3. 結果よければ全てよし
ある日の午後、リノアはギルドの資料室の隅で、高く積まれた羊皮紙の束を前に、深々とため息をついた。
年に一度、各部署に割り当てられる「過去資料の整理」
聞こえはいいが、その実態は、誰も見向きもしない古い書類の山と格闘するだけの、単調で埃っぽい苦行に他ならない。
もちろん、リノアがこれを真面目にやるはずもなかった。
(…よし、と)
本来であれば、一枚一枚内容を確認し、項目別に分類して索引を作るのが正規の手順なのだろう。
しかし、リノアはそんな面倒なことは一切しない。
羊皮紙の束を年代別に大雑把に分け、太い麻紐で十把一絡げに縛り上げると、「〇〇年度・その他雑多・緊急時以外閲覧禁止」とだけ殴り書きした札をつけ、棚の一番奥へと押し込んでいく。
これでいい。
どうせ、次に誰かがこの資料を必要とするのは、数年後か、あるいは永遠に来ないかもしれないのだから。
その時、見つけ出すのに苦労するのは、未来の誰かであって、今の自分ではない。
完璧な仕事術だった。
その流れ作業の途中、ひときわ分厚く、歴代の担当者の怨念でもこもっていそうな革表紙のファイルが、彼女の指先に触れた。
タイトルは「素材倉庫 在庫管理台帳」
それが、彼女の平穏な午後を脅かす、新たな面倒事の塊だった。
パラパラとページをめくると、案の定、ここ数年まともに更新されていないことが判明した。
リストは担当者たちの手書きで、書き方も単位もバラバラ。
これでは、冒険者から「あの素材の在庫はありますか?」と聞かれるたびに、自分がこのリストと格闘した挙句、結局は薄暗い倉庫まで確認に行かされる羽目になる。
(うわ…これはダメなやつだ…。いつか絶対、終業間際に在庫確認を頼まれて残業になるパターンじゃないか…。面倒くさいけど、これは今のうちに、誰かにやらせておかないと…)
未来の自分の平穏を守るため、リノアはすぐさま行動に移した。
彼女は、「誰でも」「考えずに」作業ができるよう、非常にシンプルな在庫確認用の羊皮紙を数枚作成する。
「品名」「ランク」「数量」「保管場所」の四項目だけの、簡素なリスト。
これなら、どんな脳筋でも間違うことはないだろう。
完璧な「他人任せ用ツール」を手に、リノアはギルドの談話室へと向かった。
案の定、そこにはソファにだらしなく座り、今日の夕食の相談をしているパーティ「赤き誓い」の三人がいた。
「あなた達、ちょうどよかった」
背後からかけられた声に、三人がびくりと肩を震わせる。
リノアは、作成したテンプレートの束をテーブルに置くと、有無を言わさぬ口調で告げた。
「師匠として、試練を与えます。このリストを使って、第一素材倉庫の在庫を全て確認し、夕方までに報告しなさい」
「そ、倉庫整理、ですか…?」
ダリウスが困惑の声を上げる。
そんな彼らに、リノアはそれっぽく、しかし完全に後付けの理由を続けた。
「ええ。これは、あなた達が日頃扱っている素材の価値を、その目で再確認するための重要な訓練です」
「な、なんと…!」
ダリウスの目が輝いた。
「師匠は、俺たちに戦闘だけでなく、冒険者の基本となる『資源管理』の重要性まで教えてくれようとしているのか!」
「きっと、素材一つ一つの魔力的特性を肌で感じろという、高度な魔法訓練なのですね…!」
エララが胸の前で手を組む。
「いや、違う!」
フィンが何かを閃いたように言った。
「これはギルドの物流を把握させようという、師匠からの経済学のレッスンだ!」
「(…まあ、好きに解釈してくれれば、それでいいか)」
三人は、リノアの適当な無茶振りを、自分たちの成長のための試練だと理解し、意気揚々と埃っぽい倉庫へと向かっていった。
***
倉庫整理は、想像以上に過酷だった。
舞い上がる埃、かび臭い空気、得体のしれない薬品の匂い。
しかし、三人はリノアの期待に応えるため、文句も言わずに作業を進めた。
「見てみろ!この『ゴブリンの耳』、師匠のテンプレート通りに書くと、Cランクで、数量が三十七個、保管場所は棚のB-3だな!」
「こっちの『マンドラゴラの根』も、Dランクで、十個、C-5よ!」
「ちくしょう、分かりやすいじゃねえか、このリスト…!」
彼らは作業を進めるうち、リノアが作ったテンプレートの合理性に気づき、さらに師匠への尊敬の念を深めていった。
そして、作業も終盤に差し掛かった頃。
彼らは倉庫の一番奥で、誰も開けたことのないような古い木箱を発見する。
中に入っていたのは、古びてはいるものの、非常に質の高い「古代竜の鱗から作った、対ワイバーン用の特殊な防護香」だった。
それは、数十年前にギルドに寄贈されたものの、誰も価値を理解できず、忘れ去られていた希少なアイテムだった。
「これも師匠の試練の一部に違いない!」
ダリウスは、その発見を報告書にきっちりと記載した。
***
夕方。
「赤き誓い」が完璧な在庫リストを手に、リノアへの報告を終えようとした、まさにその時。
ギルドの扉が勢いよく開き、王宮の騎士が血相を変えて駆け込んできた。
「大変だ!王都付近の街道に、凶暴なワイバーンが出現した!討伐隊を送るにも、準備に時間がかかる!そこで、冒険者ギルドに保管されているという、古代の防護香を至急貸していただきたい!」
