踊る桜
エリオットが万屋カーシュナーで暮らし始めて、二度目の春がきた。
雪が融け、鮮やかな花々が世界に彩りを添える。綺麗な羽の蝶が花から花へと飛び移り、どこからともなく甘い匂いが漂ってくる。つられて蜂まで出てくるのは勘弁してほしいが、雪と寒さを耐え抜いたベレスフォードの民衆にとって、春は毎年待ち望んでいる季節なのだ。
エリオットもまた、うららかな春の日差しに上機嫌だった。寒さに震えてすくめっぱなしだった肩も軽くなり、凍結した地面に怯えて慎重に踏み出していた一歩も堂々と踏み出せる。ついでに財布の紐も緩みがちになり、買う予定のない余計な甘味などを買ってしまうのだが。
買い出しを終えて、エリオットは荷物を抱えて下町の路地を歩き出す。キースリーが引き起こした一連の事件のせいで、首都コーウェンの街は多くが壊された。その復興もやっと終わり、以前とまったく同じとはいかないものの、それなりに平和な生活が戻りつつある。新しく建てられた建物とか、前の家を失って引っ越してきた住人とか、下町の構造も大きく変わった。が、乱雑に所狭しと建てられていた下町の住居が、むしろ壊されたことで整然としたのだ。以前ほど複雑な迷路のような路地も少なくなって、歩きやすくはなった。とてもよくなったとは言えないが、結果的に良い影響をもたらしたのは事実だ。
遠くから鐘をつく音が聞こえてきた。時報ではない、あれは魔物の襲撃を知らせる警鐘だ。最近は結界系魔装具を停止する時間も長くなって、人々はそれに順応しつつある。その分、新設された防衛隊の仕事は膨れ上がっているが――防衛隊はイザードとイシュメルが取り仕切っているのだ。普通の魔物だったら、難なく対処できるようになったはずだ。
人々の生活から魔装具を切り離すには長い時間がかかるとテオが言っていたが、案外早そうではないか。いずれ動植物もエナジーに狂うことなく、『魔物』と呼ばれる存在も消え――人々が安心して出かけられる、そんな時代をエリオットも見ることができるかもしれない。それは本当に嬉しいことだ。
まあ、その分テオは忙しそうだけど――結界系魔装具の管理から、国内のエナジー量の測定、一般向けの魔装具の改良などをひとりで引き受けている。極めつけは魔物化の危険性のある人間の治療だ。これがまた荒療治もいいところなのだが、人為的に高密度エナジーに晒して一度魔物化させ、それを鎮めるというものだ。要はエリオットを人間に戻したのと同じやり方で、非武力的なだけマシだとかなんとか。現状では他に良い方法がないので仕方ないけれど、もう少し穏やかに治療できるようになるといい。
そういうわけで、多忙なテオに代わって万屋業務はもっぱらエリオットがこなしている。魔装具修理はできないけれど、細々とした雑用ならもうひとりでも平気だ。家のことを引き受け、万屋の仕事をして、時々防衛隊の手伝いに駆り出される。慌ただしくて、しかし平穏な、これがエリオットの日常だ。
昼食のメニューをあれこれ考えつつ、自宅の玄関を開ける。すると、帰ってきたエリオットを出迎えたのは同居人の「お帰り」の声ではなく、盛大なくしゃみと咳の声だった。
「……大丈夫か?」
「はっくしょん、へっくしょ……う、ゲッホゲホ」
「おいおい」
咳の方は、ただ単にくしゃみを連発したせいで呼吸が乱れて出たものだろう。ソファにだらしなく寝そべっているその男は、いつになく気怠そうだ。目は真っ赤に充血して涙が滲んでいるし、すぐ傍にはちり紙と、それを捨てるゴミ箱がセッティングされている。
いわゆる花粉症というやつらしい。エリオットにはその症状が出ないので分からないのだが。
「エリオット! 室内に入る前に、花粉落として!」
「あ、はいはい」
鼻声で叱られ、エリオットはもう一度外に出て玄関先で衣服を叩く。この程度で目に見えない花粉が払えているのか知らないが、気休めだ。改めて部屋に入ると、俯せに寝ていたテオは仰向けになっていた。目に濡れタオルを乗せて何やら呻いている。
「不景気な顔してんなよ。いい天気だし、外は気持ちいいぞ」
