汚れた手
血が滴るナイフを拭う。
くすんだ色のぼろ切れに、赤が映えた。
「……」
留は倒れた男が絶命していることを確認し、身をひるがえした。
錆びた鉄の匂いが鼻につく。
早く、服を脱ぎたかった。
早く血を、死臭を洗い流したい。
この世界に飛ばされた初めの頃、誠も同じような臭いをさせていたことがあった。
解剖を、したと言っていた。
那毬も、返り血で汚れたまま帰ってきた時があった。
訊けば裏の社会の人間と会っていたというが、殺してはいないと言っていた。
まぁ、殺してしまえば遺恨を生むというものだ。当然だろう。
大量の返り血は、むしろ介抱しようとして付いたものだと言っていたか。
では、今の自分はどうだ。
命令とはいえ、自らの手で。
今、人を殺した。
刃を滑らせた。その感覚を、まだ覚えていた。
「特殊任務だ」
その言葉と共に、書類を渡された。
教官ではない。
彼は、軍の人間だと名乗った。後ろでザイン教官が苦い顔をしていた。
「特殊、任務……」
思わず、オウム返ししてしまう。
「訓練兵とは言え軍の一因だ。任務をこなしてもらう時もある」
「それは、心得ております」
一度戦争が始まれば、兵として駆り出されるのは百も承知だった。
「戦争につながる芽を摘むのも仕事でな」
嫌な予感がした。
この世界では、こうした類の予感は、割と当たる。
「ある人物を、殺してもらう」
「暗殺、ですか」
「そうだな」
あっさりと、男は認めた。
年の頃は10前後。そんな、留に。
人を殺せと、ためらいもなく。
「神子様にさせる仕事ではないと意見もあるが、他に適任もいない」
兵の訓練を受ける者は、その所作や体格など、見るものが見れば兵だとわかってしまうらしい。
一番兵らしくない背格好の留に白羽の矢が立った。
表向きは、そういう事らしい。
「受けてくれるか」
「……拝受します」
それは、半ば強制だ。
男が出て行ったあと。ザインがため息を吐いた。
「留」
「はい」
「万が一失敗した場合、軍はお前を助けない」
「はい」
軍として動けないから、暗殺という方法をとるのだ。
当然、庇うことなどありえない。
「今回の件で、軍はお前と他の神子との間に楔を打とうとしている」
「楔」
「あぁ。お前の力だ。わかるか」
「私を、那毬達と距離を置かせようと?」
「そうだな。そうすることで、お前をより軍として使いやすくするつもりだろう」
ザインは言った。
「……教官、そこまで……話してしまっていいのですか」
「構わん。所詮俺の推測で、話してはならないとは言われていない」
「……お優しいですね」
思わず笑いが漏れた。
「私がお仕えしているのはハインケル伯爵だ。これは、あの方の意図するところではないからな」
「では、誰の意志で?」
「相手は、反王権派の議員。ならば」
「王権派の誰かが首謀」
「あぁ。ハインケル伯爵は王権派だが、反王権派を力で押さえつけようとはお考えでない」
「そうですか」
「力による統制は、反乱の元だと」
「なるほど」
ハインケル伯爵は、決して馬鹿ではない。
資料に目を通した。
「お膳立てまではするが」
侵入経路、必要物資の確保。偽の身分。必要なものは軍が手配する。
あとは。
「やれます」
留の覚悟の問題だ。
「そうか」
ザインは短くそう言って、二人の会話は終わった。
「嫌な、感触だわ」
ぼそり、と呟く。
無事に逃げおおせて、今は訓練兵寮に戻る途中だ。
優雅に獣車での帰還だった。
空に浮かぶ二つの月は、一つが三日月になっていた。
日時は月を見ればわかる。
この世界では、そういう仕組みになっていた。
「そういえば、休暇が近いんだったわね」
――会いたい。
――会いたくない。
二人が、集落から無事に帰ってきたことは、噂で知っていた。
魔物の討伐に成功した、と。
二人の様子が気になった。
結局、本当に魔物だったのかどうかは、行ったものでなければ分からない。
留は可能性を示しただけだ。
だから。
血に汚れたこの両手で、二人を抱きしめたくなかった。
汚してしまいそうだから。




