2. 主観と客観、そして師匠のパイ
翌朝のギルドホールは、新たな一日の始まりを告げる活気に満ちていた。
カウンターの内側で、リノアは淡々と依頼書を捌いていた。
昨日の騒動など忘れたかのように、彼女の思考はただ一点、「今日の業務をいかに効率的に終わらせ、定時退社を勝ち取るか」にのみ集中していた。
その、いつも通りの日常風景に、静かな変化が訪れた。
ギルドの扉を開けて入ってきたのは、パーティ「赤き誓い」の三人。
昨日とは別人のように、その足取りには迷いがなく、表情には真剣な覚悟が滲んでいた。
「リノアさん、おはようございます!」
代表して前に進み出たダリウスが、深々と頭を下げる。
「…おはようございます。何か御用でしょうか?」
「昨日のご指導通り、報告書を修正してきました!俺の武勇伝は全て削り、事実のみを記したつもりです!」
自信満々に差し出された羊皮紙を、リノアは受け取り、さっと目を通す。
確かに、昨日よりは遥かにマシになっていた。だが。
「却下です」
「な、なぜですか!?」
「『巨大で恐ろしいオークが襲ってきた』。これはあなたの感想ですよね?」
リノアはペン先で、報告書の一文をトントンと叩いた。
「『身長およそ2メートルのオーク1体と交戦』。このように、観測可能な事実だけを記述してください。あなたの主観は、報告書の価値を著しく損ないます」
リノアは次に、おずおずと経費申請書を差し出すエララに視線を移す。
「それからあなた。申請項目に『回復薬をいくつか使用』とありますが、『いくつか』とはいくつですか?定性的な表現は認められません。定量的に、正確な数字で記載し直しを」
返す言葉もない二人に、リノアは「書き直しを」とだけ告げ、次の仕事に移った。
「そんな…」
ダリウスは、突き返された報告書を手に、呆然と立ち尽くしていた。
「巨大で恐ろしかったのは、事実じゃないか…!何が違うんだ…!?」
***
昼前の喧騒の中、彼らは再びカウンターに現れた。
その顔には、仲間内で激論を交わした末の疲労の色が浮かんでいる。
「リノアさん、今度こそどうだ…!」
差し出された報告書と経費申請書は、確かに客観的な事実と正確な数字の羅列になっていた。
しかし、それは時系列も何もかもがバラバラな、ただのメモ書きのようだった。
リノアの声は、先ほどよりもさらに冷たく響いた。
「依頼が失敗に終わったことは理解しましたが、これではただの日記、あるいは反省文です。報告書というのは、読む相手が一番知りたい情報を、一番最初に書くものです」
リノアは三人を順番に見た。
「まず、この依頼の結論は?」
「し、失敗です…」
ダリウスが答える。
「なぜ失敗したのですか?巣の奥まで到達したのでしょう?」
核心を突く質問に、ダリウスが言葉に詰まる。
「そ、それは…途中でオークと戦闘になり、ゴブリンたちに警戒されて、巣の正確な規模や個体数を把握する前に撤退を…」
「それが原因ですね」
とリノアは頷いた。
「今回の依頼の成功条件は『ゴブリンの巣の構造と、おおよその個体数を報告すること』。奥まで行けたかどうかは問題ではありません。目的を達成できなければ、それは失敗です」
「では、失敗した上で、あなた達が持ち帰った最も価値のある情報は?」
「え、あ、それは、ゴブリンの巣の奥で見つけた、飛竜の鱗ですが…」
エララが答える。
「その通りです。ならば、報告書の構成は自ずと決まるはず。まず『任務失敗』という結論を記し、次に『特記事項』として最も価値のある発見を記す。任務が失敗した『原因』は、その次に簡潔に述べるのが筋です」
今度は、一歩引いていた盗賊のフィンがおずおずと口を開いた。
「あの、斥候として俺が調べた罠の情報とかは…?」
「良い質問ですね」
リノアは僅かに目を細めた。
「それこそ、必要な人間だけが見るべき詳細情報です。全て『添付資料』として末尾に回してください。価値ある情報が、どうでもいい記録の中に埋もれていては意味がありません」
「け、結論…特記事項…添付資料…?」
ダリウスは、初めて聞く言葉の数々に、まるで魔法の呪文を聞いているかのように目を白黒させていた。
三人の困惑しきった顔を見て、リノアは内心で深いため息をついた。
(…ああ、もう、埒が明かない。一度で理解してほしい…)