「うう、春なんて嫌いだ……」
買ってきた食材を食卓に広げながら、エリオットは首を捻る。
「去年はそんなに花粉花粉言っていなかったよな? なんで急に」
「花粉の飛沫量は年々増えてるし、今年になって突然って患者も多いらしいよー。俺も去年までは自分が花粉症だなんて知らなかった」
「へえ、そんなものなんだ。大変だな」
「くぅ、涼しい顔して……こういうとき真っ先にダウンするのは君の役割だったはずなのに!」
「勝手にそんな役割作るな!」
声を荒げたと同時に思わず卵を握りつぶしそうになって、慌てて慎重に冷蔵庫へ片付ける。ここ数日テオはくしゃみと目の痒さのせいで、仕事にならないらしい。薬は一応飲んでいるらしいが、一度切れるとこの様だ。
(俺がぴんぴんしていてテオが弱っているなんて、滅多に見ない構図だもんな。ちょっといい気分だ)
なんて不謹慎なことを考えてほくそ笑みつつ、ケージを飛び出してきたチコにレタスをちぎって渡してやる。エリオットはチコのもふもふ感にも慣れて、アレルギー症状も出なくなった。つくづく調子が良い。
鼻をかんでいるテオを横目に見つつ、昼食の準備に取り掛かろうとしたとき、玄関がノックされた。案の定テオは動こうとしないので、仕方なく小走りに応対する。
「はい、どちらさま――って、セルウェイさん」
「お久しゅうございます、お坊ちゃま」
オースティン伯爵家の老執事、セルウェイだ。綺麗に撫でつけられた白髪が綺麗で、姿勢も曲がってないし、燕尾服も良く似合う。いつだって優しく笑っている、これぞ執事という男性だ。
見てみると、周囲には他に人がいない。セルウェイひとりで来たようだ。
「どうしたんですか、珍しいですね」
「ええ、今日はお坊ちゃまにお届け物がありまして。こちらを」
差し出されたのは一通の封筒だった。縁には些細ながら品のある装飾も施され、一目で貴人からの手紙だと分かる。
「これは?」
「リオノーラお嬢様のお誕生日会の招待状でございます」
「え!?」
驚いて、もう一度しげしげと手の中の封筒を見下ろす。
リオノーラの誕生日は、無論のことエリオットも覚えている。元気で暖かい彼女らしい、丁度雪が融けて、暖かくなるこの季節に生まれたのだ。昨年はリオノーラと出会ったばかりだったせいで祝えなかったが、今年こそはとエリオットも気合いを入れて贈り物を考えているところだった。
「リオの誕生日って、一週間後ですよね? 俺、ちゃんと祝いに行くつもりだったんですけど……」
「お坊ちゃまのお気持ちはお嬢様だけでなく、旦那さまや奥様も分かっていらっしゃいます。しかし今年のお嬢様のお誕生日会は、多くのお客様をお招きしての盛大なパーティーとなります。招待状なしにオースティン家へ出入りすることはできないのでございます」
セルウェイにそう言われて、はたとそのことに気付いた。
リオノーラはオースティン伯爵家令嬢ではなく、今はもう大統領の一人娘なのだ。先だって大統領アレクシスは首都の復興を見届けて辞職し、大統領選挙が行われた。そこで見事当選したのが、オースティン伯ウォルターだった。ウォルターは大統領としての政務を忙しくこなしているらしい。彼の良い評判は、下町のエリオットの耳にも届いている。
そんな大統領の娘の誕生日会だ。今までになく豪勢に執り行われるのは当たり前だった。思えばリオノーラも、前までのように好き勝手に外出しなくなっている。貴族としての格が上がったことで、彼女も色々大変なのだろう――普段だったら招待状などリオノーラ自身が持ってくるだろうに、セルウェイという使いの者を送るくらいなのだから。
一通り事が落ち着いた頃を見計らって、エリオットは父であるオースティン伯爵から提案されたことがある。エリオットの名を、正式にオースティン家の中に連ねたいというのだ。母であるナディアも、妹リオノーラも、それを望んでいる。テオに相談しても、彼は止めたりしないだろう。イシュメルやイザードも、むしろ「そうしたほうがいい」と促すかもしれない。
