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あの夏に残された記憶  作者: 紅福達磨


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10/12

あの日言えなかった言葉

その日、私は久方ぶりに母の夢を見た。

それが夢だと気付いたのは、目の前の景色がどこか不鮮明だったからだ。


音はあるはずなのに、どこか遠い。

色も、どこか薄く、柔らかく滲んでいる。

まるで水の中から昔の記憶を覗き込んでいるような、不思議な感覚だった。

それでも、そこにいる人の姿だけははっきり分かった。


母だった。


私はピアノの前に座っていた。

白い鍵盤に指を置き、何かの曲を弾いている。


横には母が立っていた。


母は何かを一生懸命に話している。

けれどその言葉は、うまく聞き取れない。


遠くから聞こえるように、ぼんやりとしている。

それでも、母の口の動きはなんとなく分かった。


「あの子はもっと上手に弾ける」


「あの子はもっと頑張れている」


それは、母がよく言っていた言葉だった。

思い出すと少し胸が苦しくなる。

いつの間にか、ピアノは楽しいものではなくなっていた。

練習することが、どこか義務のようになっていた。


この夢の中の私は、まだ小さかった。

ピアノの前で、少し背筋を伸ばしながら一生懸命に弾いている。

舞台に立つ前、母はいつも私の髪を綺麗に結い上げてくれた。

ドレスを着て、鏡の前に立つと、まるでお姫様になったような気持ちになった。

母はその姿を見て、満足そうに微笑んでいた。

あの頃の私は、まだピアノが好きだったのかもしれない。


景色が、ふっと揺らいだ。

そしてまた別の場所に変わる。


今度はキッチンだった。

私は台の上に置かれたボウルを両手で抱え、泡立て器を一生懸命に動かしている。

母は隣で材料を量っていた。

日曜日の朝だった。

その日の朝にホットケーキが出ると、なんだか特別な日みたいで嬉しかった。

普段は母がほとんど作ってしまうけれど、この日は違った。


「葉月もやってみる?」


そう言って、混ぜる役目を任せてくれたのだ。

ただ材料を混ぜるだけの仕事。

それでも私はとても嬉しくて、夢中で泡立て器を動かしていた。

ボウルの中で生地がゆっくり混ざっていく。

私は何かを母に話しかける。

何を言ったのかは思い出せない。

でも母は笑っていた。私と一緒に笑っていた。


リビングでは父が新聞を広げ、時々こちらを見ていた。

ホットケーキが出来上がるのを、今か今かと待っている。


焼き上がった甘い匂いが、部屋の中に広がっていた。

また、景色が揺らいだ。


次の瞬間、私は水族館の前に立っていた。

ここには見覚えがあった。

母と二人で来た、あの日の場所だ。

母と二人だけで出かけたのは、きっとこの一度だけだったと思う。

不思議なことに、その日の細かい出来事はあまり思い出せない。


どんな順番で水槽を見たのか。

何を食べたのか。

何を話していたのか。


けれど一つだけ、はっきり覚えているものがある。

帰り際に買ってもらった、イルカのぬいぐるみ。

今でも、あのぬいぐるみは私の部屋に置いてある。

母のぬいぐるみたちと一緒に並んでいる。

時々それを見ると、今日の夢みたいに、この日のことを思い出す。

あの日、帰り道の車の中で私はずっと喋っていた。

母が運転する横で、飽きることなく話し続けていた。


きっと、水族館で見た魚のこと。

イルカのこと。

そして、買ってもらったぬいぐるみのこと。


母は何度も頷きながら聞いていた。

あの時、私はどんな顔をしていたのだろう。


また、景色が揺れた。

今度は静かな部屋だった。

白いベッドの上に、私は母と並んで座っていた。


ここがどこなのか、すぐに分かった。

病院だった。

この時の記憶だけは、はっきりしている。

母は明るく振る舞っていた。

まるで何でもないことのように話していた。

けれど、どこか無理をしているのが子供の私にも分かった。

母は私の頭をそっと撫でた。

そして、あの日と同じ言葉を言った。


「お父さんをよろしくね」


「ちゃんと良い子で待っていて」


「家事は葉月が頑張るのよ」


ああ、これは——

最期に母と言葉を交わした時だ。

私は母の横顔を見つめた。

もっとよく見ておけば良かった。

もっと話しておけば良かった。

そんなことばかり、頭の中に浮かんでくる。

本当は、そんな言葉なんて聞きたくなかった。


今すぐ帰ってきてほしかった。

ずっと一緒にいたかった。

どうして母じゃなきゃいけなかったのか。

どうして私じゃなかったのか。

胸の中に溢れた気持ちは、うまく言葉にならない。


それでも——


一つだけ、どうしても言わなければいけないことがあった。

私は母の方を向いた。

夢の中なのに、不思議とはっきりと意思を持っていた。

あの日言えなかった言葉を、今こそ言わなければいけない。

私はその言葉をほとんど言ったことがなかったから。

母がそこにいるのは当たり前だったから、わざわざ言う必要なんてないと思っていたのかもしれない。


けれど今なら分かる。

ちゃんと伝えることには意味がある。

たとえ遅くても。

たとえ夢の中でも。


私は母を見つめた。

そして言った。


「お母さん、大好きだよ」


私はぎゅっと母を抱きしめた。

その瞬間、確かに温かさを感じた気がした。

あの日と同じ温もりだった。


その時だった。


どこからか、ぱち、と小さな音が聞こえた。

花火の弾ける音に似ていた。

ふと、あの夜のことを思い出す。

祖父と祖母と三人でやった花火。

そして、あの赤い着物の少女。


「綺麗ね」


そう言っていた声が、遠くから聞こえた気がした。

サワサワ、と葉の揺れる音も聞こえる。

あの山の道で聞いた音だった。

そしてどこか遠くで、水の流れる音もした。

草船が流れていく川の音。

まるで、いろいろな記憶がゆっくり混ざり合っていくようだった。

視界が少しずつ明るくなっていく。

夢から覚める時間なのだと分かった。

その時、母が言った。


「葉月」


「お母さんも、貴方のことが大好きよ」


母はどんな表情をしていただろう。

あの少女のように、少し寂しそうに笑っていたのだろうか。

視界が真っ白になった。

そして、私は目を開けた。

外はまだ朝だった。

山の向こうから、少しだけ陽が昇り始めている。

体を起こす。

夢の余韻がまだ残っていた。


私は自分の体をぎゅっと抱きしめた。

久しぶりに会えた母の温もりが、まだそこに残っているような気がしたからだ。


外から、かすかに太鼓の音が聞こえてきた。


どん、どん、とゆっくり響く音。


そういえば祖母が言っていた。

今日は山の祭りの日だった。

亡くなった人たちを見送るための、送り火が始まる。


私は窓の外を見た。


山の上の方に、白い霧がゆっくり流れていた。

その霧の向こうで、誰かが静かに手を振っているような気がした。

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