ギルドマスターのギデオンも、主任のバルツも「そんなもの、あっただろうか…?」と首を傾げる。
ギルド中が混乱に陥る中、ダリウスが静かに一歩前に出た。
「――師匠。我々が本日発見した『これ』が、おそらくお役に立つかと」
彼が差し出したのは、例の「古代竜の防護香」だった。
騎士は防護香を手に、涙ながらに感謝して去っていく。
残されたホールで、ギデオンがわなわなと震えながら、リノアの方を振り返った。
「リノア…!お前は、このワイバーンの出現を予知していたというのか…!?そして、この事態を解決するために、あえて『倉庫整理』という名目で、若者たちにこの失われたアイテムを探させていたと…!?なんという…!お前の頭の中は、一体どうなっているんだ!」
ギルド中の職員と冒険者たちが、畏怖と尊敬の眼差しをリノアに向ける。
当のリノアは、壁にかけられた時計をちらりと見て、一つ欠伸をした。
(…ふぁあ。なんかよく分からないけど、面倒事が勝手に片付いたみたいで良かった。これで、今日も無事に定時で帰れるな…)
***
終業の鐘と共にギルドを後にしたリノアの足取りは、日中とは比べ物にならないほど軽やかだった。
彼女は、今日の自分の「機転」(面倒事を他人に押し付けただけ)に密かな満足感を覚えながら、いつもとは違う、少しだけ遠回りな帰り道を選ぶ。
今日の戦利品は、市場の隅で老夫婦が営む小さな店の「具だくさんポトフ」
大きな鍋でコトコト煮込まれたそれは、野菜の甘みが溶け出した、素朴で優しい味がする。
リノアは店主の老婆と「今日は冷えるねえ」「そうだね」などと二言三言言葉を交わし、温かいスープが入った鍋を大事に抱えて、自分の城である貸家の一室へと帰還する。
窮屈な制服を無造作に脱ぎ捨て、洗いざらしのワンピースに着替える。
ようやく、他人のための自分を終えて、ただの自分に戻る時間。
買ってきたポトフの鍋をテーブルに置いた彼女は、しかしすぐには食べ始めない。
ベッドの下から、一枚の巨大な羊皮紙を取り出した。
それは、彼女が暇を見つけては書き込んでいる、手製の「王都生活・最適化マップ」だった。
(…ふむ。今日の帰り道、パン屋の角で井戸端会議に捕まりかけた…。あのルートは午前中に限定すべきか…)
リノアは羽ペンをインクに浸し、地図上に赤い線で新たなルートを書き込み、「要注意人物」としてパン屋の女将の似顔絵(あまり似ていない)を小さく書き添える。
ギルドでの彼女の深謀遠慮は全て周囲の勘違いだが、こと「いかにして他人との接触を避け、最短ルートで食料を確保し、無駄なく帰宅するか」という一点において、彼女の思考は本物の軍師のように緻密で、執念深い。
地図の更新作業に没頭していると、窓の外から「にゃあ」と短い鳴き声がした。
(…来たか。腹時計だけは正確だな…)
リノアはため息をつき、棚に置いてあった干し肉の切れ端を手に取ると、窓を少しだけ開けた。
そこにいたのは、片耳の欠けた、一匹の野良猫だった。
彼女は、その猫に干し肉をぽいと投げてやる。
猫はそれを器用に咥えると、すぐに闇の中へと消えていった。
(…これでよし。騒がれる前に餌をやる。これは、未来の騒音公害を防ぐための投資だ。別に、可愛いとか、そういうことじゃない…)
誰に言うでもない言い訳を心の中で呟き、リノアは窓を閉める。
ようやく一人だけの静かな時間が戻ってきた。
彼女は木の器にポトフをよそい、ふーふーと息を吹きかけながら、スプーンで一口すする。
じゃがいもがほろりと崩れ、人参の優しい甘さが口の中に広がる。
(…うん、おいしい。今日の疲れには、これくらいがちょうどいい)
この一口のために、明日もまた、あの面倒な一日が始まるのかと思うと少しだけ憂鬱になる。
割に合わない気もするが、まあ、仕方ないか、と彼女はもう一口、スープを口に運んだ。
そして、もう一つのお楽しみが始まる。
ベッドの脇に積み上げられた、古びた大衆娯楽小説の山から、今日の一冊を選ぶ。
タイトルは『漂流王女と七つの海の秘宝』
彼女は、主人公の王女が仲間たちと絆を深めたり、困難な航海に挑んだりする場面は、斜め読みで飛ばしていく。
お目当ては、物語のクライマックス。海賊団に捕まり、絶体絶命のピンチに陥った王女が、偶然にも首から下げていたペンダントが「伝説の海神の紋章」であり、それを見た海賊たちがひれ伏して、忠実な部下になってしまうという、あまりにもご都合主義的なシーンだ。
(ふふっ…これだよ、これ。面倒な説得も、海戦も、宝探しの謎解きも全部すっ飛ばして、『伝説の紋章』一つで忠実な部下と船をゲット。うちのギルドの冒険者たちも、これくらい話が早ければいいのに…)
物語のご都合主義的な爽快感に浸り、最後の一滴までポトフを飲み干す。
お腹も心も満たされ、リノアは読みかけの本を胸に抱いたまま、ラグの上で猫のように体を丸めた。
窓の外では、穏やかな夜が更けていく。
(…よし。明日も頑張って働いて…さっさと帰って、今度はあのパイ屋さんのを夕食にしよう)
この誰にも邪魔されない時間こそが、彼女が面倒な仕事を乗り切るための、原動力なのだった。




