娘
【チャペル】
紅く柔らかい絨毯の上を、ゆっくりと止まるような速度で歩いていた。
しかし、一歩一歩、人生を噛み締めるような力強い足取りに見えただろうが、実際はふわふわと雲の上を歩いているような気分だった。
左腕が熱を帯びていた。
さっきから心臓が微かに高鳴っていた。
正面を見つめている私の視点は定まっていなかったが、意識はしっかりとしていた。
少しずつ、少しずつだが、私の人生にとって最初で最後になるだろうと思われる、最高の喜びと最大の切なさが合わさった一瞬が近づいていた。
正面には、七色のステンドガラスが壁一面に張られ、白く輝く十字架がこちらに向かって掲げられている。
その下に、黒い洋服を纏って、聖書を片手に微笑んでいる牧師が立っている。
そして牧師の前には、緊張で顔を強張らせている、新郎の沢崎賢一郎が立っていた。
礼拝堂は厳粛な雰囲気に包まれていた。
私の左には、私の腕を軽く取って、歩調を合わせている一人娘の夕紀がいた。
彼女の心臓の鼓動がはっきりと聞こえてくる。
一歩一歩、ゆっくりと、まるで賢一郎を焦らすように、絨毯の上をすり足で歩いていく。
私の腕を取る夕紀の右手は、白い手袋をしている。
純白のウエディングドレス。
白いヴェールの中の表情は私には見えない。
綺麗、素敵、お人形さんみたい、という囁きがかすかに耳に入ってくる。
先ほど控え室で目にした夕紀の花嫁姿が目に浮かび、目頭が熱くなってくる。
控え室での神妙な挨拶はなかった。
というより、私がそれを避けていたようにも思える。
なんだ、馬子にも衣装だな、などと冗談を言って誤魔化していた自分が可愛らしくも感じる。
まだ早い・・・
こんなときに父親が先に泣いてはみっともないと思いながらも、自然の摂理には逆らえない。
静かだ・・・何の音も聞こえてこない。
パイプオルガンの演奏も、出席者たちの拍手の音も、私の耳には入ってこなかった。
私の心臓の高鳴りと、夕紀の緊張した動悸だけが私の身体に伝わってきていた。
26年間、長いようであっという間の年月が、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡っていた。
夕紀が生まれたのがまるで昨日のように思い出される。
【生誕】
6月1日の午後4時過ぎ、30歳の私と26歳の妻の祥子に待望の赤ちゃんが生まれた。
妻の希望どおり、私の期待どおり、小さく可愛い女の子だった。
結婚3年目で出来た子供だった。
大きな仕事をやり遂げた妻に会う前の、わが子との対面となった。
看護婦から手渡されたとき、緊張と嬉しさで身体ががちがちに固まっていたのを憶えている。
髪の多い、色の白い赤ん坊だった。
白雪姫のようだった。
そう、白雪姫を連想したことで、名前が夕紀になったような気がする。
汚れを知らない純白そのものだった。
目は閉じていたが、私に抱かれてちろっと舌を出した表情は、多分一生忘れないだろう。
私がパパだよ・・・
桃のような頬を指で撫でながら、そう語りかけた。
父親になった自覚はまだなかったが、生きることへの執着と責任が多少出たような気がした。
赤ん坊を看護婦にそっと手渡したあと、病室の妻を訪ねた。
祥子の幸せそうな笑顔を見たとき、祥子と結婚したことの喜びと、これからの人生の期待みたいなものを感じた。
わが子が妻の横で静かに寝息を立てていた。
小さな手を、ぎゅっと握って小さく震えていた。
目が大きくて、鼻と口が小さい、妻にそっくりな顔を見てホッと安堵したことを憶えている。
今の自分は世界中の誰よりも幸せだと感じていた。
子育ては思いのほか大変だった。
おそらく比較的大人しい赤ちゃんだったに違いないが、それでも赤ん坊は赤ん坊に違いなかった。
娘中心の毎日だった。娘優先の生活だった。
