戯言
「それで」
「兵に志願します」
ハインケル伯爵が、手元の書類に目をやる。
兵に志願するための願書だ。
「兵になるために、このハインケル領の軍では、2年の訓練期間があります」
「存じています。それ故にハインケル領の軍は強いとも」
訓練の中には国語算数歴史といった教養の他、兵法など軍略を学ぶ座学や模擬訓練も取り入れられている。
魔術の素養のあるものであれば別途魔術の鍛錬が。
武器の扱い、整備の仕方などの基礎から応用まで、様々な訓練がされる、らしい。
「そこでは誰もが平等です」
「はい」
「貧民も、子爵の子息も。当然、神子たる貴女様も」
「はい」
頷く。
「訓練兵も兵です。有事の際には任にあたってもらいます。兵になってからも、当然危険は付きまといます」
「はい」
「覚悟はできているのですね」
書類から外された視線が、留を射抜く。
その視線を受け止め、留は口を開く。
「2人と、共に行くと決めました。だから」
兵に志願します。
留は再度そう口にした。
ハインケルが頷いた。
「わかりました。受領します」
願書に受領の印が押される。
なんだかその様子が、日本に似ていると留は思った。
遠い記憶となりかけている会社での記憶。
その様子に、留は少し、笑った。
「入隊まで少し日数があります。全寮制ですし、必要なものを買いに行かねば。少し息抜きも兼ねて、街へ出ませんか」
側にいたイネスが言った。
この人には、殺されたくないな。
などと留は思う。
彼は優しいから、わざと嫌な役目を引き受けようとしている。
だから、この人には殺されないようにしよう。
この人は、きっと、那毱と誠のためにと、留を殺しに来るだろう。
彼らへの罪悪感で、涙を流しながら。苦しみながら。
そんな辛気臭い顔など、最後に見る景色としては悲しすぎる。
だから、彼には殺されたくない。
「そうですね。2人は……那毱と誠は一緒に行けますか?」
「はい、もちろんです」
穏やかに笑う彼は、きっと2人を支えてくれるだろう。
「ケイ師匠は一緒に行きますか?」
ケイのことは、いつの間にか師匠と呼ぶようになった。
魔術の手ほどきを今も受けている。
「あー、一瞬別行動してもいいか?」
「ケイ、護衛ですよ」
仕事なのだから、とイネスが苦い顔をする。
街にはだいぶ慣れた。
顔なじみの店員もいる。
護衛はイネスとケイだけではない。
それに3人も、それなりに力をつけてきている。
相変わらずの過保護ぶりだ。
相変わらずの掛け合いだ。
ハインケルはうるさそうに遠巻きに様子を眺めている。
その様子を見て、留はまた、少し笑った。
「今日はよく笑うな」
ケイが言った。
そういうケイも笑って留を見ている。
彼は裏も表もあるが、単純な男だとも言える。
留は割と好きだ。
「うん、あのね」
些細なことの集まりが、留を笑顔にさせる。
冗談めかして、ケイを見る。
「私が殺されるなら、殺すのは師匠がいいかなって。なんとなく」
ただの戯れの言葉だ。
イネスが一瞬動揺したが、すぐにケイがふざけて雰囲気を変える。
なんとなく。
彼なら悲しいとは思ってくれそうで。
彼なら笑って殺してくれそうで。
抱える罪悪感は軽そうで。
殺される側としても楽だと、そう思った。
「いいか、留サマ。俺は、弟子は殺さねーよ」
残念ながら、彼は留を始末しようという勢力のどこにもいなかった。
だから、この言葉は本当だ。
「知ってますよ」
残念ながら。