幸せに特化した欲張りな脳ミソで
幸せになるコツって『お金に頼らない幸福を、どれだけ知っているか』なんじゃないかな?
お金で買える幸せしか知らない人は、ギャンブルだとか詐欺だとか闇バイトだとか、おかしなことに手を染めて破滅していくもの。
生活するにはお金が要るけど、幸せになるのにお金は要らない。
幸せになるのに要るのは、脳ミソだ。
学校に通う路の途中に、よくノラ猫さんがくつろいでいる脇道がある。
ひとりで勝手に“ノラ猫の小径”と名付けたその場所に、猫さんを一匹でも見つけられたら、今日はもうハッピーな一日。
そういう“ささやかな幸せ探し”を、日々何気なく習慣にしている。
購買の人気のパンが“最後の一個”でギリギリ買えたら、ラッキー。
小テストでちょうど勉強していた所が出たなら、ベリーナイス。
そういう“ちょっとした幸運”って、平凡な毎日の中にも割と散らばっている。
だけど、あまりにちっぽけで地味だから、皆あまり意識できないんだろうな。
幸福には“感度”がある。
小さな幸せのひとつひとつを全部拾い上げられる人もいれば、どんなに大きな幸せに恵まれていても、それに気づきもしない人もいる。
よく『幸せは自分の心次第』って言うけど、それってたぶん、そういうことなんだろうな。
幸せの感受性が低い人は可哀想だ。
どんな幸運が訪れても、気づかないまま放置して『足りない、足りない』って飢え続ける。
世の中、そんな幸運さえ受け取れずに苦しんでいる人もいるのにね。
そもそも皆『何が自分の幸せなのか』って、ちゃんと考えたことがあるのかな?
流行りのファッションやブームを追いかけて「欲しい」「買えない」と嘆いている皆を見ると、思う。
それって本当に自分の欲しいものなのかな?……って。
誰かの作った“楽しげなイメージ”“幸せのイメージ”に踊らされて、お金と時間を無駄に消費させられていないかな?……って。
トレンドが過ぎたら、もう興味を失って捨てたり売ったりするのって、本当は好きでも何でもなかったからなんじゃないかな?……って。
私は昔から“流行”や“人気”に興味が無い。
そういうものを買ってもらえない家だったから、というのもあるけど……基本“他人にオススメされたもの”に興味を持てないのだ。
自分の好きになるモノは、自分自身で見つけたい――そういうタイプの人間なのだ。
流行りを過ぎたモノの中にも、おもしろいモノはある。
流行りにもならなかったモノの中にも、魅力的なモノはある。
むしろ旬を過ぎると安値で買えたりして、おこづかいの少ない身にもありがたいのだ。
勝手に流れて来た“流行りのモノ”には何の感慨も持てなくても、自分で見つけ出した“掘り出しモノ”には愛着が湧く。
難点があるとすれば、その“良さ”を誰かと共有できないことだけど……元から“独りでも楽しめる”私には苦ではないのだ。
独りだと楽しめない人間は、人の集まる“人気”のモノに自分を合わせるしかない。
自分を持っていない人間は、誰かの意見を追うしかない。
それもひとつの生き方だけど、疲れそうだな、って思う。
めまぐるしく移り変わるトレンドを追わされて、振り回されて、自分のペースで人生を進めないなんて……マイペースな私には、とてもできない生き方だ。
私はたぶん、すごく欲張りなんだろう。
私じゃない他の誰かの考えた幸せを、自分の幸せだとは思えない。
他の皆と同じ幸せじゃ満足できない。
私が欲しいのは、この世にたった一つの、私だけの幸せの形だ。
それは、他の誰でもなく、私だけが決められるんだ。
高価なブランドバッグや宝石を、欲しいと思ったことはない。
可愛いモノやキラキラしたモノは好きだけど、雑貨屋さんに売っている“何とか手の届くバッグやアクセ”でも、私には充分だ。
“高価いモノを買える自分”を他人に自慢したいなんて欲も無い。
だってそういうの、傍から見たら普通に“カンジワルイ”人じゃない?
一時の見栄と周りの人間の好感度――秤にかけて見栄を選べるほど、刹那の快感に酔えるタイプじゃない。
何で皆、お金で買えるモノばかりを幸せだと思っているんだろう?