それでも日々の生活に張り合いがあったことは確かだった。
仕事の充実感、家に帰る足取りも軽く、妻と娘と過ごす時間が最も楽しいと感じる日々だった。
だが、幸せは長続きしなかった。
【別れ】
生後4ヶ月を過ぎた頃、妻の身体に異変が生じた。
微熱が続き、身体のだるさを訴えていた。
子育ての疲れ・・・誰もがそう思った。
顔色も悪く、いっこうに治らない妻に病院へ行くことを勧めた。
診察の結果、妻は急性白血病に罹っていることを言い渡された。
愕然とした。
信じられなかった。
現実味がなかった。
何故自分が・・・何故夕紀の母親が・・・
途方に暮れた。
長期にわたる入院生活を余儀なくされ、娘は妻の実家に預けることになった。
4ヶ月の乳児が母親から引き離されてしまったのである。
そして、私もまた妻と子供の二人から離れて生活しなければならなかった。
今は妻の傍にいなければならない。
娘への想いと妻への想いが錯綜するなか、自分自身が誰よりもしっかりしなければならないと言い聞かせて、毎日を送っていたと思う。
7ヶ月間の闘病生活の後、退院した妻を力いっぱい抱きしめて、もう絶対離さないと誓った。
これから3人で幸せになる。
これでやっと父親になれる、そう思った。
妻は通院しながらの生活になったが、それなりに幸福だったと思える。
だが、2年半経って妻は病気を再発し、それから半年後に帰らぬ人となってしまった。
母親のぬくもりを一番必要な時期に、夕紀はそれを感じることなく大切なものを失ってしまったのである。
そして、この私も。
生きる希望、注ぐ愛情を失って、私は妻を追い駆けることしか考えていなかったと思う。
4歳になったばかりの娘が、仏壇に向かって手を合わせ、
「夕紀はいい子になるからね。ママは安心してお星様になってね」
と言っている姿を見て、私は自分の愚かさを知った。
生きる希望、注ぐ愛情を失ったわけではなかった。
妻のためにも、妻の分も、自分はしっかりと生きて、この子を育てなければならないのだ。
私は夕紀をしっかりと抱きしめていた。
【歩み】
娘の夕紀がかすかにこちらに視線を投げた。
私もつられるように娘を見る。
ヴェールのなかの娘の目は潤んでいた。
「今までありがとう・・・」
呟くような小さな声だったが、はっきりと私の耳に届いた。
私は無言で頷くしかできなかった。
何故今頃になってそんなことを言う?
こみ上げるものがあった。
視界がぼやけた。
あと数歩で、娘は私の腕から離れて、目の前にいる賢一郎のところへ旅立つ。
賢一郎は、娘の伴侶としては申し分なかった。
娘にしては上出来だった。
26年間の子育てから解放される喜びよりも、26年間があっという間に過ぎ去った寂しさの方が上回っていた。
いつかはこの日が来る、そう覚悟はしていたものの、実際に訪れてみると、その寂しさと切なさと、安堵感と空虚が入り混じって押し寄せた。
「パパも幸せになって・・・もうママも許してくれると思うわ」
夕紀が正面を向きながら囁いた。
私は何度も頷きながら、「心配するな、自分のことだけ考えればいい」
そう言うのが精一杯だった。
私の腕を掴む夕紀の手に力が入った。
肩が小刻みに揺れているのがわかる。
「泣くな、幸せになるんだから」
私は静かに言った。
娘は大きく頷いて、「パパ、ありがとう」ともう一度言った。
「彼を大事にするんだぞ」
そういい終わったとき、目の前に賢一郎の緊張した笑顔があった。
【告白】
「わたし、結婚したいんだけど・・・」
夕紀から突然そう言われたのが3ヶ月前だった。
夕食後に洗い物をしている夕紀が何気なく私に告げた。
新聞から顔を上げた私は、いつかこの台詞を聞かされる日がくることを予感していた。
