死ねば幸せになれますか?
死と言われるとどういうものをイメージするだろう。 答えは人によってまちまちのはずだ。死との距離感によってもイメージは当然変わる。僕にとってはどこにでも転がっているようなもの、例えばそれはバナナの皮の形をしていた。
1
通った記憶のない道を歩いている。ただ迷うことはなかった。分かれ道に来てもどちらの道に行くべきか、確信をもって理解できる。意識の上では初めて通る道なので、とても奇妙に感じるが、最近はこんなことばかりなのでもう慣れてしまった。ようやくたどり着いた目的の居酒屋にも既視感がある。通いなれているはずのバイト先、あるいは初めて行く場所、どちらの表現が適切なのか迷うところだ。
まだ開店前で自動ドアがセットされていないので、自力で扉を開けると来客を知らせる鐘の音が鳴る。その響きも聞きなれた感じだ。店内にいたマスターが音でこちらに気が付く。準備はもう終わっていたようで、カウンターに片肘をついてぼんやりとテレビを眺めていた。
「おはようございます」
声をかけられる前にこちらから挨拶する。もう夕方だというのに口から出たのは「おはようございます」という言葉だった。少し違和感を覚えたが、アルバイトの挨拶はそういうものだという知識が頭の中によぎる。マスターが眠たげな声で返事をする。
「おはよう。体調は大丈夫そうなの?」
「はい。体の方は特に問題ありません。精神面については何とも言えないところはありますが」
「記憶喪失ねえ。本当にあるんだそういうのって。バナナの皮に滑って転ぶだけでも漫画か何かみたいなのに」
マスターによると先日のバイト中に閉店作業でゴミを片づけていた僕はゴミ置き場で倒れていたらしい。状況から察するにそばに落ちていたバナナの皮に滑って倒れていたようだと。あまりにも間抜けだ。
そのまま病院に運ばれてめざめたところから僕の意識は始まったわけだ。それ以前を持たない人間として。ひとまず迷惑をかけたはずだから挨拶に来たのはいいものの、少し居心地が悪い。意識を取り戻した後、かかってきた電話で軽く話はしたものの、僕の認識では初対面なのだ。手振りで座るようにうながされたので、隣の席に座ることにした。
「まあ大丈夫そうでよかったよ。とりあえず店の方は心配しなくてもいいからしばらく休んでいてくれていいよ。一応保険もおりることになったから、君の収入も心配しなくていい」
「はあ……」
そうは言われても、記憶のない僕には他人事のようにしか受け取れない。
「しいて言うならこっちのシフトに人が足りるかだけどもともと君が入りすぎていたくらいだからね。バランスをとって他の人に回してもいいくらいだ。なんなら君が復帰した後も少しくらい減らしてくれてもかまわないよ」
……復帰か。そもそも働いていた実感もないのに復帰の話をされても戸惑ってしまう。現実的には働かなければ生きていけないのだけれど。一旦その話は置いておいて質問をすることにする。そもそもこの質問をすることが今日ここに来た理由のひとつだった。
「いきなり聞かれても困るとは思うんですが、僕は……、どんな人間だったんですか?」
マスターは少しの間、考えるように視線をさまよわせた。
「真面目でよく働いてくれていたよ。シフトを入れ過ぎじゃないかってこっちが心配になるくらい。ちょっと他のバイトの子からはこわがられていたけど、休みたいときとかには頼めばだいたい代わりに入ってくれるから頼られてもいたみたいだった」
「……こわがられていた、ですか」
自分がこわがられているところなど想像もできない。いやそういう判断をするには僕には経験というか記憶が足りなすぎるのだけれど。
「そうだね。たぶん余裕が無かったんだと思うけど、人と関わることが苦手そうで、見るからに話しかけるなって雰囲気を出してたね」
……想像ができない。マスターはここで少し間を置いた。少し考える様子を見せていたが、ひとつ頷くと、一度立ち上がりテレビを消す。そして真面目な顔をして座りなおした。
