第3話 世界最強になるために
『世界一の剣士になる』
子供の頃、短冊にそう書いた記憶がある。その頃の夢は今も色褪せてない。今はもう少し具体的というか、将来は「警察官」になりたいと思ってるんだ。ジッちゃんみたいな立派な警察になって、いずれジッちゃんを越えるほどの剣豪になりたい。
そう想い続けてきた。
昔も、——これからも。
「強さ」とは何かを考え続けてきたって言った方がいいのか?
…なんつーんだろ。
強いってのはどういうことなのか、「最強」がどこにあるのか、その答えを探し求めてきた。とにかくずっとモヤモヤしてたんだ。強くなったってライオンには勝てない。人間が生身で勝てるのはせいぜい限られた界隈で、下手すりゃ猫にだって負ける。それなら強くなったってしょうがないんじゃないのか?って思うこともあった。
だってそうじゃね?
いくら強くなっても、それは限られた世界の中でしかない。いっそもっと現実的な価値観に目を向けて、まともな生き方をした方がいいのかなって思った。その方が、金も稼げるだろうし。
ジッちゃんに怒られたことが昔あった。まだ小学生だった頃の話だ。夕方に楽しみだったアニメを見てて、急に画面が切り替わったんだ。
「緊急地震速報」だった。
何気なく言っちゃったんだ。
「邪魔だな」って。
そしたら怒られた。
家にある室内練習場に連れだされ、「竹刀を持て」って、強い口調で。
「ユウト。お前はなんのために剣道をやっている?」
「なんのため?…うーん。強くなるため」
「お前にとって「強さ」とはなんだ?」
「試合に勝つこと」
「…そうか。では、“試合に勝てればそれでいい”と思うか?」
「…思う」
「いいか。よく聞け。「剣」を握るというのは、敵を斬るためにあるわけではない。自分を律するため、自分の心に打ち勝つために握るんだ。小さいお前にはまだわからんかもしれんが」
「自分を、…律するため?」
「剣が届く間合いは、一歩の差によって決まる。その「一歩」は、試合の“中”にあるわけではないのだ」
「…どういうこと?」
「私たちの隣には常に「死」が付きまとう。それは皆平等で、誰一人例外は存在しない。ナイフの切れ味は、1000年前も1000年先も変わりはしない。普段の1秒をどう生きるか。それに尽きているんだ」
ジッちゃんの言葉は重く、それでいて大それていた。
意味不明だったんだ。
“試合に勝つ”
それが全てで、それ以上でもそれ以下でもない。剣を握るっていうのは、“生きるか死ぬかの境界線に立つ”っていうことだ。道場の看板にもそう書いてあった。
『生の中に剣があり、死の外に剣はなし』
これは試合に於ける生死の境界線を謳ったもので、勝負は常に“一度きりだ”という意味が込められている。ジッちゃんは口うるさく俺に言い続けてきた。
「立ち合いは生きる死ぬかの分岐点だ。
竹刀が真剣であったなら、おそらく次はないだろう。だからこそ竹刀を握る為に準備しなければならない。一瞬の未来を切り開くのは、常に「今」しかないのだから。」
子供の頃はなんとなくわかったような気がしていた。言葉の意味っていうか、その意味の中に込められている気迫…?みたいなものが。ジッちゃんの背中を見てきた俺にとって、「生死」っていうのがなんなのかを、わかったような気でいた。
勝つか、負けるか。
そこに言い訳はできず、結果だけが全ての「時間」を支配する。
ようはそういうことでしょ?って、自分なりに解釈してたんだ。どんな手を使っても、生き残ることだけが、「次」を連れてきてくれるのだから。
「ユウト。よく聞きなさい。勝負の境目はすでに“起こって”いる。こうしている間にも、時間は過ぎているんだよ?」
「…それが?」
「私たちが生きている時間には限りがある。それに、選択をする「数」にも」
ジッちゃんはこう言いたいみたいだった。
普段の生活の中で“嘘をつかないこと”。日常の1秒1秒の中に「死」を切り離せる領域がある。全ては「一瞬」だ。一瞬で、物事の運命が決まる。だから一つ一つの選択に気をつけなさい——と、ただ、真っ直ぐ。
それ以来だ。
俺はずっと考えてきた。
ジッちゃんに追いつきたいって気持ちが強かったのもそうだけど、あの日の言葉がずっと残ってたんだ。
「強くなるために剣道を始めたわけではない」
その言葉が、どうしても理解できなかった。
強くなる以外に剣道をやる理由なんてない。
そう思う以外になかった。
「強さ」だけが、あの当時の俺の全てだったから。
「強い」ってなんだろう?