私は、いつの間にか色気が出てきた娘の後ろ姿を見ながら、夕紀が私の面倒を見るのも潮時ではないかと感じていた。
娘に付き合っている男がいることは知っていた。
そういう年頃なのだ。
そして、そろそろ私から解放してやらねばならない時期にきていた。
父一人、娘一人の家族なので、比較的何でも話せる関係だったと思う。
はたから見ると、親子というより友達感覚だったかも知れない。
一人っ子で、多忙な父親と離れて暮らしていたわりに寂しさをあまり感じないでいたのは、私の両親と死んだ妻のご両親の配慮があったことと、そして私の兄弟や従兄弟に子供が多かったためだといえる。
子供好きの優しい娘に成長したのは、死んだ妻の血がしっかりと入っていたことを意味していた。
人並みに反抗期はあっただろうが、実家の両親に預け、仕事に翻弄されていた彼女の思春期は、父親らしいことが碌にできない日々だった。
夕紀の小学校時代は、私よりも私の親父の方が父親らしく、運動会や発表会にはビデオとカメラを持って右往左往していたような気がする。
中学時代、高校時代と彼女は溌剌とした時間を過ごしていた。
世間では父親が敬遠される年頃なのだろうが、夕紀に限ってはそんな気配もあまり見せずに、映画を観に行ったり、遊園地に出かけたりしたこともあった。
さすがに一緒に風呂に入ったのは小学校4年生までだったが、それでも私にべったりとくっついている中学生の娘の存在があった。
勿論、私も年頃の娘には気を遣い、必要以上には近づかないように心がけていたと思う。
最初に彼氏が出来たと告げられたのは高校1年の時だったが、あまり長続きはしなかったようだ。
大学では何人かとつきあっていたようだが、極力干渉しないようにしていた。
保母になりたいと言ったときには、婚期を逃すのではないかと心配したが、賢一郎のような男を捕まえられたのだ、それも杞憂に終わったようだ。
「おまえが信じた男なら、私は何も言うことはないな」
覗き込む夕紀に向かってわたしは微笑んだ。
「いいの?」
「いいも悪いも、おまえが決めた相手なんだろ? パパがとやかく言うことじゃないよ」
私は優しい眼差しを夕紀に向けた。
「でも、パパが一人になっちゃうから・・・」
夕紀が沈んだ声を出して俯いた。
「心配するな。自分の幸せだけを考えろ」
私は力強い声で夕紀の肩を叩いた。
妻の祥子が他界したのが34歳のとき。それ以来22年間、私は独身を貫いてきた。
「昔、わたしがママなんかいらないって言ったから再婚しなかったんでしょ?」
夕紀が申し訳なさそうに呟いた。
「勘違いするな。パパにその気がなかっただけだ」
「ほんと?」
「娘のために結婚しないなんて、そんな思いやりのある男だと思うか?」
私はおどけるように夕紀を見つめた。
「母親の代わりをさせて悪かったな。もう私の面倒はいいぞ。大切な人のために、その優しさと思いやりを使いなさい」
夕紀はかすかに微笑んで、「ありがと」と小さく呟いた。
「幸せになれよ」
夕紀はしっかりと頷いた。
【旅立ち】
賢一郎に向かって一礼すると、私は娘の腕を解いて、それを前に差し出した。
「娘を頼む」
賢一郎は、私をしっかりと見つめて、
「必ず夕紀さんを幸せにします。でも、これからもずっと彼女の心の支えでいてください。彼女の父親はお義父さんしかいませんし、彼女のお義父さんへの愛情には叶いませんから」
賢一郎は軽く微笑むと、夕紀の腕を取って自分の方へ引き寄せた。
こちらを振り向いた娘の瞳から一筋の涙が頬を伝った。
夕紀は微笑んでいた。
26年間で一番の笑顔を見たような気がした。
「パパのこと、これからもずっと好きだから・・・いつまでも元気でいてください」
あんなに小さくて無邪気だった子供が、大人の女になった瞬間だと思う。
ヴェールの中の表情は、あの日の妻の祥子の笑顔と同じだった。
【終】