「知っておいた方がいいと思うから話すよ。君の家族について」
……そういえば僕にも家族というものがいるはずなのか。木の股から生まれてきたわけでもないだろうし。その割には記憶喪失になったというのに、周りからそう言う話は出て来なかった。思わず姿勢を正してしまう。まさかもう死んでしまっているとかだろうか。
「細かいところまでは知らないよ。でも仲がとても悪かった、と聞いている。そのために大学は実家から離れた大学に来て、距離を取ろうとした。それでも干渉してきたから絶縁した。私が知っているのはそのくらいだね」
「……」
「たぶん連絡は受け取れないようにしているはずだけど、念のため伝えておいた方がいいと思ってね。仮に向こうから何か連絡が来ても無視した方がいいと思う」
……絶縁。実感のわかないその言葉が、重いはずなのに、なぜだか安堵を伴って感じられる。戸惑っている間に話題は次に移っていた。
「それにしても、記憶喪失だからだろうけど、随分雰囲気が変わったね」
「雰囲気、ですか」
「さっきも言ったけど、以前の君は人を遠ざける雰囲気だったからさ。今は随分と落ち着いて見える」
落ち着いて見える。そうなのだろうか。記憶が無いのだから実感が湧きようがない。まあ前より落ち着きがなくなったと言われるよりはいいだろうか。
そこでマスターは時計の方を見た。僕もつられてそちらを見る。この時間ならそろそろ開店準備をしなければならないとなんとなくわかる。マスターが話を切り上げる前にこちらから立ち上がる。あまり迷惑はかけたくない。
「今日はありがとうございました。ご迷惑でなければまた働かせてください」
「それは構わないけど、しばらくは休みなよ。保険の話とかいつから復帰するかとかの話は、また電話する」
「はい。よろしくお願いします」
それだけ話して店を出ようとしたところで、マスターが思い出したように付け加えた。
「店の裏に君の自転車がとめてあるから乗って帰りなよ」
なるほど。事故があっては持って帰れなかったのだろう。どうりで徒歩だと遠いと思ったわけだ。
2
どうやら僕には友達がいないようだった。記憶喪失の件については既に噂になっているようなのに、この一週間、遠巻きにされるばかりで話しかけられたことは一度もない。一応、講義内容についての知識は言われれば「ああ、あれのことか」と思い出せるので最低限困りはしていない。ただ人間関係についてはどこにとっかかりを見つけたらいいものかわからない。
この日の講義も周囲の席には誰もおらず、孤独感すらあったものだ。もっとも最前の席に座っている僕にも問題があるのかもしれない。なんとなくそうでないと落ち着かないのだ。以前の僕の習慣に思いをはせつつ、帰り支度をしていると、珍しくこちらに近づいてくる人影があった。
三人組。男子が一人に女子が二人。一人の女子を残りの二人が守るように前に立って、こちらに向かって歩いてきている。
少し気後れはしたけれど、これははじめての「とっかかり」だ。鞄の紐を握りなおす。こちらの視線に気が付いたようで、男子が声をかけてきた。
「噂になってるんだけどさ、記憶喪失って本当の話?」
探るようにこちらを見る視線が気になりはしたものの、質問自体は明快だ。
「本当です。あなたたちと話すのもはじめてくらいの気分です」
これはちょっとした冗談だ。たぶん以前の僕だって話したことはないだろう。ただそれを聞いた三人の反応は奇妙だった。後ろの女子に二人の視線が集まる。その女子もビクリと反応したように見えた。なにかあるのだろうか? 話したことがあるのかとも思ったが、それにしては変な反応だと思う。
視線に気づいたのかその子はこちらを見て口を開きかけた。だが言葉にならないようだ。魚か何かのように口をぱくぱくさせている。見かねたのか男子が再度口を開く。
「あー、話したいことがあるんだけど。ここじゃなんだし、ちょっと学食でも行かない? 昼ごはんこれからだろ」
