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αの悲劇  作者: 馬場悠光
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第一章 ちぎられたチェーン

 始業時刻の八時十五分が五分、十分と過ぎても、大鷲(おおわし)アテナは出社してこなかった。

 

「一体どうしたんでしょうか? 大鷲さん」

 

 事務員が桐谷一詩(きりやかずし)に尋ねる。一詩の胸中はすでに不安と焦燥に駆られていた。アテナは真面目なやつだ。寝坊などありえない。仮に遅刻するにしても、必ず前もって連絡をしてくるはずだ。

 

 高校時代からアテナの事を良く知る一詩には、彼女に対しての絶対的信頼があった。

 

 会社の固定電話が鳴り、それに出ようとする事務員を一詩は制すと、自ら受話器を取った。受話器を取る時、先方の番号を確認しようとしたが叶わなかった。電話の液晶に映っていたのは番号ではなく、非通知の文字だったからである。

 

「はい、こちら桐谷電工です」

 

 不審を押し殺しながら決まり文句を述べると、相手の男のやや神経質そうな声が鼓膜に響いた。

 

「……あっ、もしもし……こちら退職代行『モウイヤダ』のカメナシと申す者ですが……」

 

「退職代行?」

 

 思わずその単語を反復する。様々な理由で退職の旨を直接会社に伝える事がはばかられる際、本人の代わりに会社へその旨を伝えて手続きをしてくれるという、昨今話題のサービスだ。

 

「……それで、その退職代行様がウチにどのようなご用件で」

 

「そっ……そちらで働いておられます、大鷲アテナさんのご退職の件でご連絡させていただきました」

 

 桐谷電工株式会社などと大層な社名をしているが、創業してまだ一年と経っていない。代表取締役社長の一詩と、一詩の高校時代の同級生の妹である事務員、そして大鷲アテナの三人しか従業員のいない小さな会社だ。三人いる従業員の内、自分と事務員がこの場にいる以上、先方が話題にするのはアテナに他ならなかった。嫌な予感はしていたが、まさかそれだとは思わなかった。

 

「退職って……またどうして」

 

「そっ、それはですね……何でも彼女、ふと思う所があって、長期の旅行に出る事にしたみたいなんですよ」

 

「それだったら」

 

「そういう事で! 大鷲アテナさんは退職という事で、よろしくお願いします」

 

 休職届を出せばいいだろう。一詩にそう言う隙を与えず、相手はまくし立てるように述べて、電話を切った。

 

「……さっきの電話、何だかおかしくないですか」

 

 両者の会話を聞いていたのか、事務員が怪訝な表情で一詩に意見する。

 

「私、先週帰宅する際、大鷲さんにこう言われたんです。「また来週もがんばろうね」って。それに彼女なら、直接辞表を渡してきますよ。人を介したりなんてしませんって」

 

 事務員の言葉に一詩はうなずく。確かにそうだ。それにあの退職代行のカメナシと名乗る男、やけに自信なさげであった。まるで、他人と話し慣れていないような……

 

「よし、俺は大鷲に直接連絡を入れてみる。お前はモウイヤダって退職代行について調べてくれ」

 

 一詩は自身のスマホを取り出すと、登録してあるアテナの番号に連絡を入れた。しかし、いつまで経っても「お掛けになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」の文句を聴くばかりだった。アテナとの直接的な会話を諦めてスマホを置くと、事務員から報告があった。男の言ったモウイヤダなる退職代行サービスは確かに実在はするようで、インターネットを用いて、容易に同社の所在地や電話番号などを調べる事が出来た。だが、モウイヤダに大鷲アテナの件について問い合わせるも、モウイヤダは、「当社はそのような人物からの依頼は受けておらず、カメナシなる名の社員も在籍していない」と、否定してきたという。

 

 事務員の報告が終わると同時に、再び会社の電話が鳴り出した。知らない番号ではあったが、今度は非通知ではない。一抹の希望を抱いて一詩は受話器を手に取った。

 

「ご無沙汰しております桐谷さん。大鷲アテナの父です」

 

 相手の名乗りと声で記憶が蘇る。このアテナの父と会話したのは数年前、高校の文化祭での一度限りであったが、腰の低い温和そうな紳士で、良い意味で印象に残っていた。しかし今、聞こえてくるのは腰が低いというよりも、可愛想なほど弱々しい声だった。そんな声が、更に一詩を不安と焦燥の沼へ引きずり込んでいく。

 

