逝きおくれ
♯死神と逝きおくれ
彼女は世界中を彷徨う亡霊だった。
★
チャプ…
雨の降りそうな日は、自分が自殺した日を思い出す。
その日は雨が降っていたわけではないのに、何故雨の日に思い出すのだろうといつも不思議に思う。
致命傷は、死んだ今でも細い痕になって残っている。
罪悪感とか、後悔とか。
人間らしい感情を覚えたのは最初ばかりで、だんだん傷跡があることに慣れてしまい、それすら感じなくなった。
そうして人間らしくなくなっていくんだろうな、と思った。
彷徨ってきた、永い、永い年月。
どこからも受け入れてもらえないと分かったとき、絶望するよりも安堵した。
このままひっそりと生きるのもいいかと思ったんだ。
誰かと手を取り合うことも、抱き合うことも、生きることすら、永い時間の狭間でだんだん忘れていった。
一人が寂しいと思わなくなった頃から。
私はこのところ逗留している森の中の、ひんやりとした清流に足を浸して、躰に巻いた白い布がゆらゆらとたなびく様子をぼんやりと見ていた。
草木は死んだように静まりかえり、生き物がいる気配もない。
あたりは5m先も見えないほどの濃い霧と、雨の降るにおいが立ち込めていた。
パシャッ
不意に水が跳ね、背後の草木がざわめいた。
前にもこんなことがあったな、と思いながらいつだっけと考える。
……ああ、あいつに初めて会った時だ。
死ぬという恐怖は植物にもあるものなのだろうか?
ゆっくりと振り向き、そこにいる人物が自分の予想と合っているか確認した。
「…また、会ったね」
「ああ」
漆黒のマントに身を包んだ男は、目深にかぶったフードをとりながら答えた。
そこから零れたのは鈍く光る銀髪。
「何であんたに会うときは霧の中なの?」
「おれに聞くなって」
整った顔立ちには、彼の上を過ぎ去った年月の分だけ影が見られた。
それでも、まだ若いといえるだけの容貌。
「たしかに。……お茶、飲んでく?」
「住んでるのか?」
ダークグレーの瞳をさも意外そうに見開く、背の高い痩せた男。
「ちょっと使わせてもらっているだけ。春にはもう出てくよ」
先に立って歩き出すと、足元の草がカサカサと乾いた音を立てた。
★
木こり自身が切り出した丸太で造られたという小屋は、杉の香りが強く立ち込めていて、人など住んでいないようなすさんだ匂いがした。
レイは熾火の中に新たな薪をくべ、少し大きくなった火の上に小さなやかんをかける。
部屋の中はその暖炉の明かりとひとつのランプしかなく、かなり薄暗い。
ぱちぱちと爆ぜ、大きくなろうとする炎を見ながら、おれは口を開いた。
「こんどこそ、レイは消えてて、もう会うことはないと思っていたんだがなぁ。またはずれた」
軽い調子で言ったその重い言葉を、レイはすぐに切り返して逆襲してきた。
「私が死んだって確認が取れるの? 消えて何もなくなるって聞いたけど。ていうか、イールの予想が当たるなんて、太陽が消えてもあり得ないわ」
またまた、と苦笑いしながら椅子の背にコートを掛けた。
「で、この10年間はどうだったの?」
紅茶の缶を開けながらレイが聞いてきた。何でもない声を装っていながら、紅茶の缶が開けられていない。
苦笑して彼女の背後に立ち、頭一個分違う相手の手から、錆びついて茶色い缶をヒョイとつまみ上げた。
「さあ? 別に知る必要もないだろ」
少し悔しそうにしている蜂蜜色の瞳を見下ろして、にこっと笑った。
はい、と渡された蓋の開いた缶を見、おれの顔を見上げて、またそっぽを向いてレイは小さく、ありがと、と言った。
カップにこぽこぽと紅茶を注ぎながら、ぽつりとレイが言った。
「この10年間で2人の同類に会った」
蜂蜜色の瞳は何も映してはいない。
はい、と渡されたカップを手で包んで、躰にじんわりと染み込む温かさにほっとする。
「彼らは私と違った」
彼女もまた同じようにしながら、どこか遠くを見ているようだった。
「それはそうだろう。自分と同じような奴に出会うなんて気持ち悪すぎる」
「そうだけど……」
言い淀んでレイは紅茶に口をつけた。おれもそれに倣う。レモンの香りが鼻腔いっぱいに広がった。
──おじさんの逝きおくれの方は、自分が死んだことに怒っていた。
自分がこんな存在になったのは妻のせいだっていつも言っていた。