「はい。構いません」
三人が戸惑ったように顔を見合わせる。即答過ぎたのだろうか。ただ僕としてはこの「とっかかり」を見過ごすわけにもいかないのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
うながして歩き出す。三人はまだ戸惑っている様子だったが、一拍置いて追いつくと、横に並んで歩き始めた。正直言って道に広がって歩くのはあまり好きではないが、まあここでそれを言い出すのも野暮だろう。
学食までは彼らのやりとりを聞きながら歩いた。聞いている感じ、男子の名前がショウタくん、後ろに隠れていた女子がユズキさん、もう一人の女子がハルナさんらしい。たまにこちらに話しかけようとする雰囲気もあるのだが、ちょっと話題が出てこないようだ。ショウタくんが何かを言いかけて止めるような気配を感じることが何度かあった。どうも三人のなかでは彼が会話のバランスをとる役目を担いがちなようだ。まあ歩きながらでは初対面の探り合いをするのは難しいだろうし、その辺りは学食についてから落ち着いて話せばいいだろう。
学食にはそれなりに人が居た。ただ話す場所を確保するのに困るほどではなかった。四人で思い思いの料理を注文し、四人掛けのテーブルを探して座る。とは言えすぐに本格的な会話に入るわけではない。まずは食事をある程度片づけないと。
最初のうちは食事の手を動かしながらの軽いやり取りが続いた。ショウタくんがハルナさんに先ほどの講義内容がわからないと愚痴を言って、ハルナさんが説明したり。流し聞きをしながら正直そこまで難しかったとは思わなかったななどと思うが、ふとそれは今の自分の手柄ではないな、と思い至った。ユズキさんもときどきは会話に参加していたが、それよりもこちらの様子が気になっているようだ。ときどきじっとこちらを見つめてきて、目が合うと慌てて逸らしている。話しかけてきたときも後ろにいたし、人見知りする性格なのだろうか。
そうこうしているうちに食事はひと段落した。僕の選んだメニューはカツ丼だったが、カツが良い出来で、おいしかった。次はカツカレーとかもためしてみようかな。などと思いつつ三人の様子を見る。味わいながら食べていたせいか、食べ終わったのは僕が最後だったようだ。少しの間の後、ショウタくんが話しかけてくる。
「今日来てもらったのはさ、もちろん記憶喪失の件があって話してみたかったっていうのもあるんだけど……」
そこでショウタくんはユズキさんの方をちらりと見た。
「ユズキがずっと君に話したかったことがあって、今なら話せるかもっていうから、そのためなんだ」
その言葉にユズキさんを見る。ユズキさんは僕の視線に一瞬ビクリとした。その動揺を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから口を開く。
「あの、覚えてないと思うんですけど……。半年ぐらい前に助けてもらったことがあるんです」
ユズキさんの視線はテーブルに落とされていて目が合わない。この状況で僕だけユズキさんを見るのも悪い気がして視線の置き所に困ってしまう。僕の戸惑いに気が付かずにユズキさんは続ける。
「大学で変な勧誘をされていたことがあるんです。ショウタとハルナも居なくて、私どうしようもなくって。固まっていたらあなたが助けてくれました」
以前の僕はなかなかいいやつだったらしい。
「でもすごい剣幕で、私、勧誘してきた人よりもあなたの方がこわくなって……。助けてもらったんだからお礼を言わなきゃいけなかったのにそれもできなくて……」
前言撤回。助けたのにこわがられるって以前の僕はどういう人間だったんだ。
「ユズキずっと気にしてたんだ」
ユズキさんの言葉が途切れたのを気にしたのか、ハルナさんが言った。
「助けてもらったのにお礼も言えなかった。しかも今もこわくて話しかけられない。こんなのすごく失礼じゃないかって。あたしらも話を聞いて話す機会を作ろうとしてたんだけど、いかんせん上手くいかなくてさ。いやあたしをびびらせるとは大したやつだよあんたは」