「突然の電話、申し訳ございません。あの……娘の所在をご存知ではないでしょうか」

 

 聞けば、先ほど大鷲氏の元に、娘アテナから電話があった。

 

 ――しばらく旅行へ行く。旅行を楽しみたいから、連絡を寄越さないで欲しい。

 

 突然の電話に驚いたものの、ここで親としての勘が働いた。どうも娘が何かに怯えているような気がしたのだ。それを指摘した所、断ち切るように電話が切られた。慌ててリダイアルボタンを押したが、再び繋がる事はなかった。いても立ってもいられず、娘の友人などへ片っ端から電話を掛けて、娘の所在を調べているのだという。

 

 一詩の首筋、背筋が完全に凍り付いた。彼は大鷲氏に惜しみない協力の旨を伝えると、今日中に二人で彼女のアパートへ向かう事にした。

 

 もはや仕事など、手が付けられるはずがなかった。

 


 一詩は上京してきた大鷲氏と駅で合流すると、アテナの暮らしているアパートへ向かった。アパートに着くと、そこの大家に事情を話してアテナの部屋の鍵を開けてもらった。

 

 部屋の中はどこも荒らされたり、窓が破られたりした形跡などはなく、不審な箇所はどこにもないように思われた。だが、たった一つ、異変が見つかった。

 

 それを見つけたのは、玄関付近に立っていた大家だった。玄関の扉の鍵には二つのシリンダー錠の他、ドアチェーンが取り付けられていたが、肝心のチェーンが付いていなかったのだ。

 

「劣化するなりしてちぎれた後、そのままにしてあるのではありませんか?」

 

 一詩が問うと、大家は断言する。

 

「いいえ、一週間前に夕飯のおかずの余り物を持ってこの部屋へお邪魔した時は、確かにチェーンは付いていました。私、こう見えても記憶力には自信があるんですから」

 

「失礼、これは……」

 

 一詩と大家が話している中、大鷲氏が土間からつまみ上げたのは、小さな金属片だった。細く、短く、少し丸まった針金のような、銀に輝く金属片。眼を凝らしてよく見てみれば、両端が微かに三角形の鋭角のようになっている。かつては両端が繋がっていて、輪になっていたのだろう。

 

「ドアチェーンの、欠片ですね……」

 

 まさしく、何者かがこれをちぎって部屋に侵入した形跡だった。その何者かが、アテナを攫ったに違いない。そう結論に達した一詩と大鷲氏は興奮冷めやらぬ勢いでアパートを後にすると、被害届を出すべく警察署に赴いた。

 

 しかし、被害届は受理されなかった。

 

「チェーンの欠片一つで誘拐って、ちょいと早計過ぎやしませんかねえ? それに本人から、お父さんのトコに「しばらく旅行へ行く」って、直接連絡があったんでしょ? 別に心配する必要ないんじゃないの?」

 

 彼らを応対した警察官は、心底面倒そうに述べたのだった。

 

 それでも食い下がり、何とか捜索願は出せたものの、警察署を出た二人の警察に対する不信は頂点に達していた。

 

「あれでは、ろくな捜索は期待できないでしょうね」

 

 大鷲氏は失意と失望を滲ませながら言う。

 

「警察とは別の……例えば、探偵に依頼するのが良いかもしれません。その方がまだ真摯に捜索してもらえる可能性が高いでしょう」

 

 探偵、という単語が一詩の記憶に引っかかった。そして、その記憶を引き出していくと徐々に希望が湧いてくる。

 

「大鷲さん、その探偵でしたら俺、一人知っていますよ。腕のほどがどうかは知りませんが、信頼に足るヤツであるのは保障します」

 

 ――今年の元旦。一詩の元に例年通り、彼から年賀状が届いた。いつも裏面には年始の挨拶の他、自身の近況が綴られていたが、今年の近況は眼を引かれた。探偵事務所を開設したのだという。彼は昔から大の推理小説好きで、将来は探偵になりたいのだと言っていた。子どもの頃からの夢を叶えたのだと友人として嬉しく、誇らしくなったものだ。――思えば、それに触発される形で自分もこれまで勤めていた会社を辞めて、桐谷電工を創業したのだ。

 

 年賀状には事務所の住所、電話番号も記されていた。一応スマホの電話帳に登録していたその番号に電話を掛けると、すぐに繋がった。

 

「はい、こちら小森探偵事務所でございます」

 

 小森真介(こもりしんすけ)。絶望の中、久々に耳にする友人の声に、一詩の目頭は熱くなった。

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