前夜祭リリック
鏡の中の、薄く化粧を施した少女の顔を見つめる。今回は上手くできた、と思う。雑誌で研究した、超ナチュラルメイクだ。部屋を移動し、姿見に全身を映す。スカートの位置を調節し、足が細く見える場所を探す。
今日のあたしは、たぶん、かわいい。そう自分に言い聞かせ、年賀状の束をつかんで家を出る。
冬に入り、午後六時ともなればもう夜と同く真っ暗だ。
郵便ポストの前を通り過ぎ、すぐ隣のアパートの駐車場をうろつく。先生の車はない。先生の部屋の窓も暗かった。
どうしよう。ここで先生の帰りを待ち伏せるつもりでいたが、明らかに不振人物ではないか。家にいるときは期待しかなかったのに、その期待は不安に蹴散らされていく。しかし、策を練り、服を選び、慣れない化粧までしておいてすごすご撤退するのも馬鹿らしい。そうはいっても、実際のところ先生が帰って来るのか、それさえもわからないのだ。今夜は、クリスマスイヴだから。
夜まで友達と過ごすからと言って、両親には本人たちが望んでいた高級レストランに出掛けてもらった。彼らはホテルで一泊してくるそうだ。そしてあたしは体調不良と嘘をついて、友人たちとの予定を断った。だから、今夜は一人。
計画性があるようで、実質ただの賭のような自分の行動にため息が漏れる。
先生と二人で過ごしたかった。あたしはただの夢見るだけの少女じゃない。叶うわけないと、ちゃんとわかってた。なのに、なんであたしはアパートの傍から離れられないのだろう。
十分経ち、いいかげん諦めて帰ろうかと考えたとき、学校の方面から一台の車が走ってくるのが見えた。先生の車だ。暗闇の中で、ヘッドライトの光だけでどうしてそう認識できたのか、自分でもわからない。けれど、直感的にそう思ったのだ。
直感通りそれは先生の車で、ウィンカーを点滅させて駐車場に入っていった。あたしは気づかないふりをして緩慢な動作でポストに年賀状を突っ込む。
「りーさっ」
車から降りた先生は、あたしに笑顔を向けた。
先生は、去年、中学二年生の時の担任教師だ。あたしの家から徒歩三分の、このおんぼろアパートで暮らしている。今年は担任ではなくなってしまったが、国語の授業を受け持っている。そして、あたしの想いの人でもある。
「何してんの?」
「年賀状出してた」
「へえ、俺にも出した?」
「書いてない」
「書けよ」
先生は、笑いながらあたしに近寄ってきた。あたしのほうが、先生の部屋の入り口の近くにいたからだ。
「一日の朝、直接郵便受けに入れとく」
「おっ、楽しみ。お年玉つきので頼むな」
「じゃあ先生もくださいね」
「送る送る。去年のが余ってるんだが、それでもいいか?」
「セコいですね」とわざと嫌そうな顔をして言えば、先生は「冗談だって」と笑ってあたしの頭に手を置いた。カッと顔が熱くなる。すごく嬉しかったはずなのに、頭を振って払ってしまった。脳が的確な指令を出してくれないのだ。先生は「かわいくねえ奴」と、またあたしの頭をポンポン叩いた。
「先生、今夜の予定は?」
「独身教師は聖なる夜を一人で過ごします」
「何も予定ないの?」
「あると思った?」
「全く。じゃあさ、夕飯ご馳走してよ」
「おま、家帰れよ」
「親出掛けちゃって一人なの」
今まで笑っていた先生は、驚いた表情を見せた。
「おまえだけ置いてったの?」
「あたし、友達とクリパする予定だったの。でも、午後からちょっと気分悪くなっちゃって……」
「えっ、大丈夫か?」
「もう全然平気。てゆうか、元気になったら今度退屈で」
「そっかそっか。じゃあ、上がっていけよ。イヴに一人も寂しいもんな」
先生の寂しいは独り身の寂しさでしょ。そう突っ込もうとして、なぜか言葉がつっかえた。
ドアの鍵を開けた先生は、あたしを中に押しこんだ。これはもしや、作戦成功か。妄想が現実になり、恐怖に似た感情に襲われる。
「おじゃましまーす」
わざと明るい声を出し、わざとずかずかと部屋の中に踏み入る。
「おまえ、少しは遠慮しろよ」
後ろから呼びかけられる声はどこか楽しそうで、そのことがあたしを浮き足立たせた。
ここが先生の部屋。先生が生活の拠点を置いている部屋。一軒家のあたしの家と比べれば、ひどく狭い。最近禁煙を始めたと言っていたが、僅かに煙草の匂いがした。