私はそんな“お金があれば誰でも買える幸せ”になんて、興味が無い。
まだ誰も味わったことのない未知の幸せを、自分の力で見つけ出したい。
私、そんじょそこらの人間とは欲張りのレベルが違うんだ。
幸せの感度を拡げれば、それが実はそこら中に落ちていることに気づく。
たとえば、体育館に舞う埃が、日の光でちらちら光るのを、綺麗だな、って見惚れる時。
たとえば、傘が雨粒をぱらぱら弾く音を、心地良いな、って聴き惚れる時。
こんな“見つけづらい幸せ”に気づけるのなんて私くらいだろうな、って密かな優越感に浸る。
皆、お金さえあれば幸せになれると思って、幸せの感度を磨くのをサボり過ぎなんだろうな。
同じ世界に生きているのに、こんな幸せを味わえずに終わるなんて、もったいない。
お金が無いことを、不幸だと思っている人って、多い。
だけど私は、それってちょっと違うんじゃないか、って思っている。
不幸なのはお金が無いことじゃなくて、それで心に余裕が無くなることだ。
お金が無いと、誕生日でも好きなケーキが選べない。
種類やサイズが、希望のものよりワンランク、ツーランク下になる。
だけど私は、あのケーキが食べられなくても、べつに良かった。
それよりスポンジと生クリームを買って来て、お母さんと一緒に手作りしたケーキの方が楽しかったから。
思い出って、お金じゃない。
柔軟な心とアイディアさえ有れば、高価いお金を出さなくても、それより“記憶に残る”思い出が刻める。
私はそれを、経験で知っている。
なのに、何でだろう。
同じ経験を積んだはずのお母さんが、今では何故かお金に囚われて、毎日ピリピリしている。
お父さんが“余計なこと”にお金を使うたび、私が何かに失敗して“お金を無駄にする”たび、あからさまに不機嫌になる。
態度と表情で家の中をギスギスさせる。
その重苦しい空気に触れるたび、私がここにいてはいけないように感じる。
学校に習い事に、お金を“使わせる”ばかりで“増やせない”私は、この家の“お荷物”なんじゃないか、って居たたまれなくなる。
きっと考え過ぎの被害妄想だろう、って自分で自分を納得させるけど、お母さんが嫌な顔をするたびに心が揺らぐ。
私には、大人のお金事情は分からない。
働いて稼いでいるわけでも、苦労して家計をやりくりしているわけでもない。
だから「お金なんて無くてもいいじゃん」なんて、簡単には言えない。
だけど、お金の無い不満ばかりで毎日をつまらなくするのは、何か違うんじゃないか、って思う。
お金が無くても無いなりに、人生を楽しまなきゃ、生きていて損じゃない?
お金が有ろうと無かろうと、嫌でも人生は進むのに、ないものねだりの文句ばかりで時間を潰すなんて……人生を楽しめていないにもほどが無い?
可愛い文房具が買えないなら、シンプルな文房具をキラキラシールで盛り付けする。
欲しい本が買えないなら、図書館と古本屋をハシゴする。
そうやって知恵と工夫で“入手困難なお宝”を手にするのって、ゲームみたいで楽しい。
きっとこの感覚って、ストレートに欲しい物を買える人には味わえないんだろうな。
きっと私は、お金を持っている人たちよりよほど、人生を賢く楽しんで生きてる。
お金に囚われないコツって『お金で買えない価値あるモノを、どれだけ知っているか』なんじゃないかな?
だって、私のこの柔軟で幸せな脳ミソは、どれだけお金を積んだって手に入らないって、知ってる。
どんな状況でも幸せを見つけることに特化したこの脳ミソを、私はどんな宝物よりも愛している。
今日もお母さんは、機嫌の悪さを私にぶつけてくる。
生活への不満で家の中を暗くする。
でも、大丈夫。
家を出れば、今日もきっと、あの小径に猫さんたちがくつろいでいるから。
今日も私は、友達との何気ない会話に経済格差を感じて凹む。
でも、大丈夫。
お金の足りない分は知恵と工夫で気分をアゲるから。
どんなに嘆いても、妬んでも、私を取り巻く環境は、そう簡単に変わってくれない。
だけど、大丈夫。
どんな状況でも心を上向ける方法を、私は知っているから。
毎日せっせと磨いて感度を鍛えたこの脳ミソは、どんなささやかな幸せも掬える。
だから、絶対幸せになれる。
この世の誰より欲張りな私は、どんなちっぽけな幸せだって見逃さないのだ。
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