相続された檻
相続したのは家ではなく、 ゆっくりと主人を喰う“檻”だった。
坂下はるきは、佐藤良江の存在を、煩わしく思っていた。
彼女は彼の帰宅を待ち、ポストに手紙を挟み、夜の窓をじっと見つめた。好意だと言う。
だがそれは好意ではなく、粘着質な執着だった。はるきは何度拒んでも、良江は微笑んだまま距離を縮めてくる。面倒だった。耐え難く、面倒だった。
両親が残した古い家を相続したとき、はるきはある考えに取り憑かれた。
その家は山際にあり、夏になると周囲の草むらからマダニが這い出してくる。
彼は密かに、庭の落ち葉を集め、湿った木材を積み、家の床下と壁の隙間を、ダニにとって理想的な巣にした。
良江をそこに住まわせればいい。自分は「海外出張」と偽り、二、三ヶ月姿を消す。帰国したら結婚しよう、と約束する。
その前に、互いに保険をかけて受取人を指定しておこう――もしものことがあったら大変だから、と。はるきは丁寧に説明した。
「僕の実家は静かで、君が落ち着くと思う。猫や犬も連れてきていいよ。帰ったら一緒に暮らそう。」
良江は目を細めて喜んだ。だが、彼女は家には入らなかった。
「猫と犬がいるから…彼の実家を痛めてしまうかもしれない。」
それを知ること無く、はるきは偽りの出張へと旅だった。二ヶ月後。
はるきは「帰国」した。良江の体が、マダニの媒介するウイルスに蝕まれていることを想像しながら、実家の門をくぐった。
鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れる。埃の匂いと、湿った木の腐臭。床を軋ませながら奥へ進むと、リビングの畳が妙に柔らかく沈んだ。
何かに触れた。足首に、微かな引っかかり。はるきが懐中電灯を灯した瞬間、床一面が動いた。
黒い点々が、波のように盛り上がり、壁を伝い、天井から落ちてくる。飢えたマダニの群れだった。
彼が丹精込めて育てた巣が、今、主人を待っていたのだ。
「…良江は、来なかったのか…」
はるきは呟いた。声が震える。ダニはすでに靴の隙間から、靴下の下へ、皮膚の温もりを求めて潜り込んでいた。
かゆみではなく、深い、じわじわとした痛み。彼は退路を探して振り返ったが、玄関の方向もすでに黒い膜に覆われていた。
外では、良江が犬のリードを握り、静かに家を見つめていた。
猫が彼女の足元で喉を鳴らす。
「…おかえりなさい、はるきさん」
その声は、家の中には届かない。
だが、家はもう答えていた。
罠として育てられた巣は、最後まで主人を待ち続け、そして、主人だけを飲み込んだ。
良江は犬のリードを軽く引き、ゆっくりと背を向けた。
足元の猫が、かすかに喉を鳴らした。
家は静かだった。
もう誰も、呼ばない。
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