このままでは昼休みが、そして定時が遠のいていく。
彼女は、この面倒事を一刻も早く終わらせるため、最後の仕上げに入ることにした。
「いいですか、まとめます」
リノアはペンを置き、指を一本ずつ折りながら、有無を言わさぬ口調で告げた。
「一、報告書の冒頭には、まず結論。『任務失敗』と記すこと」
「二、次に、特筆事項として『飛竜の鱗の発見』について」
「三、その次に、失敗の原因を簡潔に」
「四、戦闘記録や斥候報告などの詳細は、全て添付資料として末尾に回すこと」
「五、そして、全ての記述は、主観を排した事実と、正確な数字のみで構成すること」
淡々と告げられるその構成案に、三人はもはや反論する気力もなかった。
「以上です」
そのやり取りを、少し離れた場所から主任のバルツが見ていた。
(ああ、始まった…リノアの『最適化』が。彼女に悪気はない。ただ、彼女の事務処理能力は、このギルド…いや、この国でも突出して異質なんだ。彼女が『普通』だと思っている報告書の基準は、他の職員にとっては『完璧』の領域。だからこそ、彼女が作る書類は驚くほど読みやすく、処理も速いのだが…)
バルツはこめかみを揉んだ。
(だが、リノアの指導を受けた者は、なぜか皆、別人のように成長する…。
冒険者に限らず、だ。
経費の計算を直されただけの同僚は、なぜか驚くほど仕事の段取りが上手くなる。
それはいい。
部署全体の業務効率が底上げされ、俺が目を通すべき案件も、以前より格段に質が上がっている。
だが、問題はそこからだ!
全体の処理速度が上がると、どうなる?ギルドマスターが『おお、それならこの新しい試みもできるな!』と、次から次へと面倒な新規事業を思いつき、その企画書や調整業務が、全て監督者である俺の元へと降ってくる!
そして現場では、同僚たちが仕上げた質の良い書類の最終確認が、雪崩のようにリノアの元へ殺到する!
彼女の基準で仕上げられた書類を完璧に検閲できるのは、結局リノア本人しかいないのだ!
結果、彼女が部署を効率化すればするほど、俺と彼女の仕事だけが際限なく増えていくという、本末転倒な事態に…!ああ、俺の胃が…!)
バルツの胃が、この矛盾した状況と、いずれ自分と部下が共に過労で倒れるのではないかという懸念を前に、きりりと痛んだ。
第二次却下を言い渡した直後、ギルドに昼休みを告げる鐘が鳴った。
リノアは待っていましたとばかりに「休憩に入ります」と告げ、書きかけの書類をきっちり揃えて席を立つ。
一方、残された「赤き誓い」の三人は、突き返された報告書を囲んで頭を抱えていた。
「『結論を先に』…か」
ダリウスが唸る。
「つまり、戦闘においても、最初に敵の大将を叩け、ということなのか…?」
「『定量的に』って言われたけど…」
エララが不安そうに呟く。
「魔力の残量を正確に数字で把握しろってことなのかな…そんなの、感覚でしか分からないのに…」
「『再現性とリスク評価』…」
フィンが腕を組む。
「つまり、俺が見つけた罠を、他の誰かが見ても同じように回避できるように説明しろ、ってことか?それに、その罠を踏んだ時の最悪の事態も想定しろと…?無茶言うぜ…」
リノアの言葉の一つ一つが、事務仕事の枠を超えて、自分たちの冒険者としての在り方そのものを問われているように感じられた。
理解しようとすればするほど、その言葉の本当の意味が分からなくなる。
その時、リーダーのダリウスが顔を上げた。
「…そうだ!リノアさんの昼食を見れば、何かヒントが掴めるかもしれない!」
「はあ!?」「なんでよ!」
「いいか!あの人の言葉は深すぎて、今の俺たちにはすぐには理解できない!だが、あれほどの人物の行動に、無意味なものなど一つもないはずだ!その昼食の作法という、より実践的な教えの中にこそ、俺たちが進むべき道が隠されているに違いない!」
ダリウスのあまりに突飛な、しかし妙な説得力のある提案に、二人は顔を見合わせ、こっくりと頷くと、こっそりとギルドを出たリノアの後を追った。
***
リノアが向かったのは、高級レストランではなく、庶民的な屋台が立ち並ぶ路地裏だった。
(…今日の昼食は、あそこの串焼きパイでいいか…)
彼女は、一番人気の行列店には目もくれず、客は少ないが店主の手際が異常に良い、隠れた名店へと直行する。