その答えを、直接ジッちゃんから教わったことはない。そんな答えはどこにもないのかもしれない。そう思えるほど、いつも漠然としてた。
なんでジッちゃんは剣道をやってたのか。
なんで、あんなことを言ったのか。
考えれば考えるほどモヤモヤした。竹刀を握り続けるしか、答えを得られないのかもしれないって、——思えた。
「今日こそ決着をつけるときね。葛城ユウト!!」
体育館の観客席で、腕を組みながら見下ろしている女子が1人。凛とした立ち姿。キリッとした鋭い瞳。立体感のあるお嬢様ヘアー(ふわふわポニーテール)が、てっぺんについた黒いヘアアクセサリーの下でクルッとウェーブを巻いている。
学園一、二位を争う美少女と噂されるだけはあり、その存在感は圧倒的だ。彼女が一声あげるだけで、全校生徒は一斉に振り向く。男子はとくにだ。
彼女に目をつけられた生徒は1人残らず退学処分か、自ら登校を拒否するほどの精神的ダメージを負わされるらしい。それはこの校内においてのみならず、——というのだから、その影響力(?)は凄まじい。渋谷区、及びその付近の高校は彼女の縄張りだそうだが、…全く、とんでもないやつに目をつけられたもんだ。こちとら、普通の学校生活を送りたいだけだってのに。
「今日の相手はいつもとは違うわよ?」
「あぁ?」
「さぁ、来なさい!」
バンッ!
体育館のドアが豪快に開くと、そこには、次なる刺客が。
ダボダボのズボンに、裾のはだけたシャツ。
“いかにもヤンキー”って感じのガラの悪そうな男が、くちゃくちゃガムを噛みながら現れた。
今回も他校の生徒かよ…
毎度思うが、こうも易々と他校の生徒を敷地に入れていいのか?いやいいんだろうけど、もう少し節度ってもんをだな…
「…前回よりは弱そうだね」
「そうか?」
前回はそれこそゴリゴリマッチョっていうか、どう見ても高校生じゃねーだろっていうプロレスラーじみた風貌のやつが来たから、剣道部の奴らはみんなビビってた。
そもそも今回のヤツは経験者なのか?
話はまずそこからなんだが、“運動神経がいい”ってだけじゃ話になんないぞ?
そこらへんわかってるんでしょうかね。我が校のお嬢様は。
「今日もいつもと同じルールよ。待ったなしの3本勝負。いい?負けたらわかってるでしょうね?」
…はいはい。俺から別れ話を切り出すって話だろ?しつこく言わなくてもわかってる。最初はそんな理不尽な話が…とは思ったが、どうせろくな奴が来ない。それに3本勝負。どう転んでも俺が負ける要素がない。全国大会に出てくるような奴らだったらワンチャンあるかもしれないが、仮に来たとしても所詮は高校生レベル。俺の敵じゃない。
「で、竹刀とか胴着は?」
「そんなもん持ってきてねーよ」
なんだコイツ。
あのお嬢様に呼ばれたとは言え、体育館の敷地を踏むんだ。最低限の礼儀は持ってもらおうか。
「道具は更衣室に用意してあるわ。千枝、案内してあげなさい?」
「はっ。畏まりました」
龍宮寺陽菜には取り巻きが3人いる。
1人は空手の黒帯持ち、主人のためならどんな手段も厭わない“冷徹なる秘書子”こと黒柳ツカサ。
コンピューターの知識ならお任せあれ、ちょっとしたサイバー犯罪にも手を染めたことがある”電脳世界のマジシャン”こと城島リカ。
狩猟歴13年。家庭菜園から農場管理までお手のもの。狙った獲物は逃さない“歩くスナイパー“こと草鹿千枝。
彼女たちは常に陽菜の周りにいて、彼女のボディーガードや生活周りの助手を勤めている。そこらへんの男共じゃ太刀打ちできないような戦闘力の持ち主どもだ。特にツカサ。アイツは少なからず俺とも因縁があり、直接立ち合わせたことがある。その時は空手の道場の上だったが、尋常ならざる殺気を発していた。多分空手じゃ勝ち目がない。そう思わせられるほどの存在感で、他を圧倒していた。負けはしなかったがかなり苦戦した。間合いの取り方が絶妙だったんだ。近づこうとしても、先に察知されるっていうか…
「お前を倒せば、龍宮寺さくらに会えると聞いてな」
「は?」
…何言ってんだ、コイツ
さくら?