だから以前の僕はどんな人間なんだ。
「それでお礼を、ってことだったんですね。僕としては実感が無いですが、きちんと筋を通してくださってありがとうございます」
ユズキさんは数秒逡巡してから、顔を上げて僕の目をまっすぐ見た。視線は少し揺れているが、はっきりとした口調で言う。
「ううん。お礼を言われるようなことじゃないし、まだちゃんとお礼を言ってない。助けてくれて、ありがとうございました」
ユズキさんのことを思う。こわい人間に助けられてお礼も言えなかった。それを半年も抱え込み続けていた。真面目だなあと思う。ただ同時にその真面目さは好ましいと感じた。あとは自分がこわがらせた側じゃなければいい話なんだけど。自分が受け取るべきかもわからない感謝に向けて答えを返す。以前の自分だってそこまでへそ曲がりではないと思いたい。
「はい。確かに受け取りました」
この言葉で場の緊張がゆるむのを感じた。ユズキさんは当然だが、ショウタくんとハルナさんもそれなりに緊張していたようだ。ショウタくんが声に安堵をにじませながら言う。
「よかったよかった。これで解決ってことで。それとさっきの話が本題なのはそうなんだけどさ、君と話してみたかったっていうのも本音なんだよ」
「そうそう、あんた以前みたいに話しかけるなって雰囲気でもなくなってるしね。一度話してみたいなと思ってたんだ」
それから僕たちは色々な話をした。ショウタくんは話を振るのが得意らしく、さほど会話上手とも言えない僕からもいろいろな言葉を引き出してくれた。ユズキさんは自分からはそれほど進んで話すタイプではないようだ。ただそれで別に困ってはいないらしい。自分以外の人が話しているのを楽しそうににこにこ聞いている。ショウタくんもそれを知っているのか無理に話を振ろうとはしていない。
ハルナさんと話が合ったのは意外だった。ハルナさんは夢というか目標が有って、この大学に入学してきたらしい。そのためいつも講義室の最前にいる僕のことは熱心な学生として気になっていたようなのだ。ハルナさんが振ってくる講義内容についての議論に僕はなんとかついていくことが出来た。もっともこれは今の自分のおかげというよりは実体のない知識だが。
学食をでて三人と別れるときにハルナさんは言ったものだ。
「あんたと友達になれてよかったよ。こういういい方もよくないかもだけど、以前のあんただったらこうして話しかけられなかっただろうから。記憶喪失も悪いことばかりじゃないな」
一人自転車で帰りながら考える。なるほどこれが友達か……。悪くないな。
3
記憶喪失の噂はどうやら学生の間だけにはとどまらなかったらしい。学生相談室とやらから連絡が来たのは記憶を失ってから二ヶ月ほどたった後のことだった。記憶を失う前の僕が何度か通っていたらしい。記憶を失ったと聞いて心配だから、良かったら一度相談に来ないかという誘いだった。
過去の自分を知る機会とあれば僕の方にも興味がある。それに相談に乗ってもらえるというのならば、記憶喪失の現状についてもなにかアドバイスが貰えるかもしれない。僕に異論は無かったので誘いを受けることにしたのだった。
学生相談室は講義が行われている区画からは少し離れた、保健センターという建物の中にあるらしい。保健センターへの移動は少し手間取った。以前のようになんとなく行くべき方向がわかることを期待したのだけれど、今回はそうもいかなかった。どうやらそれほど足繁く通っていたわけではないらしい。手近な構内図を参照して、ようやくたどり着くことができた。
相談室の前で一息つく。なんとなくの緊張感。以前の自分は顔見知りだったのかもしれないけれど今の僕にとってはそうではない。ただそれだけでは説明がつけられないような気がしていた。自分の過去を知ることがこわいのだろうか。いまさらだろう。状況を変えるためには前に進まねば。ノックをして、「どうぞ」の声を確認してから扉を開けた。