ウォルターがエリオットのことを思ってくれているのは痛いほど伝わったが、結局エリオットは首を振った。家系図の中に自分の名前がなくたって、別にエリオットは構わないのだ。自分とリオノーラたちは確かに血の繋がった家族、それだけでいい。今更礼儀やダンスを学ぶなんて御免だったし、どうせエリオットは貴族の優雅な生活なんて性に合わない。
『父さんや母さん、リオの迷惑になると思って、嫌がっているんじゃない。俺はやっぱり生まれつき傭兵で、できれば死ぬまでずっと、そうでありたいだけなんだ』
明確にそう訴えると、ウォルターも頷いてエリオットの考えを尊重してくれたのだ。
だから、形式上エリオットはリオノーラの親族ではない。親族でないからには、彼女の誕生日会に出席するのにも、正式に招かれたという「招待状」がなければいけないのだ。これは面倒臭い。
「公式な場をお坊ちゃまが嫌うということは、お嬢様もよくご存じでしょう。それでも、お坊ちゃまに来ていただきたいとお望みなのです。パーティーのあとには身内だけでのお祝いも予定しておりますし、是非検討してくださいませ」
「検討も何も、必ず行きますよ。リオにもそう伝えてください」
エリオットが即決して微笑むと、セルウェイも嬉しそうに笑って一礼した。そのまま老執事は帰路につき、エリオットは玄関を閉める。
歩きながら封筒の封を開け、入っていたカードを取り出す。丁寧な字で、パーティーの開催日時や場所などが記されていた。いつの間にか起き上がっていたテオが、腰を浮かせてカードを覗き見る。
「へえ、随分お堅そうな誕生日会だね。去年の君の誕生日会なんて、完全なホームパーティーだったのに」
「なんか、リオが遠くに行っちまったみたいだな」
ぽつりと呟いたエリオットは、カードをテオに渡して台所へ戻る。
代わりにテオがカードにもう一度じっくり目を通し――野菜を切り始めたエリオットに、テオが声を投げかけた。
「ねえねえ、『パーティーには二人一組でお越しください』って書いてあるけど?」
「二人一組……?」
ぴくりとエリオットが眉をひそめる。普段のエリオットなら何ら気にしない一文だ、だってこういうときはいつもテオが同行してくれたから。何よりリオノーラはテオにとっても親しい友人だし、彼はきっと一緒に祝いに行ってくれる。
包丁を置いて、ゆっくりと振り返る。見えたのは、ソファに座って膝に頬杖をついている男の惨めな姿だ。ただでさえ赤い瞳は充血して白目まで真っ赤、鼻が詰まっているために四六時中開いている口。かなりの頻度でくしゃみを連発する、この哀れな花粉症男――。
目が合ったテオは、にっこりと笑い、鼻声で告げた。
「あ、俺、悪いけどパーティー行けない」
ですよねー。
そうなると困った。
こういうお誘いの時は男女のペアで行くのがベストなのだけれど、生憎とエリオットが誘えるような女性はいない。唯一親しいのは劇団エースの踊り子セイラだが、彼女は春の首都公演を終えて全国巡業に旅立ってしまったばかりなのだ。去年は劇団員の代理としてショーに出演したエリオットだが、今年は特等席からじっくり見物できた。相変わらずセイラは綺麗だし踊りは上手だし――って違う。
イアンはイアンで招待されているだろうし、防衛隊として多忙なイザードやイシュメルを引きずっていくわけにもいかない。でもエリオットひとりでは行きたくない。しかしセルウェイには「絶対に行く」と言ってしまった。どうしよう。
その時、ノックもなしに玄関の扉が開いた。驚いてそちらを見やると、何食わぬ顔でひとりの男が入ってくる。エリオットのような特徴的な髪色であるわけでもなく、テオのような特徴的な瞳の色であるわけでもない。飛び抜けて目立つような容姿ではないが、それでもこの男に視線が行くのは、彼が放つ上品そうなオーラと指先まで優雅な一挙一動のせいか。
「いやあ、今日はもう春本番の陽気ですね――って、どうしたんです、ふたりして」
注目されていることに気付いた彼が、首を捻る。エリオットは無言で彼の目の前まで進み出て、がっしりと肩を掴んだ。