呪ってやる、恨んでやる、憎んでやる…って。ずっとその繰り返し。
私もうんざりしてたんだけど、彼が外に出してくれなかった。
…愚痴を言う相手が欲しかったんだと思う。
おれは勝手に紅茶のおかわりを注いだ。
──その日も、彼はやっぱり私相手に愚痴ってた。
だったら奥さんのところに行ったら? って半ば投げやりに言っても、彼はなんのかんのと理屈捏ねまわすだけで何も行動しなかった。
ただの意気地なし。
そうしたら、いきなり捩じれた。
躰が空間に吸い込まれてくみたいだった。
手足が消えたと思ったら、腹部が渦に飲み込まれた。
そこでやっとおじさんは声を出した。
痛かったのかな? 私じゃないからよくわからないんだけど、痛そうに叫んでたその口も頭ごと裂け目に消えて……身に着けていた服も、躰の一部も、何も残らなかった。
おれは何も言わずにそれを聞いていた。仕事柄、逝きおくれを見ることは珍しくないからだ。当然、その場面を目にしたこともある。だからある確証があった。
──もう一人は私より少し年上の女性だった。
彼女は自殺したのに、死にきれていないようなこの状態になったことに絶望していた。
死ねるものならもう一度死にたいと言って、毎日泣き暮らしてたんだって。
私が出会ったのはもう末期の方だったのかもしれない。彼女も私と話している途中に、裂け目に消えた。
やはり、そうだ。
それがたぶん、もう死ぬこともない逝きおくれが永く留まれない理由なのだ。
恨みは自らに跳ね返る。
絶望すれば死ぬ。
そうだとすれば、目の前のこの少女は珍しいのかもしれない。
「きっと私の方が彼らより長く生きているのにね」
レイはクスクスと笑って、もう湯気も上がっていない紅茶に口をつけた。
ここまで、ある意味で純粋な心を持った人を、おれは知らない。
幸か不幸か、それで彼女は生き残ってこれたはずだ。
もともと、無感動な人間だったのかもしれない。
そうだとすれば。
「感性が鋭いってのは、おれたちには無用の長物ってことだ」
レイは、すん、と鼻を鳴らした。
ふん、と言いたかったのかもしれない。
★
とっぷりと日は落ちて、あたりはすっかり暗くなっていた。昼間にあった黒い雲が空を完全に覆い、ぽつぽつと雨が降り始めてきた。梢を吹き渡る風が強い。
とくに話すことが無くなっても、イールは出て行く気配を見せなかった。コートを乾かすだけなのかと思っていたけれど、そうではないらしい。かといって、追い出すような邪魔な奴でもない。
「夜に出て行くわけないよね?」
溶けていくように小さくなる炎をかき集めてその中に薪をくべた。今日はこれで最後の薪だ。明日また切らなきゃいけないかな。
「泊めてくれないの?」
最初からそうするつもりだったように、さも当然のように言われて少し腹が立った。
「聞いてない」
「言ってない」
なんだそれ、と彼を見ると可笑しそうに笑いをかみ殺していた。
「…冗談。なんだか嵐になりそうな気がするんだ、お願い、泊めてください」
こういうお願いをするとき、彼は一体何歳なのかわからなくなる。
懇願している幼子にも見える。
年相応のリップサービスを口にする紳士にも見える。
図々しい老人にも見える。
くそう、泊めてやらないといけないじゃないか。
自分がこういう表情に弱いのは知っていた。
数十年来の付き合いだ。たとえ実際に会うのが10年に1回くらいだとしても、ポーカーフェイスを装うだけの心づもりはあった。
「……しょうがないな」
「やった! サンキュー」
にぱっと少年のような笑顔になる。単純だな、こいつ。
「ベッド、一つしかないから使っていいよ」
「えー、おれ寒いの嫌いだから一緒に寝ようよ」
中年男のくせに、なんだ、そのティーンエイジャーみたいな提案。
「がっついてるみたい」
「かもな」
イールは平然として、普段私が使っているベッドにさっさと潜りこんだ。その『防弾』ガラスのハートの極意を教えてもらえませんかね。
「なんで固まってんのさー」
暢気な声に、一瞬本気で蹴っ飛ばしてやろうかと思った。
「うるさいエロ親父。日本の女には慎みってものがあるの、そう簡単に人のいるベッドに入れるもんですか」
薄っすらと笑みを浮かべて、イールは提案した。
「じゃあ、おれ壁の方を向いてるから。背中なら平気だろ」