「失礼します」
パソコンの前に座った男性がこちらを向いている。相談員という言葉にふさわしい落ち着きを感じさせる年配の男性だ。少し白髪交じりでいかにも経験の豊富さを感じさせる。
「今日はよく来てくださいました。そちらにおかけください」
手振りで椅子を示されたので、おとなしく座ることにする。
男性は机を挟んで向かい側の椅子に腰かけると、手に持ったファイルを机の上に開いた。おそらく僕の情報が記録されているファイルなのだろう。ゆっくりと視線をファイルからこちらに移し、穏やかな声で言った。
「私はあなたの担当をしていたシバサキと申します。またよろしくお願いします。体調はいかがですか? 記憶喪失になったと聞いたときは驚きました。まさかそんなことが現実に起こるだなんて」
「おっしゃる通りだと思います」
僕だって自分のことでなければこんなことそうそう信じることはできなかっただろう。ただシバサキさんの反応はどこか他の人とは違う気がした。記憶喪失のことをそんなに心配していない。なんとなくそういう印象を受けた。合っているのかはわからないけれど。
「今日は記憶喪失になって困りごともあるだろうということで、一度お話をとお呼びしました。私の専門はカウンセリングですが、窓口としては学生生活全般に対応できるようになっています。もし何か困りごとがありましたら遠慮なくおっしゃってください」
「はい。ありがとうございます。困りごとといってもすぐには出てこないのですが……」
記憶が無いので自分が何に困るべきなのかもわからないのが現状だ。ひょっとしたら意識していないところで何かまずいことが起きていることをさっぱり忘れているだけかもしれない。今日ここに来たのはそういう心配を減らすためなのだ。社交辞令的な会話なんて苦手なので、早速本題に入ることにする。
「記憶を失う前の僕はここに何を相談しに来ていたのか、それが知りたいんです。その頃の困りごとに記憶のないまま対応しないと行けなくなってしまうことを心配しています」
バイト先のマスターから触りだけ教えてもらった家族の件。マスター自身も詳細まではたぶん知らないだろう。詳細を知りたければ聞くべきはその問題を相談していた相手だろう。つまり目の前に座っている人がその候補ということになる。
シバサキさんはその言葉聞くと軽く息をついた。
「実はそういわれるんじゃないかと思っていました。あまり楽しい話にはならないと思いますが、いいでしょうか?」
「もちろんです。一応触りだけは他の人から聞いたので、ろくでもないことなんだろうなとは思っています」
覚悟はして居たつもりだったが、実際に聞いた内容は予想以上だった。子供のころから日常的に言葉のそれを含む暴力に晒され続けたこと。兄や妹も暴力をふるうタイプでその世話も少なからず押し付けられていたこと。大学に入学して以降も学費を盾に脅すようなことを言われ、最終的には絶縁をしたことなどだ。これ以上のことについてはここに書くのもはばかられるので省略しておきたい。正直に言って聞いているだけで気分が悪くなってきた。記憶を失っているとはいえ自分の身に起きたことだというのならなおさらだ。
「気分の悪い話ですね。教えてくれてありがとうございました。それだと一応直接の問題自体はもう起こらないと考えていいんでしょうか」
「そうですね。絶縁して以降はご家族からの干渉はなくなっていたようです。だからここでの相談というのもあなたのもてあました感情をどうするのかという話が主でした」
シバサキさんは思い出すようにどこか遠くを見るような目をする。
「私の人生はどうしようもなく傷つけられてしまって、もうそれは取り戻すことができない。それがあなたの口癖でした。ここではそうやって背負ってしまった認知の歪みを治療する取り組みをしていました」
「認知の歪み、ですか」