なんでさくらの名前が出てくるんだよ
「さくらに何か用か?」
「お前には関係ねー」
はぁ?
ヤンキー野郎は多分関東国際の生徒だ。緑のブレザーに、学校の紋章を模ったオリジナルのエンブレム。トラディショナルなタータンチェックのズボンが、はだけたシャツの下に伸びていた。
「ルールは3本勝負なのか?」
「そうよ。先に2本先取した者が勝ち」
「相手が死んだ場合は?」
ざわつく体育館。
ヤンキー野郎のとんでも発言に、空気が一瞬固まる。そうでなくとも、視線が一箇所に集まっていた。注目されている中での衝撃発言。
死んだ場合、って言ったよな…?
周りの生徒もそう聞こえたに違いなかった。じゃなかったら、こんな空気にはならないだろう。
「コホンッ。貴方の強さは認めているわ。だけど、ある程度の節度は守ってもらいましょうか。ここに呼んだのも、ルールは守ると約束したからよ」
「ハイハイ」
何やら揉めているようだった。今までこんなことはなかった。陽菜に雇われた刺客どもは全員、陽菜に惚れているか金に釣られているかだった。いずれにしても陽菜の命令に付き従う従順な奴らだ。だがこのヤンキー、今までのやつらと何かが違う。
「これが武器か?」
竹刀を持つなり、面白そうにそれを眺めていた。そこ、持つとこじゃねーぞ。逆だ逆。
…絶対に剣道の経験者じゃないだろ。
しまいには、“胴着は着けない”と言い始めた。
「着ないなら着ないでもいい。怪我しても知らないからな」
わざわざ付き合ってやってるっつーのに、着るだ着ないだので貴重な時間を使うな。こちとら練習が控えてるんだ。さっさと終わらせてやるから位置につけよ。どうせ、3分も持たない。
「おい、陽菜。刺客を連れてくるのはいいが、ちゃんとマシなやつを選べ。これじゃ練習にもならん」
「ふん!偉そうな口を聞かないでくれる?言っておくけど、今回はそう簡単に倒せる相手ではなくてよ」
そうは言うが、コイツを見てみろ。どれだけ強いのか知らんが、竹刀の持ち方もわからんようなヤツだぞ?前から言ってるが、いくら喧嘩に強かろうが俺には勝てない。
「ルール」ってもんがあるんだ。
単純に竹刀を振り回す競技じゃねーんだ。そこんとこいい加減理解しろ。
「こんな物を人間は「武器」と呼ぶんだな」
「…は?」
「途中で怪我をした場合はどうなるんだ?」
「ちゃんと胴着を着ければ怪我なんてしない」
「俺の話じゃない。お前が、だ」
怪我なんてするわけないだろ。足元が滑るとか竹刀が割れるとか、イレギュラーなことが起こらない限り、そうそう起こるもんじゃない。捻挫とかも怪我に含まれるのか?安心しろ。お前なんかの打撃じゃ捻挫にならん。剣道を甘く見るな。まずはルールブックを見ることを推奨するぞ?適当に振ってたんじゃ、有効打なんて一生取れない。
…それともなんだ?
当てればいいと思ってんのか?