出前のピザを注文し、先生は何か作ると言って台所へ消えた。一人こたつで待つのもつまらないので、後を追う。先生は、戸棚の中を漁っていた。
「先生、手伝うよ?」
声をかけると、先生は顔を上げた。
「おー、あのな、飲み物とか何もなくてな。ビールしかないんだ。ビールっつっても、第三のビールだけど」
「あたしビールでいいよ」
「あはは、バーカ」
先生は笑いながら棚から薄い箱を取り出した。
「コンソメの素発見。……あ、賞味期限切れてる」
「未開封じゃないですか」
「実家から送られてきてそのままだった。俺料理とかほとんどしないから。里沙、おまえスープ作れる?」
「できますけど、野菜とかあるんですか? てゆうか、賞味期限切れなんじゃ」
「野菜だけは結構あるぞ。賞味期限なんて大丈夫さ。おまえの腹はそんなヤワじゃない」
無言で睨むも、効果はないようだ。先生はニヤニヤ笑いながらあたしに箱を手渡した。
こうゆう気を使われないやり取りは好きだ。決してマゾじゃないけど、ほんの少しでもあたしのことを特別だと思ってくれているなら、からかわれるのも嬉しいと感じる。たとえその中に子ども扱いが含まれていたって、別に、いい。しょうがないと、わかっているから。
一応賞味期限を確認してみると、ちょうど半年前の日付だった。特に問題ない範囲だ。
冷蔵庫から人参を出している先生に目を向ける。不思議な気分だった。先生と二人でキッチンに立っている。ひょっとして夢なんじゃないかな、とも思う。目が覚めた時には、あたしは布団の中にいるのかもしれない。
「先生」
「ん?」
「あたしがスープ作ったら、先生食べてくれる?」
「食べるよ。てか、飲む?」
「あ、そっか」
「でもコンソメスープって具が多いから食べるでいいのか」
味噌汁は、カレーは、とぶつぶつ言っている先生を横目に、鍋に水を入れて火にかける。カレーは飲み物ではありません。
「里沙、多めに頼むよ。明日の朝までもつくらいに」
「……うん」
人参、じゃがいも、レタス、ブロッコリー。小さな調理台に次々と食材が並べられていく。包丁は任せたと言って、先生はピーラーでじゃがいもの皮を剥き始めた。
あたしは今、すごく幸せかもしれない。先生の隣りに立ってレタスを千切りながらそう思う。
夢だっていいじゃない。こんな夢がクリスマスプレゼントなら、悪くはない。
小さなこたつ板の上に並べられたのは、ピザとコンソメスープ、冷や奴、キムチに焼売。
「すげえな。和洋折衷だな」
「和洋ってゆうか、和中韓洋折衷?」
「ははは、ホントだ。やるじゃん、さすが俺ら」
「さすがの意味がわからないですけど」
クリスマスらしさは皆無。でも、これもありかなと思える。
「先生、お酒飲まないの?」
晩酌の気配を全く見せないのを不思議に思い、尋ねる。先生は軽く首を傾げ、「んー」と曖昧に笑った。
「おまえがいるのに酔っちゃったらヤバいじゃん?」
「別に、気にしないけど」
「俺が気にするの」
「……ふーん」
この話は終わりとでも言うように、先生はコンソメスープに口をつけた。お酒、飲んでもいいのに。あたしに対する遠慮とかがあるのなら、それは嫌だ。それに、酔っ払う先生も見てみたかった。
「おいしい。里沙、上手じゃん」
ひそかに気持ちが沈みかけていたあたしは、言葉を返す代わりにへらっと笑った。すると、急に先生が無表情になり、あたしの顔に焦点を合わせた。鼓動がはやる。
「里沙、化粧してる?」
「えっ?」
ギクッとした。今のあたしは、年賀状を出しに来たらたまたま先生に会った、そういう設定なのだ。家で一人で過ごすはずだったのに化粧をしているのは不自然ではなかろうか。
「してないよ」
「嘘。してるだろ」
「してないって」
不意に、先生の手が伸びてくる。身を引くも、座っているため大して動けない。先生の指先は、あたしの瞼をすっと撫でた。少しかさついた、男の人の手だった。
「ほら、キラキラしたのついた」
先生の左手の中指にはアイシャドーに混じっていたラメが付着し、光を反射して光っていた。
「で? どうして化粧してるの?」
先生はニヤニヤ笑っている。もしや、あたしの意向はバレている? 彼は、どんな答えを求めているのだろうか。
「元々クリパ行くつもりだったから……」