「あんた、花粉症か?」
「いいえ?」
「よし、それじゃ俺と一緒にパーティーに出かけよう」
「……は?」
★☆
「なんだって私がエリオットと共に貴族のパーティーに行かなければならないんですか」
「仕方ないだろ、都合よくあんたがいたんだから」
「まったく、貴方の交友関係の狭さにも困ったものですね」
白いスーツなんて、誰もが着こなせるものではない。それをエリオットの隣を歩くこの男――ヨシュアはびしっと着こなしている。なんだか気に食わない。
一連の騒動の末に、なぜか万屋に入り浸るようになったヨシュアは、今では半同居人だ。基本的にはエリオットやテオの知らないところで生活しているが、定期的に万屋に戻ってきて食事を摂ったり睡眠を取ったりしている。きちんと生活費を納めてくれているので文句はないけれど、一体どこから稼いでいるのか。
最後の切り札として、半ば強引にエリオットはヨシュアをリオノーラの誕生日会へ連れ出すことに成功した。気乗りはしないらしいが、なんだかんだ付き合ってくれるので良い奴だ。
すっかりあたりは暗い。パーティーはオースティン伯爵邸で、夜から始まるのだ。テオが「いつかのために」と調達していた慣れない一張羅を着て、エリオットはヨシュアとふたり夜道を歩いている。
「あんた、普段どこで何をしているんだ?」
「仕事ですよ」
「仕事って……最近は復興作業ばかりで、そんな依頼はないって言っていたじゃないか」
「ふふ、恨み辛みなどどこにでも転がっていますよ。愛は一歩進めば憎しみに変わるのです。なんと美しい世の中ではありませんか」
芝居がかったヨシュアに白い目を向けておいて、エリオットは溜息をつく。
「なんだか知らないが、厄介ごとを持ちこんでくれるなよ」
「当然です、貴方がたに迷惑をかけるのは本意ではありませんから。それに、エリオットが思っているほど、私はその手の仕事をしていませんよ」
「……へえ?」
ヨシュアはヨシュアで、正道に戻ろうと努力はしているのかもしれない。確かに彼が血の匂いをまとわせて帰ってくることはないし、前ほど怪しい雰囲気も感じない。昼間に出歩いているだけ健全だ。
やがてふたりは上流階級区にあるオースティン伯爵邸へ到着した。エリオットも幾度となく足を運んだ場所だが、今日はなんだか別の家みたいだ。門の前にはたくさんの車が停まっていて、次々と煌びやかに着飾った人々が下りてくる。それを出迎えているのは執事のセルウェイだ。
「さすがに賑わってるな」
「貴族のお屋敷に正面から堂々と入るなんて、初めてですよ」
「おいヨシュア、大きな声でそういうこと言うな」
ぴしゃりとヨシュアを叱責しておいて、エリオットはセルウェイに挨拶をする。老執事はエリオットの来訪を心から喜んでくれて、招待状を確認するとすぐに屋敷内へ案内してくれた。
いつも静粛だった大ホールは、この日とんでもなく明るくて騒がしかった。そういえばここはダンスホールだったなと今更思い出す。普段あまり使われていなかっただけに、リオノーラと共にかくれんぼ紛いのことを大ホールでしたものだ。……今思えばなんだってそんなことをしたのか疑問だが、それほど広いダンスホールには大勢の貴族たちが集まっている。両壁際には豪勢な食事やお酒も用意してあって、立食式のディナーを早くも楽しんでいる人が多い。中央に開けた空間では男女がペアになってダンスを楽しんでいた。
(うわ、目が回りそう……)
ダンスのダの字も知らないエリオットは、早くもげんなりしている。まあ、踊る気など最初からない。お酒もそんなに得意ではないし、料理をつまみながら時間を潰すつもりだ。
「こんなに人がいると、主役の姫君がどこにいるかも分かりませんね」
混乱に巻き込まれたくなかったためにわざと遅く出てきたので、リオノーラは既にホールのどこかにいるはずだ。そう思ってエリオットも周囲を見回しているが、一向に見つからない。たったひとりの妹を見つけることには自信があったのだが、人混み恐るべし。