だとしたら大間違いだ。
「それでは、はじめッ」
審判の合図が上がり、俺たちは向き合った。正式な剣道の試合とは少し勝手が違う。なぜなら、陽菜の連れてくる刺客たちは、蹲踞の仕方すら知らない素人が多い。めんどくさいから簡単なやり方に変えたんだ。中央で向き合って合図を待つ。合図が出たら試合開始。見る方もその方がわかりやすい。
とくに、剣道には興味すらないお嬢様の「目」には。
タンッ
タンッ
さて、どっから攻めてやろうか。
“攻める”って言っても、隙だらけなんだよな…
剣道で重要なのは「呼吸」だ。相手との間合いの中でいかに自分の“息”を継続できるか。素人でよくやりがちなのが、相手の動きを目で見ようとすること。人間の体の構造を理解していれば、どっから竹刀が飛んでくるのかは考えなくてもわかる。素人であればあるほど視線がばらつきがちだ。
目の動き。
ステップの位置。
全ては線として繋がっている。時間や空間は常に有限なんだ。その「距離」を養うことが、敵の行動を正確に把握するための「アンテナ」になる。
ジッちゃんは言っていた。最小距離の連続。「動き」の中にしか、「静」は存在することができない。「静」と「動」は常に相対する関係にある。だからこそ、常に最短距離への領域に、足を踏み入れていなければならない——
と。
ドッ――
悪いけど、遊んでる暇はない。
俺は一瞬で勝負をつけようとした。
最小距離へのステップ。
大人気ないと思われるかもしれないが、素人相手に遠慮できるほど器用じゃない。俺のモットーは、「相手を選ばない」こと。それはいついかなる時もだ。竹刀を持った以上は同じ土俵に立ったってことだ。そこに「格差」なんてものは存在しない。正面に立った敵を迎え撃つ。単純に言えばそれだけの話で、あとは勝つか負けるかだけの問題。
右腕がガラ空きだ。
剣道に於いての有効となる場所は「面・胴・小手・突き」の4種類。有効打となり得るポイントは試合の展開によって大きく変わる。広く大胆なスペースを持ちながら、相手の動きを把握する。
届く。
それは長年竹刀を持ち、培ってきた感覚だった。有効打となる一撃を「打つ」のではなく、“引き寄せる”。どうすれば竹刀が相手に届くか、どうすれば先に一歩を“踏める“か。難しく考える必要はないんだ。届く位置に竹刀を動かすだけ。その「連続」に過ぎない。
カメラを構えて1シーンを捉える。
感覚はアレに近かった。指先に入れる力は、あくまで思考の延長線上の中に揺れている。
竹刀を動かす手。足。
その先端は、体の内側に常に連動していた。イメージは、「水」だ。最小の動きの中で、自由に動ける範囲。地面の平面性を立体的に伸ばす。その感覚を、一つの動作の中に落とし込んでいた。竹刀が揺れる鋒に。
ヒュンッ
鞭のようにしなる剣先。
呼吸の中に伸縮する影。
捉えた。
その「感覚」に偽りはなかった。ガラ空きだった敵の右腕に被さる軌道。その「線」の内側に触れる確かな“感触“が、グッと手の平に滑り込んでくるのがわかった。竹刀が届く距離は、相手の竹刀が届く距離でもある。不用意に近づく事は、自分の体を晒してしまうことにも繋がる。
わかっていた。
相手の動き。
視線。
空間と時間の中心で揺れている互いの位置。
危険は承知だったんだ。それを認識できていないわけじゃなかった。問題は、——そう、踏み込めるかどうか。そのタイミングを、誰よりも理解している自信があった。
スッ
…なっ
捉えたはずの軌道線上に、「感触」が無い。先端はすでに届く距離にあった。踏み込んだ足の先で、確かに届いた“鋒“があった。見間違えるはずはなかった。それは俺の「経験」が物語っていた。
——確かな、感覚が。
…消え…た…?
いや、バカな…
あり得ない…
相手の「位置」はそこにある。ガラ空きだった右腕。地に着いた足。視界が揺れるほどの挙動の最中、踏み入れた足の先に伝播する波の「音」があった。俺はそれを聞き間違えたことはない。例え相手が熟練の剣士であっても、決して逃れることができない「場所」がある。踏み入れたのは「境界」だ。
有効となり得る場所と、——タイミング。
にもかかわらずだ。
視界から相手の腕が消えた。
「どこを見てる?」
…な
あり得ない角度からの視線。迸る悪寒。体育館シューズが摩擦で焦げる。ヤンキー野郎は俺の死角にいた。すでに間に合わない距離、——竹刀を動かせない領域に。
ドッ
——衝撃。
胴の上から弾ける破裂音。竹刀が“ぶつかる”放物線。でも、そんなのはあり得なかった。剣道の試合の中で起こるのは、互いの「間」とそのせめぎ合いの中に生じる“接触”だ。そしてその接触は、鍔迫り合いのように烈しい摩擦が生じる。
剣が届くか届かないかに接する間際の攻防。だからこそ、その「接点」は著しく繊細だった。少なくとも、僅か数ミリの隙間に触れられる程度には。
…がはッ!