無難な言い訳を口にすると、先生はああそうか、と納得してくれた。
「化粧してたからか。どうりでいつもに増してかわいいと思った」
心臓がうるさい。先生に気づかれないように深呼吸して、少し上目遣いに彼を見つめる。先生の瞳が揺らいだ。
「本当はね、先生にかわいいって思ってもらいたかったからだよ。先生にどうしても会いたくて、家の前で待ち伏せしてたの」
すると先生は僅かに顔を紅潮させ、目をそらした。
「え、おまえ、それ、どういう……」
「嘘に決まってるじゃないですか」
「は!?」
さらに先生の顔が赤くなる。こっちの方が先生の動揺が大きく、ちょっと寂しい。
「おまえなあ……。あー、つうか、今のでドキドキしちゃった俺、なんなんだよ」
先生は膝を立て、両手で顔を覆った。
「あはは、バーカ」
「先生に向かってバカと言うな」
赤い顔でそんなこと言ってもかわいいだけなのに。憮然とした表情で料理を食べ始めた先生を、あたしはにやつきながら眺めていた。
こたつの上の料理もあらかた食べ終わると、軽い睡魔に襲われた。
「先生」
「ん?」
「泊まっていってもいい?」
「帰れよ」
「疲れた。眠い」
「生徒泊めたら問題だろ。しかも女子」
「でもさ、もしこんな遅くにあたしが先生の家から出るとこ見られたら、それもまずいんじゃない?」
あたしがそう言うと、先生は顎に手を当てて何か考え出した。
「それもそうだな。よし、泊まってけ」
「帰れって言ってください」
あたしたちは顔を見合わせると、同時に笑い出した。
「ちゃんと家まで送ってやるから」
最後に付け加えられた先生の言葉に一抹の寂しさを覚え、なんとなく泣きたくなった。ごまかすために欠伸をするふりをして、頬杖を付き目を閉じる。布ずれの音から、先生がこたつから這い出たのがわかる。片付けを始めるのかと思い目を開けると、先生はなぜかあたしのすぐ傍にいた。
「里沙、おまえさ、ちょっと無防備過ぎね?」
「え?」
「もし俺が変態だったらどうすんの。襲われてるよ」
先生は全くの無表情で、少しだけ怖いとも思った。でも……。
「あたし、先生のこと信用してるから」
だから、何されたって大丈夫。とは、さすがにつなげられなかったけど。
「しれっとした顔で言うなよ、そういうこと」
先生は苦笑し、さらに顔を近づけた。「でも、」
「おまえが勝手に信用してようが、そんなの俺には関係ないんだよ」
延びてくる、先生の左手があたしの右手首を、右手が左肩を。掴まれたと思うと、次の瞬間視界が反転した。目の前には先生の顔。許容オーバー。徐々に近づいてくるそれを、あたしは抵抗せず声も出さずに見つめていた。
唇が触れる直前で、先生はピタッと動きを止めた。近すぎて、表情がよく見えない。上体を起こした先生は、ゲラゲラ笑い出した。
「ビビんなって。マジなわけねえじゃん。さっきの仕返し」
憤然とした面もちで起き上がったあたしに、先生は
「な、な、怖かった? 怖かったろ?」
と楽しそうに聞いた。ごめんなさい、先生。ちょびっとだけ期待しちゃいました。本当にちょびっとだけど。
「別に」
「強がるなって。さっき顔強ばってたぞ」
「本気じゃないなんてわかってたもん」
「えー? 何で?」
そんなの、だって、先生は……
「素面じゃん」
あたしのこと、生徒としてしか見てないから。
「素面って。そんなの関係ないからな。今回は俺だからよかったけどさ。気をつけろよ。力じゃ適わないんだから」
ズキッと胸が痛む。先生はあたしに興味がないと、はっきり言われた気がした。今さらだけど。そんなの前からずっとわかってたけど。
あたしがしょぼくれたのを、説教じみたことを言ったせいだと思ったのだろうか。先生は「よし」とわざとらしく明るく言って立ち上がった。
「花火でもするか」
「は?」
「夏にユウヘイたちが持ってきて、線香花火だけ残ってるんだよ」
「もう湿気てるんじゃないですか」
「大丈夫、大丈夫。乾燥剤入れてあるから」
先生は鼻歌を歌いながら押し入れを開け、ビニール袋を引っ張り出した。そこから線香花火の束を掴み取る。かなりの量がある。
どうやら彼は本気のようだ。上着を羽織り、外に出る準備をしている。
「里沙、やるぞ。ちゃんと厚着しろよ」