と、ヨシュアがエリオットの腕を引いて注意を促した。リオノーラが見つかったのかと思って振り向くと、そこにいたのは別の人物だった。
「い、イシュメル!?」
ダークスーツに身を包んだ長身の男が、ワイングラス片手に佇んでいたのだ。その右腕は肩から先が喪われている。長くなった髪は、今日ばかりは結ばずに下ろされていた。
エリオットの声に気付いたイシュメルは、驚いたように振り返って、それから微笑んで近づいてきた。
「エリオット、それにヨシュアもか。珍しい組み合わせだな」
「テオは体調不良で……って、イシュメルも来ていたんですね」
「まあ、色々と罠に嵌められてな」
イシュメルはほろ苦く視線を逸らす。彼らしくない言い方に、エリオットとヨシュアは顔を見合わせる。
「前大統領の名代として出席してくれと頼まれたのだが……どうも父は、いつまでも身を固めない私に業を煮やして、この場に放り込んだらしい」
「……た、大変なんですね」
「まったくだ。私にはそんな気はないし、生誕を祝う場で出会いを探す気にもなれないというのにな」
いい歳をして独り身のイシュメルを心配するのは、父親として当然なのかもしれない。が、イシュメルにそんな気がないというのはエリオットにも分かる。アレクシスと共に暮らせるようになったのはイシュメルも喜んでいたけれど、貴族にありがちな婚姻問題は御免被るといった様子だ。
「今日はリオノーラ嬢の十七歳の誕生日。純粋にそれを祝わなければな」
「ありがとうございます、イシュメル」
生真面目なイシュメルに思わず頭を下げてしまったが、なんだってエリオットが礼を言っているのだろう。兄としてか、一応。
「リオノーラ嬢にはもう会ったのか?」
「いえ、それが全然見つからなくて」
「目が悪くなったんじゃないか? ほら、あそこに」
そう言うと、イシュメルはエリオットの後ろを指差した。その先は中央のダンスホールだ。束の間止んでいた音楽が再び始まって、ダンスが始まる。その中に、リオノーラがいたのだ。
黄色の鮮やかなドレスを身にまとい、いつも無造作におろしていた黒髪はきれいにまとめられている。頭にはティアラを頂き、うっすらと化粧も施していた。
今までリオノーラのことは、可愛い少女だと思っていたのだが――やたら綺麗で輝いる。
人見知りの彼女らしくもなく、優しい笑顔を浮かべてダンスをしているのだが、その相手を見てエリオットが不機嫌に眉をしかめる。
「……って、誰だよ相手の男。あんな奴、俺は知らないぞ」
「確かエイリー子爵家の長男だな。リオノーラ嬢の婿の座を狙う貴族は多いぞ」
「婿の座って……あの男、下手したら父親レベルの年齢じゃないですか」
「こういう場合、年齢は関係ないさ。……本人は大層嫌だと思っているだろうけれど」
なんだか強烈にむかっ腹が立ってきた。あんなに綺麗なリオノーラのダンスの相手は、イアン・コールマンであってほしいのだ。権力を狙うような奴らではなく、純粋にリオノーラを大切に思ってくれる、あの音楽家の少年でいてほしい。
おいイアン、どこで何をしている、男気を見せろと、自分のことを棚に上げてエリオットは少年に念を送る。難しい顔をしているエリオットを見て、イシュメルがくすくすと笑った。
「苦労するな、可愛い妹を持つ兄というのも。……それじゃ、義理も果たしたから私は帰るぞ。お前はきちんとリオノーラ嬢と話せよ」
「あ、はい」
イシュメルはさっさとその場を去ってしまった。溜息をついてヨシュアを振り返ったエリオットだったが、さっきまでそこにいたはずのヨシュアが忽然と姿を消しているではないか。驚いてきょろきょろと視線を周囲に向けると、少し離れた場所に彼はいた。
……壁際に佇んでいたどこかのご令嬢を、口説いているところだった。顔を真っ赤にした女性の手を引いて、甘い笑みを浮かべたヨシュアはダンスの場へと進み出ていく。
呆然とその様子を見ていたエリオットは、はっと我に返って顔色を失う。
(……こ、これじゃあひとりで来るのと同じじゃないか!?)