「経験によって身についてしまった悪い思考の癖と言えばいいでしょうか。あなたの場合は特に人間不信が強いようでした」
その言葉に何かざらりとした感触がした気がした。その意味を考える前に、シバサキさんは続けて言う。
「あなたが何度も通ってくれて、私もできる限りのことをしようとしてきました。けれどなかなか進展がなく、そのうちにあなたの足も遠ざかっていたようです。力になれなかったそういう感覚だけが残りました」
一度ファイルに目を落として、それからまた僕の目を見る。
「こう言っては失礼なのかもしれませんが、私としては記憶を失ってかえって良かったのではないかと思うのです。あなたの過去は間違いなくあなたを傷つけていました。十分に家族と距離を取れた今であればあんなことは忘れてしまった方がいい」
それからちょっと視線を迷わせながら、
「今のあなたはとても落ち着いて見えます。私ができなかったことを事故とは言え記憶を失ったことがかなえてくれた。そう思うのです」
「……そうかもしれませんね」
シバサキさんの言葉が善意から来るものであることは間違いない。ただその言葉はなぜか僕に記憶にないはずのあのバナナの皮を連想させたのだった。踏めば、転ぶ。そんな気がした。
4
自転車を押しながら帰り道を歩く。なんとなく足元を気にしているが、当然バナナの皮など落ちているはずもない。自転車に乗らないのは歩きながら考えたいことがあるからだ。先ほどの相談室での会話の中で覚えたざらりとした感触。その正体を知りたかった。
時刻はもう夕方で日も暮れ始めている。薄暗くなっている大学構内を歩きながら今日言われた言葉を思い出す。認知の歪みという言葉にざらりとした感触を覚えた。記憶を失ったことで直せなかった認知の歪みが直って良かったという言葉になぜかバナナの皮を連想した。それだけのことなのだが、その正体がいまだにつかめないでいる。
そういえばと思った。記憶喪失になって良かったと言われたのは今日だけではない。記憶喪失になってすぐのころにバイト先のマスターに、勉学の話で盛り上がった後にハルナさんに言われたことがある。その時は特に気にしなかったけれど、今思い返してみるとそこにも微かな引っ掛かりを覚える。
三人とも、僕が記憶喪失で変わったことを良かったと言ってくれた。穏やかになった。話しかけやすくなった。楽になった。
でもそれは前の僕はそうではなかったということでもある。つまり穏やかではなかった。話しかけにくかった。苦しんでいた。前の僕はよくなかった。そうではない今の僕はよい。悪意を持って言われたとは思わないけれど、これらの言葉はそういう意味ではないのだろうか。
では前の僕は本当に良くなかったのだろうか。記憶を持たない僕にはわからないことだらけだ。マスターから聞いた僕。ユズキさんとハルナさん、ショウタくんから聞いた僕。シバサキさんから聞いた僕。それぞれ違う、いろいろな側面をもっていたが、苦しんでいた人間であるというのは事実なのだろう。シバサキさんから聞いた話によるとその苦しみが根深い人間不信となっていたようで、こわい、落ち着きがない人物像にも繋がっていたのではないか。
いや、違う。そうではないという気がする。今の自分の論理そのものにざらりとした感触を覚える。人間不信だからこわかった、落ち着きがなかった。その弁護そのものが同じ過ちを犯しているのではないかという直感がある。善意のつもりが何かを毀損しているような感触。その何かとはなんなのか。それが今考えるべきことのような気がしている。
以前の僕、いやあえて彼と呼ぼうか。彼には情状酌量の余地があった。その考え方そのものがずれている気がする。彼はそもそも誰かに許されないといけなかったのか? それが今考えるべきことのはずだ。「苦しかったからこわくても仕方ない」なんて条件付きの弁護はそもそも求められていない。
記憶喪失をある意味での死と呼ぶことはできるだろう。問うべきことはひとつ。彼が幸せになるためには死ななければならなかったのか?