(味はおいしいし、何より並ぶ手間が省けるのがいい。時間対効果、うん、悪くない…)
無駄のない動きでパイを注文し、受け取ると、近くの木陰に腰を下ろし、熱々のパイにかじりついた。
サクッという軽快な音と共に、香ばしい肉汁が口の中に広がる。
その瞬間、いつもは能面のように無表情な彼女の口元が、わずかにほころんだ。
リスのように頬を膨らませ、満足げに目を細めるその姿は、ギルドでの彼女を知る者が見れば、腰を抜かすほどに年相応で、愛らしいものだった。
至福のひととき。
しかし、その穏やかな時間は、路地の入り口から感じる視線によって破られた。
リノアの表情が、すっと元の無感動なものに戻る。
視線の先には、物陰からこちらを伺う「赤き誓い」の三人の姿があった。
(…ああ、あの人たちか。お昼ご飯、まだだったんだ…)
尾行されている、というよりは、どの屋台で何を買うか決めかねて、途方に暮れているように見える。
その優柔不断な様子に、リノアは小さくため息をついた。
(…あれじゃ、昼休みが終わるまでに食事にありつけるかどうか怪しいな。戻ってくるのが遅れれば、報告書の再提出も遅れる。そうなると、私の最終確認も遅れて、最悪、定時に響く…それは、ダメ、絶対)
面倒事を未然に防ぐ。
それこそが、究極の効率化だ。
彼女は踵を返し、屋台の店主に追加でパイを三つ注文すると、それを手に三人がいる物陰へと、まっすぐに歩み寄った。
「あの、リノアさん、これは…!」
突然現れたリノアに、三人がぎょっとする。
リノアはそんな彼らに、パイを一つずつ無言で押し付けた。
「それを食べて、さっさとギルドに戻りなさい。午後の業務に支障が出ます」
それだけ言うと、彼女は興味を失くしたように、再び踵を返して去っていった。
残された三人は、まだ温かいパイを手に、その場に立ち尽くしていた。
そして、顔を見合わせる。
「…聞いたか?」
ダリウスが声を潜めて言った。
「リノアさんは、行列のできる人気店には目もくれなかった。一番早く、確実に目的を達成できる店を選んだんだ。これこそ、俺たちが教わった『結論から先に』という戦術そのものだ!」
「それに、このパイ…!」
エララが目を輝かせる。
「きっと、このお店のメニューの中で、値段と栄養価のバランスが一番良いものなんです!だから、私たちにもこれを…。これが『定量的』に物事を考えるということ…!」
「…いや、それだけじゃねえ」
フィンが、何かを悟ったように真剣な顔で呟いた。
「俺たちが午後に報告書を仕上げるまでの時間を、正確に計算してやがるんだ。俺たちに自分と同じものを食わせることで、食事にかかる時間という変数を完全に把握し、午後の作業効率を予測している…。『再現性とリスク評価』…。恐ろしい人だぜ、あの人は…!」
三人は、リノアの昼食の選び方と、その後の行動の一つ一つに、自分たちが教わったばかりの深遠な教えが完璧に体現されていると勝手に確信し、決意を新たにギルドへと戻っていった。
***
そして、終業時刻が迫り、ギルドの喧騒も落ち着きを取り戻し始めた頃。
カウンターに、憑き物が落ちたような顔の三人が現れた。
まるで最後の審判を待つ罪人のように、彼らは固唾を飲んでリノアを見つめている。
ダリウスが、震える手で、しかし丁寧な所作で、数枚の羊皮紙をまとめたそれを差し出した。
リノアは無言で受け取る。
それは、これまでのものとは明らかに違っていた。
インクの染み一つない清潔な羊皮紙。
戦士のゴツゴツした指で書いたとは思えないほど、整然と並んだ文字列。
彼女の視線が、紙の上を滑る。
一番上のページには、大きく、簡潔にこう記されていた。
【結論:任務失敗】
その下に【特記事項:飛竜の鱗の発見】
リノアは、表情を変えぬまま、ぺらりと次のページをめくった。
【原因】【添付資料一覧】
彼女が指示した通りの構成。
彼女は添付資料の束にまで目を通し、戦闘記録や斥候報告が、主観を排した事実と正確な数字だけで構成されていることを確認する。
その数分間は、三人にとっては永遠よりも長く感じられた。
(これは…。本当に、言った通りに書いてある。構成が分かりやすいだけじゃなく、無駄な主観もない。数字も正確。…すごい。いや、すごくはない。これが普通。これが普通なんだけど…この人たちにとっては、すごいことなのかな。…まあ、いいか。これなら読むのに30秒もかからない。私の手間が、大幅に削減される。うん、良いことだ)