慌ててイシュメルに助けを求めようとその姿を探したが、頼もしい傭兵団副長の姿はもうどこにもなかった。
途方に暮れているわけにもいかず、とにかくエリオットはリオノーラに近づこうとしたのだが、リオノーラとお近づきになりたい人間は大勢いた。押しに弱いエリオットがその順番に割り込むこともできず、リオノーラは本当に何度もダンスに連れ出されていた。視界の端にヨシュアが映ったような気もしたが、もう何も気にすまい。
辛うじてできたのは、会場にいたオースティン伯爵と夫人――つまり父であるウォルターと、母であるナディアと話をすることだけだ。しかしそれも本当に二言三言で、すぐにふたりとも貴族連中に引っ張られてしまった。
仕方がないので、もう少しパーティーが進行して人が少なくなるまで待つことにした。パーティーが終わった後で身内だけの宴会を開くとセルウェイも言っていたことだし、言いたいことはそこで言えば良い。
そう思って壁際でぽつんと突っ立っていたのだが、何やらエリオットを見てひそひそと話している貴族のご令嬢の集団がいるではないか。居心地が悪くて移動しようとしたのだが、先んじて声をかけられてしまう。てっきりリオノーラの兄であることがばれたとか、傭兵であることを知っているとか、そういう罵倒まがいの言葉を投げかけられると思っていた――が、実際にかけられた言葉はその対極。「どこのお家の方ですか」とか「一緒にダンスを踊ってくださいませんか」とか「お名前を伺っても」とかだ。どうやら地方領主の息子か何かかと思われているらしい。
これが逆ナンというやつか、と焦りつつ、なんとか笑顔でごまかしつつご令嬢の申し出を断って逃げる。このパーティーで生涯の伴侶を探しているのは、リオノーラ関係の貴族だけではなかったようだ。
勝手知ったる他人の家とはよく言ったものだが、エリオットはパーティー会場を抜けて中庭へと出た。会場から離れているし、招待客はまず来ない。屋敷の使用人にお願いして通してもらったのだ。結局この静かな場所まで逃げてきてしまってリオノーラには申し訳ないのだが、同時にほっと安堵の息をつく。
夜風が涼しい。そう思ってベンチに座ると、ひらひらと目の前を薄紅色の花弁が舞い降りた。掌で受け止めて頭上を見上げると、そこには立派な木がそびえていた。
桜、という木だそうだ。これは本来ベレスフォードには存在しない木で、異国からやってきたオースティン伯の祖先が、故郷から持ってきたものなのだという。春になると薄紅の綺麗な花を咲かせて、本当に美しい。桜の開花が春を告げるというのが異国の慣習で、このとき屋敷の中庭にある桜の花は満開だった。木を照らすように設置された光源系魔装具のおかげで、桜の花は優しく輝いている。
(綺麗だな)
ベレスフォード人が好むような、派手で鮮やかな花ではない。けれど、桜は儚くて美しい。そうエリオットが思うのは、やはり異国の血が流れているからか。
「……お兄様!」
「! リオ」
エリオットが先程閉めたはずの窓が開き、リオノーラが中庭に飛び出してきた。ダンスホールでの優雅な振る舞いはどこにいったのか、ぴょんぴょんと跳ねてエリオットに抱き着いてくる。
「お兄様がこっちに行ったって聞いたから、追いかけてきたんだよ」
「おいおい、いいのか? 主役なのに」
「休憩! 踊りっぱなしで疲れたし、愛想笑いもお淑やかな振る舞いも結構大変なんだよ」
にこにこと笑うリオノーラは、いつもの通りの妹だった。苦笑したエリオットは、ベンチの隣にずれてリオノーラと並んで座る。
「言うの遅くなったけど、十七歳おめでとう、リオ」
「えへへ……ありがと。僕、お兄様に祝ってもらえて嬉しい。もう、今日来てくれただけで本当に嬉しい」
大袈裟に喜ぶリオノーラに肩を竦めつつ、エリオットは懐から小包を取り出した。それをリオノーラに差し出す。
