! チコを掴まえて!」

「は? ……って、うわっ」

「ああっ、ちょっと待てぇッ」


 間一髪なの。イザードおじさんの手から飛び出して、僕は走り出す。横合いからイシュメルおじさんの手が伸びてきたけど、華麗に躱すの。エリオットくんのお師匠さまであるイシュメルおじさんでも、僕のすばしっこさには敵わないの。





 適当に走っていたら、偶然見覚えのある道に出たの。そのまま進んでいくと、人気がなくなって静かな通りに出たの。エリオットくんたちが「上流階級区」って呼ぶ、身分の高い人たちの住む場所なの。

 そのうちの一軒のお家のお庭に入って、一気に二階部分まで駆け上がる。窓枠に飛び移ってよじ登り、硝子越しにお部屋の中を覗きこんでみるの。


 そこはリオノーラちゃんのお部屋なの。前にエリオットくんと遊びに来て、帰るときリオノーラちゃんがこの部屋の窓から手を振って見送ってくれたの。だからきっとこの部屋がリオノーラちゃんのお部屋なの。

 僕の予想は当たったの。中ではリオノーラちゃんが机に向かって何か書いていたの。いつになく真面目な横顔なの。リオノーラちゃんが真面目にお勉強している姿なんて意外すぎるの。


『……あーっもう、飽きた!』


 突然リオノーラちゃんがそう大声をあげて、ペンを放り出したの。誰もいないからって淑女らしくないの、はしたないの。


『終わるまで遊びに行っちゃいけないなんて鬼だよ……今日こそお兄様に会いに行けると思ったのに!』


 集中力が持続する時間が短いのはさすが兄妹なの。

 でもなんだかんだお勉強中みたいだから、お邪魔しちゃいけないの。だから僕は仕方なくそこを離れることにしたの。





 いよいよ行く当てをなくして、僕は途方にくれたの。本当ならリオノーラちゃんのお家でしばらく匿ってほしかったんだけど、こうなると潔く負けを認めるしかないの。走り回るのも疲れて、僕はとぼとぼと上流階級区の人のいない道を歩くの。

 しばらくすると、小さな公園が見えたの。エリオットくんのお家のそばにある公園のように、子供たちが楽しそうに遊んではいないの。遊具もあるけれど、なんだか上品で、素っ気ない感じ。大きな木が何本か立っていて、綺麗な噴水があるだけなの。


 木の枝の上に登って、僕はちょっと休憩するの。街の中でも高い場所にあるみたいだから、下町の様子がよく見えるの。お家はあのへんかなぁ、なんてぼんやりと考えてみるの。


 しばらくして喉が渇いたから、僕は木を下りて噴水に近づいたの。すごい勢いで水が噴き出していたけど、その飛沫だけ掬うようにすればきっと大丈夫なの。溜め池部分に落ちないように、慎重に身を乗り出して水を飲もうと試してみるの。

 でもその時、強い風が吹いたの。強烈な追い風なの。風に煽られて、呆気なく池の中に転がり落ちちゃうの!


 水の冷たさを覚悟していたんだけど、その衝撃はなかったの。瞑っていた目をそっと開けると、見覚えのある男の子が僕を両手で掬い上げてくれていたの。


「大丈夫?」


 イアンくん!

 僕は起き上がって、イアンくんの手にお礼の意味を込めて頬ずりをするの。くすぐったかったみたいで、イアンくんは笑っている。イアンくんは僕を左手に移して、右手で噴水の水を掬って、それを僕に差し出してくれたの。なんて優しい子なの!


 おかげでたっぷり水分補給ができたの。イアンくんは僕をベンチに下ろして、隣に座ってくれたの。


「チコ、ひとりかい? テオさんやエリオットさんや、リオノーラは?」


 いないの、という意味で僕は声を出すの。イアンくんも分かってくれたみたいなの。

 イアンくんの足元には大きな箱が置いてあったの。多分、ヴァイオリンっていう楽器が入っているの。イアンくんの演奏は本当に上手なの。エリオットくんもテオくんも、いつも嬉しそうに演奏を聞いているの。だから僕も大好きなの。


「チコひとりだなんて……ひょっとして家出?」

「キュウッ」

「え、本当に家出なの?」


 イアンくんは困ったみたいに笑っているの。いつでもイアンくんは優しい笑顔を見せてくれるの。そういうところは、テオくんにちょっと似てるなって思うの。


「えっと……それじゃ、ちょっと僕と一緒にいる? ここでヴァイオリンの練習しようと思っていたんだけど」

「キュウキュウ!」


 僕を気遣って、事情を詳しく聞いて来ることもないの。言葉が通じないから当然なんだけど。

 ベンチから少し離れた場所に立って、イアンくんはヴァイオリンを弾きはじめたの。僕はベンチに寝そべって、その演奏に聞き入るの。何度も何度も同じ曲を弾いているみたいだけど、でも飽きたりしないの。本当に上手なの。