いや、彼は死ななくても幸せになれたはずだ。そう僕は思いたい。苦しんだ彼は苦しんだまま、それでも幸せになる権利を持っていた。必要なかったはずの死がよりによってバナナの皮なんかによってもたらされた。それでもそれだけならここまで違和感を持たなかったと思う。
でも彼の死は追認された。それが違和感の正体だと思う。
認知の歪みを直すという言葉にざらりとした感触を覚えたのも同じ理由だろう。君が君でなくなれば、君が死ねば幸せになれるなんて言葉はどこにでも転がっている。そこに悪意なんて必要ない。バナナの皮のようなものだ。記憶喪失なんて極端な形ではなくたって、踏んづけて転べば誰だって同じ目に遭うこともあるだろう。
苦しんでいた彼は、苦しんだままそれでも幸せになる権利を持っていた。そのはずだ。死は必要ではなかった。
僕は、彼を取り戻したい。僕の人生と彼の人生が切り離されたこと、それを幸運とは呼びたくない。取り戻して後悔しない保証はないけれど、それでも彼に、あるいはかつての僕自身に向けて死を肯定する言葉を投げかけたくはないのだ。なにせ自分自身のことなのだから。
5
ふと思い立って自転車を押す手を止めて、財布から学生証を取り出した。「彼」の写真はほとんど残っていない。この学生証の証明写真ぐらいだろう。写真で見る「彼」の姿は鏡で見る今の自分とは随分と違って見える。中身が全然違うのだからそう見えることもあるのだろう。それと……。
「藤原湊……、ねえ」
自分のものという感覚がいまだにしないその名前を口にする。「彼」のものだという感覚が強かった名前だ。ただ「彼」を取り戻すと決めた以上、この名前にも少しずつなじんでいかないといけない。「彼」を取り戻す方法はまだ何も見当がつかないのだけれど、まずはそんなところからはじめていけばいいのかなとなんとなく思った。
「何やってんの?」
背後からそんな声が聞こえてきた。この声はショウタくんだろう。振り返ると予想どおりショウタくんがこちらに向けて歩いてくるところだった。そのまま横に並ぶと言った。
「学生証なんて眺めて、なんか気になることでもあった?」
「ああ、うん。昔の自分ってどんな顔をしてたのかなってね」
その答えを聞いたショウタくんは少し鼻白んだ様だった。まあ記憶喪失の人間にこんな話をされたらそういう反応にもなるか。ただショウタくんにはまだ話さなければならないことがある。これ以上混乱させるのは本意ではないけれど、友達として聞いてほしかった。
「色々考えたんだけど、どうにかして記憶を取り戻したいと思いました。だからもしかしたらそのうちに友達ではいられなくなるかもしれません」
「……ああ。そういう話か」
ショウタくんは天を仰いだ。「歩きながら話そうぜ」とうながされる。しばらくの間黙って二人で並んで歩いた。考えるような間がしばらく続いた後、ショウタくんはぽつりぽつりと話しはじめる。
「ユズキも君になついてるし、ハルナだって勉強の話ができる相手ができて喜んでる。友達じゃいられないなんて言われたら二人とも残念がるよ」
「ショウタくんはどうなの?」
「俺だって……、もっと話したいと思ってるよ」
それから軽く頭を振って、
「簡単に記憶を取り戻すって言うけど何か方法でもあるのかよ」
「まったく思いつかないなあ」
「だろ。少なくともしばらくは時間があるわけだ。それに記憶を取り戻した君が俺たちを拒むかどうかもわからない。勘違いしているかもしれないけど、君が拒んだからってのもかかわりができなかった理由としては大きいんだぜ」
「……」
そういえばそんな話だったな。ユズキさんの件でかかわりを持とうとしたけれど上手く行かなかったんだったか。
「だから記憶が戻ったら俺たちが離れていくなんて心配はしなくていい。もちろん君の方から関わりたくないというんだったら、そうする権利はあるんだけどさ」
「……その辺は思い出してみないとわからないですね」
「だろ。だからしばらくは遊ぼうぜ。また何か考えるよ」
軽くうなずく。重大な決意だったのは間違いないけれど、少し思い詰め過ぎていたのかもしれない。
「じゃ、俺あっちだから」
ショウタくんが別の道を指さす。それから少し考えて、照れくさそうに、
「またな」
と言った。
少し迷ったけれど、僕も同じ言葉で応じることにする。
「それじゃあ、また」
そうして僕とショウタくんは別々の道を歩き始めた。転ばないように、足元には気を付けて。