先生は蝋燭とライターを持って玄関の扉を開けた。狭い室内に冷気が流れ込む。こたつのスイッチを切ってあたしも玄関に向かうと、先生はとっくに外に出た後だった。
ふと、笑みがこぼれた。まるで子どもみたいだ。そんなところまでも愛しく思ってしまうのだけれど。
「風情があるだろ」
「どこが」
「いいじゃねえか。雪の上で線香花火も」
アパートの駐車場は消雪が利いていないため、薄く雪が積もっている。その一角を軽く均し、立てた蝋燭を挟んであたしたちは向かい合ってしゃがんでいた。
クリスマスイヴに線香花火なんて、季節はずれも甚だしい。風情もへったくれもありゃしない。
「なあ、知ってる? 線香花火の火花って、触っても熱くないんだよ」
「えー、嘘だ。そう言ってあたしに触らせようとしてるだけでしょ」
「ホントだって。ほら、全然なんともないだろ?」
先生は花火に手をかざした。バチバチと咲く花が、先生の手のひらにぶつかっている。確かに、熱そうには見えない。
先生に倣って手を近づけてみる。瞬間火花の勢いが増し、もろにそれを受ける。ピリッとした静電気のような刺激を感じた。
「ホントだ。熱くない」
「だろ?」
顔を上げると、先生は得意げに笑った。それはほんのりと暖かかった。冬の夜の寒空の下、線香花火はあたしに温もりをくれた。
「ねえ、先生」
「なに?」
「先生って彼女いないの?」
「いたら今頃、花火なんてしてないって」
「それもそうだね」
あたしが笑うと、先生はちょっとだけ顔をしかめた。
「そういうおまえはどうなの」
「え? あたし?」
「そ。彼氏いるの?」
「絶賛片思い中」
あなたに。
「おっ、マジで? 相手誰だよ」
「言いませんよ」
「いいじゃんか。絶対誰にも話さないから」
「やですよ。先生信用できないもん」
「おまえ、さっきと言ってること正反対だぞ」
笑った拍子に、火の玉がぽたりと落ちる。ジュッと音を立て、すぐに黒くなった。
「霜焼けになるぞ」
「ん。大丈夫」
花火に飽きてきたあたしは、雪だるま作りに専念していた。三十センチくらいのを一つ。一回り小さいのをまた一つ。寄り添わせるように並べて立てる。こんな風に先生の隣にいたいな、なんて夢を見ながら。
「それは、独り身の俺への嫌みか?」
先生は新しい線香花火に火をつけながら、忌々しげに言った。花火はまだまだなくなりそうにない。
「そう思ってもらってもいいですよ?」
ぶちぶち文句を言う先生を無視し、枯れ葉や小石を駆使して顔を描く。結構かわいいのができた。
「ヤバい。手の感覚がない」
「だから言ったのに」
短くなった蝋燭に手をかざし温める。血が流れ出した指先が痒い。本当に霜焼けになるかもしれない。
「里沙」
「何?」
「……今日、おまえが家に来たのって、ホントに偶然?」
「他に何があるんですか」
疚しいところがあるだけに、ヒヤヒヤした。不自然じゃなかったかと、不安になる。
「いやー、なんか、一人でイヴを過ごすって覚悟してたから楽しくて。一日早いクリスマスプレゼントかな、みたいな」
「うっわ、さぶ〜」
「おい」
わざと発せられた怒ったような声が心地よく響く。しかし、そのくすぐったい気持ちは長くは続かなかった。先生がさらに続けた言葉によって。
「おまえといるとさ、父親みたいな気分になるんだよな」
なんだ、それ。
「先生子どもいないじゃん」
「そうだけど。もし娘がいたらこんな感じかなって」
生徒の次は娘か。この人は、どこまであたしを突き放せば気が済むのだろう。あたしはどこまで傷つけば諦められるのだろう。
里沙、と、先生に名前を呼ばれた。前を向くと、花火が差し出される。
「勝負しよう」
「いいですよ」
頷いて受け取ると、先生はニヤリと笑った。
「俺が勝ったら、好きな人教えろよ」
「え〜」
「里沙が勝ったら、そうだなあ」
「昔付き合ってた彼女の話してください」
「男子と同じ事言うなよ」
まあいいか、と言って先生は花火を構えた。火をつける時、指先が触れた。
ジジッ、ジジッと、張り詰めたように震えるオレンジ色の雫から、やがて花がひらく。咲いては一瞬で消え、消えてはまたひらく。
ちらと先生を見やると、いつになく真剣な表情で手元の火を睨みつけている。
何が父親だ。何が生徒と教師だ。
無性に腹が立った。痛かった。透明な液体があたしの頬を伝ったことに、彼は気づいていなかった。