リノアは思考を終えると、ゆっくりと受付印を手に取った。
静まり返ったホールに、トン、と乾いた音が響く。
「受理します。ご苦労様でした」
その言葉を聞いた瞬間、三人の肩から、ふっと力が抜けた。
神託を受けたかのように、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、互いに目配せをして、小さく、しかし力強く頷き合った。
承認された報告書を、三人は震える手で受け取った。
そして、リーダーのダリウスが意を決したように一歩前に出て、その場で膝をつき、深々と頭を下げた。
「リノア師匠、ありがとうございました!俺たち、あんたの指導のおかげで、冒険者として本当に大事なことを学べました!」
「師匠…?」
リノアの眉が、怪訝にひそめられる。
「ありがとうございました、師匠!」
エララとフィンも、慌ててそれに倣った。
こうして、ギルドの歴史に、新たな伝説の二つ名が、本人の意思とは全く無関係に刻まれた瞬間だった。
リノアは、ただ一人、内心でこう呟いていた。
(なんで『師匠』…?まあいいや。これで今後の確認作業が楽になるなら、好きに呼ばせておこう…)
新たな面倒事の予感に小さくため息をつきながらも、彼女の頭の中は、すでに定時退社後のささやかな楽しみでいっぱいだった。
***
終業の鐘と共にギルドを後にしたリノアの足取りは、日中とは比べ物にならないほど軽やかだった。
「…解放」
誰にも聞こえない声で呟き、彼女は雑踏の中へと紛れ込んだ。
向かう先は、いつもの路地裏だ。
冒険者たちが酒場で豪遊する大通りを抜け、リノアは一軒の小さなパイ屋の前で足を止める。
年季の入った木の看板が、彼女のささやかな楽しみの始まりを告げていた。
「おや、リノアちゃん。お帰り」
カウンターの奥から、店主の老婆が顔を綻ばせた。
ギルドでの鉄仮面が嘘のように、リノアの口元にも自然と小さな笑みが浮かぶ。
「ただいま、おばあちゃん。今日のパイはまだある?」
「もちろんさ。あんたのために、きのこのクリームシチューパイ、取っておいたよ」
老婆は、手際よく包みを用意しながら、優しい目でリノアを見た。
「今日はなんだか、少し疲れた顔をしてるね。ギルドも大変だろ?」
「ううん、いつも通りだよ」
そう言って首を振るリノアに、老婆は「そうかい」とだけ返し、ほかほかと湯気の立つ包みをそっと手渡した。
「熱いうちに食べな。美味しいものを食べれば、嫌なことなんて忘れちまうからね」
「ありがとう、おばあちゃん」
短いやり取り。
しかし、そこにはギルドでの彼女とは全く違う、年相応の少女の穏やかな表情があった。
***
自宅へ帰還したリノアは、きっちりとした制服を脱ぎ捨て、着古した、ゆるやかなワンピースに着替えると、ようやく本当の自分に戻れたような気がした。
彼女は、部屋の中央に敷かれたラグの上にごろりと寝転がる。
そして、まだ温かいパイの包みを、宝箱でも開けるかのように丁寧に開いた。
サクッ、と音を立ててパイ生地を割ると、中からきのこの良い香りと共に、とろりとしたクリームシチューが顔を出す。
それを小さな口で、はふはふと頬張った。
その瞬間、彼女の口元が、ふにゃりと幸せそうに緩んだ。
至福の食事と共に、もう一つのお楽しみが始まる。
枕元に置いてあった、古びた英雄譚『建国王アレクシオンの伝説』を開いた。
この物語が彼女のお気に入りなのは、主人公アレクシオンの前に立ちはだかる数々の困難が、ことごとく、呆れるほどのご都合主義で解決されていくからだ。
(うんうん、いいぞ…)
リノアは、ぱくぱくとパイを食べ進めながら、満足げに頷く。
――軍資金が足りない? 大丈夫、主人公が躓いた石の下から、都合よく古代王国の宝の地図が出てくる。
――敵の大軍に包囲された? 心配ない、どこからともなく現れた伝説の竜騎士が、たった一人で敵を蹴散らしてくれる。
***
お腹も心も満たされ、リノアはラグの上で猫のように体を丸めた。
(…よし。明日も頑張って働いて…さっさと帰ってこよう)
誰に邪魔されることもない、自分だけの甘やかな時間。
それこそが、リノアがこの世界で戦い続ける、たった一つの理由なのだった。