体の中心に走ったのは、言いようもない重い「衝撃」だった。まるで鉄球が勢いよくぶつかってきた感じだった。全身が浮き上がるほどの畝り。“躍動”が、足元の地面を揺らす。
(嘘だろ…?)
自分の体が宙に浮いていたのは、測らずも分かった。しなる竹刀の鋒が、自分の体を通して振動する。ヤンキー野郎が視界の前方にいる。そう感じたのも束の間だった。
体育館の壁に、——叩きつけられたのは。
ドンッ
背中に伝わる壁の感触。ビリビリと痺れる後頭部。
吹っ飛ばされた…?
…いや、そんなことが…
「立てるか?まだ続けるって言うんなら続けるが」
続けるか…だと?
…何バカなこと言ってんだよ
続けるに決まってんだろうが。
足がふらふらする。
…なんだ、これ
どうなってんだ…?
確かに今吹っ飛ばされた。だけど、訳わかんなかった。捉えたと思った矢先だ。ヤンキー野郎が懐に潜り込んでいた。
「竹刀の代えはあるのか?」
…代え?
見ると、ヤンキー野郎の竹刀が根本からポッキリ折れていた。
そうだ。
アイツが放った一撃が、俺の体にぶつかってきた。その時に、竹刀が軋んでいる音が聞こえた。ビキッと押し曲がるゴムのような「伸縮」があった。ほんの僅かな時間だった。
再び対峙する。
竹刀を構える。
…記憶が追いつかない。
アイツの放った一撃は恐らく「胴」だ。横からの軌道。それは間違いなかった。ただ、問題はそれが「死角」の中で起きたことだ。全国レベルになるとほんの僅かな選択のミスが命取りになる。それをカバーできるのは敵との“位置取り”。「小手」への攻撃に転じた時、重心はまだ後ろに残していた。
10か1かじゃなく、感覚としては4対6。
竹刀を操作できる領域をできるだけ広く持つ。その意識が常に途切れることなく、直線的に動ける範囲を残しておく。できるだけ「無駄」を削ぐことが、試合中の優位性を推し進めるためのファクターになる。
だからこそ、だ。
アイツがどうやって懐に潜り込んできたのかがわからなかった。まるで異なる時間軸の中にいるかのようだった。一歩の「差」ではなく、より広い単位の中で生じた誤差。それをなんて表現すればいいかわからなかった。
意識が“途切れた”。
それに近い何かが、不意に通り過ぎていったような
キュッ
敵の姿を見失うことなんてない。色んな相手と対峙してきた身だからこそわかる、感覚。相対する間合いの中での視野。それがどれだけ狭くても、相手の位置は常に“内側”にある。距離を見誤ることなんて無かった。
今までは。
…だがなんだ…?
この感覚…
敵の位置がぼやける。輪郭が滲むというか、インクがぼんやり滲んでるような“不確かさ“実体が霞むほどの不自然な「距離感」があった。それが「何」かはわからなかった。視界と認識との間を隔てている“何か”。遠すぎるわけでも、近すぎるわけでもない。もっと単純な質感の中に、それはあった。地面と足が擦れるほどの近さで。
バッ
…埃?