「これ、ささやかだけど誕生日のお祝い」
「ふえ!? ぼ、僕に?」
「当たり前だろ」
リオノーラは若干震える指で、リボンを解いて包みを開けていく。中に入っていたのは花をモチーフにした髪飾りだ。大したものではないし、街の雑貨屋で買ったものなのだけれど、リオノーラは感動した眼差しだ。両手で髪飾りを掲げ持つ。
「か、可愛い! お兄様、こういうセンスあったんだね!」
「失礼だな、おい」
ぽいっとリオノーラは頭のティアラを外してエリオットに渡した。無造作に受け取ってしまったけれど、実はとんでもないお宝のティアラなのではと気が気でない。そうしている間にも、リオノーラは自分で髪飾りをつけていた。頭の左側にワンポイントだが、ティアラより華やかな彩りだ。赤メインの髪飾りなので、服にも合っている。
「どう?」
「うん、似合ってる」
「ありがとう、一生の宝物にする!」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃないよ。綺麗なドレスより、大きな宝石より、何より嬉しいの」
切実なリオノーラの言葉に、エリオットも黙る。それから目線を、頭上にある桜の枝へと向ける。
「……お前、そういうことは俺じゃなくて好きな奴に言えよ」
「な、なんでイアンに言うのさっ」
「俺はイアンにだなんて、一言も言っていないけど?」
「あっ……お、お兄様ったら意地悪!」
顔を真っ赤にしたリオノーラが、エリオットの肩を叩く。エリオットは笑って立ち上がる。
「もう戻ろう。『リオがいなくなった』って父さんたちが大騒ぎする前にな」
「うん。……ねえお兄様、一緒に踊ろうよ」
「悪いけどパス」
「踊り方分からないなら教えてあげるから」
「惨めになるから嫌だ」
「えー」
「兄妹で踊ったって仕方ないだろ。イアンを誘ってくれ」
「ふ、普通女の子から誘ったりしないの! もう!」
じゃあさっき「踊りませんか」と女の子から声をかけられた俺はなんだったのだろう、とエリオットは遠い目をする。
ぶつぶつ文句を垂れながら歩いていくリオノーラの後姿を見やり、ふとエリオットは桜の木を振り返る。桜の花が咲いている期間は短い――今は満開でも、あと数日のうちに散ってしまう。なんて儚いのだろう。
また来年も、この花を見られると良い。そう思いつつ、エリオットは妹のあとを追って屋敷内へ戻る。
ダンスホールでリオノーラが戻るのを待っていたイアンが勇気を振り絞って声をかけてきたところに、ヨシュアが「美しいお嬢さん、一曲踊りませんか」と割り込んできたので、エリオットが割と本気で鉄拳制裁をしておいた。
「……本気で殴らなくても良いじゃないですか」
「一番割り込んでもらっちゃ困る場面で割り込んでくるからだ」
「ああしたほうがイアンの危機感を煽れるかと思ったんですよ」
拳骨を食らった頭をさすってはいるが、ヨシュアに堪えた様子はない。エリオットは傍のテーブルに置いてあった果実酒のグラスを手に取る。
「まあ、ちょっと無粋でしたかね」
ヨシュアはそう苦笑して、同じ果実酒のグラスを傾ける。エリオットは視線をダンスホールへと向けた。リオノーラとイアンが、楽しそうに踊っているではないか。両者とも顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、でも良い笑顔で。見ているこっちが恥ずかしくなるほど初々しい。
家督がどうの、爵位がこうの、そんなことは知ったことではない。リオノーラには、ぜひ本当に好きな相手と幸せになってほしい。兄としてエリオットが願うのは、そんな当たり前のことだ。
ふわりと、桜の花びらが舞う。それはそのまま、エリオットの持つグラスの中に落ちて果実酒の水面に浮かんだ。少し微笑んで、エリオットは本日初めての酒を口にしたのだった。