「どういう理屈」
反論したときには、すでに彼は背中を向けていた。
溜息をついてランプの明かりを消す。
出会った時もそうだった。
彼は穏やかに笑って背中を貸してくれた。
日本を出るまでそうしていてくれた。
その背中に、私は存在していると感じるのだ。
それが気休めだとしても。
★
背中に振動と温かな体温を感じて、おれはちょっとびっくりした。
「珍しい……」
「うるさい。寒いの、ここの夜」
背骨に背骨があたる鈍い感触がした。
「おれは湯たんぽか」
「じゃなきゃなんなの」
「ひでぇ」
二人して言い合って、二人して笑って。
平和ってこんなもんなんだって、言い合うたびに思う。
それがたまらなく怖い。
けど。
たしかにしあわせだと感じる。
くるん、と向き直ってみる。どうせレイは背中を向けているから。
「こら、背中向けてるんじゃなかったの」
「いいじゃないか、別に」
レイがくすくすと笑って身をよじる。
「…くすぐったい」
脇腹のところから手をまわして引き寄せる。頭のてっぺんに顎の先をうずめる。かかとが足の甲にぺたりと当たる。
彼女はしばらくゴソゴソと身動きしていたが、構わず抱きしめていたら、そのうち大人しくなった。
風の音が強い。冷たい風が窓を震わせて、家の中にまで染み渡ってくるようだ。
「…風。雨も降ってる…」
本当に、今夜は嵐になりそうだ。
嵐の日は、誰かが自分を呼んでいるような気がしてならない。
自分の上を過ぎて行った時と人々。
それらをすべて憶えている。
おれを死ねと罵った人も、激しい戦争のさなかも、助けてくれと足元に這いつくばった人も、華やかな王都のなかも。
それでも、そちらに行けないおれを。
腕の中の温もりを手放せないと思っているおれを、どうか。
(許してほしい、なんて思ってはいけないんだろうな)
「第3次世界大戦、と後世では呼ばれる戦争が9月に始まった。実質的にはアメリカ対中国。中国の社会主義体制が一層強まったからってアメリカは言ってるけど、結局のところ中国が気に入らないだけらしい。アメリカは先進国のほとんどと連合を組んでいる。中国は、北朝鮮とか反アメリカ体制の国と連携を強化して、世界各地で戦線を拡大している。」
ピクン、とレイが身じろぎをした。彼女にとって戦争はトラウマの元凶であるからだ。
その戦いの真っ只中を歩いた。手足をもぎ取られて呻く兵士、頭上を飛び去る戦闘機、怯える子供、疲弊した村…。
アメリカは何を死に急いでいるのだろう。
「おれが思うに、範囲が広すぎだ。中央アジア、日本、アフリカ、中東、西ロシア…。戦地が点在しすぎて統率が全く取れていない。それぞれがバラバラに、アメリカに向かって駄々を捏ねているみたいだ。……半年後にはこのバカげた戦争も終わる。中国は周辺国にバラバラに分断される。アメリカはこの戦争費用が赤字になって国家が崩壊する。結局、誰も助からない……何も残らない」
★
唐突に今の世界状況を話し始めたイールに、どうしたんだろうと思った。
彼は未来の話などしない。
私と話をするときはいつも事実だけだったのに。
「どうしたの?」
──それを私に話して大丈夫なの?
振り向こうとした私の肩を、イールは掴んで止めた。
「見ない方がいい」
なにが、とは訊かなかった。その方がいいのだと。
代わりに彼の手をギュッと握った。
骨ばった手は細かく震えていて、何かに耐えているみたいだった。
「大丈夫。私しかいない」
──私がいる。
冷たい夜のにおいがした。
温かいのは自分たちの躰だけ。
雨はまだ降り続いている。
夜明けは、まだこない。
ハッと目が覚めたとき、背中の温もりは消えていた。
もぞもぞと毛布から這いだし、冷たい床に降り立つとかさりと紙が舞った。
『10年後に、また』
嬉しいなんて、思ってない。
10年は誰にとっても長いから。
それが一度死んだ身であっても。
だから、あの細身の死神に言ってやる。
「……逢いたいなんて言ってないのに」
くそう、声が掠れた。
世の中を彷徨う私たちにとって、未来とはこんな風に、自分の周りは穏やかで、世界はすごいことになっていると思うんです。
それを体感しているのが、多少、ズレた人々なだけで。
多分、彼らの話はバラバラに、散発的に書くかな?
お読みいただいて感謝感激。