一瞬景色がスローモーションに“千切れた”。茫漠とする時間の奔流。回転する視界。
足の指先は痺れていた。痛みとかじゃなく、チリッとした質感。ゆったりとした敵のモーションから、目まぐるしい挙動の変化が溢れ出る。
それを「目」で追うことはできなかった。ただ、感じたんだ。踏み出せない間合いの外側から、感じたこともない気配が逆巻いているのを。
——ギュンッ
空気が焦げる匂いがする。鼻先に届いた違和感を追う。ヤンキー野郎は竹刀を構える素振りもなかった。担ぐように片手で持ち、グッと地面に重心をつけていた。
竹刀を前に構えずに近づいてくるバカなんて早々いない。これはボクシングじゃねーんだ。攻撃への距離が短ければ短いほど、有効となる「打点」を広く見出せる。ましてや手や足と違って竹刀は長尺ものだ。簡単に軌道修正なんてできない。その「理屈」をわかっていれば、構えずに近づくことがどういうことかは考えなくてもわかることだった。
それなのに…
景色が止まったような“時間の遅れ”が視界の中に揺らぐ。
意識が剥がれそうなほどの鋭い「気配」。
——それが、唐突に浮き上がった。
圧縮される空気。
小刻みに震えていく呼吸。
手が動かない。
足が動かない。
「意識」だけがそこに置いていかれるような、孤立した視界の歪みを感じた。ヤンキー野郎が向かってくる。
そう認識した、——背後で。
ザッ
あり得なかった。
ヤンキー野郎とは数メートル離れていた。剣道の間合いは、僅か数センチの「密」の中に動く。十分な距離は取っていた。意識が覚束ないながらも、相手の位置は把握していた。本能が悟っていた。距離を取る必要がある。様子を見て、相手の出方を見る必要がある。即座にそう感じる自分がいた。
「やばい」と思った。
不用意に近づかないようにしたんだ。つま先に力を入れ、いつでもステップを踏めるように。
相手が動く——その認識の渦中に揺れる鼓動と、視線。
“見たことがない光景”が、そこにはあった。
…というより、ほとんど想定していなかった。対応できるはずの「範囲」から起きた、予測不能の動き。認識の外から来る異常な“スピード”が、針の穴を通すように疾る。俺は動けなかった。動こうと考えることすらできなかった。ヤンキー野郎はすでに“真横”にいた。視線が追いつかなかった。そんなこと、俺の今までの人生にはなかった。
「ぐはッ…!」
咄嗟にガードの構えを取るが間に合わない。空間を裂く竹刀の軌道が、俺の首を捉えた。
「どうした!?日本一の剣士と聞いていたが?」
…コイツ
見かけによらずなんてパワーだ。ルールがわかってないからか、首への一撃は有効打とはならなかった。だが予断は許されない。体勢を崩されながらも考えた。
引くしかない。
引いて、竹刀の出し入れできる「位置」を見出す。
…だけどどうする?持ち直したところで、相手の動きを把握できてない。予測できない動きに対処できるほど、状況にゆとりはない。
どうする
どうするどうする…!
ダンッ
右足で踏ん張りながら急ブレーキをかける。引くのが最善かもしれないが、「最善」が機能するほどの局面にはない。だったら真正面から迎え撃つ。
来るなら来いよ!
肘を畳んで竹刀を立てた。眼前には、竹刀を振りかぶって向かってくる相手が。
竹刀と竹刀がぶつかる。鍔と鍔が擦れ合い、焦げ臭い匂いが立ち込める。ぶつかると同時に、体全身が浮き上がった。下半身に力が入らなかった。まるで“岩“だ。自分よりも遥かに巨大な物体。それが、前方から迫ってきたように体を押してくる。
“力が強い”ってだけじゃ説明がつかない…
くそ…ッ
なんだこれ…
なんで…こんなに…!
ゴッ
持ちこたえられずに後ろへと吹っ飛ばされた。力を受け流すつもりでいた。相手の力を利用し、位置をコントロールする。しかしそれができなかった。接触したと同時に、体が“浮いた”。制御できないほどの「力」が目の前にあった。まるで至近距離から爆発物を投げつけられたみたいだった。
衝撃を和らげられるほどの面積も、“接点”も無いまま。
「さっさと立て。言っておくが、これが「戦場」だったら、お前はもう死んでるぞ?」
…ぐっ
ヤンキーのくせに何言ってんだ…?
「戦場」…?
そんなことは言われなくてもわかってるよ。生憎だが、これは喧嘩じゃねー。れっきとした「ルール」の中で行われる試合だ。
わかるだろ?
今立つから待ってろ。勝負はこっからだ。