 一通り弾きおわったところで、イアンくんはヴァイオリンを下ろして僕の方を振り返ったの。僕が顔を上げると、イアンくんはにっこりと微笑む。


「ねえ、チコ。エリオットさんやテオさんと何があったかは僕には分からないけど、きっとすごく心配していると思うよ」

「……キュウ?」

「ふたりとも、チコのことを本当に大切にしているから。今も必死で探しているんじゃないかな?」


 それだけ言って、イアンくんはまたヴァイオリンを弾きはじめたの。


 大切に思ってくれているのは僕も分かってるの。じゃなきゃ、僕の好物を出してくれたり、こまめにお掃除してくれたり、身体を洗ってくれたりしないの。今日のことだって、些細なことが多く重なっただけなの。ひとつひとつは大したことないの。エリオットくんなら、ピンクの毛布の代わりを絶対に調達してきてくれるの。考えなしに、ぼろぼろになったってだけで僕に何も言わずに捨てたりしないの。

 ちょっと意地を張っちゃっただけなの。……散々振り回して、エリオットくんは怒っているかなぁ?


 その時、公園にエリオットくんが入ってきたの。驚いて僕は飛び上がるけれど、イアンくんは全然驚いた感じじゃないの。むしろ想定通りって感じで笑っているの。


「やっぱりイアンだったんだな。ヴァイオリンの音が聞こえたから、もしかしてと思っていたけど」

「居場所をお知らせしようと思って。気付いてくれて良かったです」


 嵌められたの。

 にこにこ優しい顔をして、イアンくんは策士なの。


 僕の方にやってきたエリオットくんを、僕は直視できないの。なんだか今になって申し訳なくなってきたの。


「まったく、よくひとりでこんなところまで来られたな」


 そう言うエリオットくんの声に、怒っているとか不機嫌とかいう響きはなんにもないの。ただ、僕の行動力に笑っているだけなの。

 エリオットくん、全然怒ってないの。きっと心配して、あちこち探し回ってくれたのに。まだ春も初めなのに、びっしょり汗をかいているのがその証拠なの。


「あのな、チコ。俺の言葉が足りなかったよ、ごめん」


 エリオットくんはポケットから何かを出して僕に見せてくれる。それは、てっきり捨てられたと思っていた僕のピンク色の毛布だったの。

 驚いて毛布にしがみつく。ほつれていた糸はなくなっていて、ところどころなくなっていた中の綿も元通りになっているの。新品みたいだけど、でもこの毛布は僕の匂いがするの。毎日使っていた、僕の毛布に間違いないの。


「お前が午前中に昼寝していた間に、ちょっと縫い直していただけなんだよ。……まあ、元に戻しておくの忘れてたんだけど。だからほら、捨ててなんかないよ」

「キュウ……っ」


 僕は嬉しくてエリオットくんに抱き着いたの。すりすりとエリオットくんに頬ずりをする。エリオットくんはやれやれって息を吐きながら、僕の頭を撫でてくれるの。





 思えば僕は、最初はエリオットくんが苦手だったの。

 僕の家族は、よく覚えていないけど、傭兵さんに殺されちゃったの。ひとりで心細い思いをしているときに他の魔物に襲われて、逃げている途中でテオくんとエリオットくんに出逢ったの。

 エリオットくんが持っているのが、家族を殺したのと同じ剣だったから、僕はエリオットくんが怖かったの。でも、そんなことはすぐにどうでもよくなったの。エリオットくんは僕に馴染もうと努力してくれた。アレルギーとかで辛かったはずなのに、それでも僕と暮らすことに慣れようとしてくれたの。そのあとも色々あったのに――僕をいつも上着のポケットに入れて、僕が怖いときは一緒のお布団に入れてくれて、ご飯は誰よりも一番先にくれたのは、エリオットくんだったの。


 テオくんやリオノーラちゃんとは違う。みんなは僕を「可愛いマスコット」として大事にしてくれたの。

 僕のことを「家族」として、「仲間」として信頼して大事にしてくれたのは、エリオットくんだけなの。


「じゃあ帰るか、チコ。イシュメルやイザードにも心配させたから、謝りに行きながらな」

「キュウ!」


 だから僕は、誰よりもエリオットくんが好きになったの。





 まあ僕、男の子なんだけど。

 そんなことはこの際、関係ないの!

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