九節/3
そして、また約一年が過ぎた。
アリステラ王国暦一四〇六年、遊戯の月二日。
時間切れまで、残り一か月を切った。
もう、授業をすることはなくなっていた。
教えることは殆ど無く、レイフォードの身体は歩くのが精一杯。
ずっとシルヴェスタはぴりぴりしているし、レイフォードもずっとにこにこしている。
テオドールは、困ったように笑うだけ。
イヴは、何度目か分からない溜息を吐いた。
貼り付けた仮面のような笑顔と比べれば、不機嫌丸出しのシルヴェスタの方がまだマシだ。
何があったかは知らないが、二人の関係はぎくしゃくしているようだった。
『何苛ついてんだよ、仲直りしようぜ!』なんて言える雰囲気でもない。
「でもまあ、十中八九アレ関係だろうなあ……」
「アレとは、何なのですか?」
「ああ……マリアは知ってるからいいか。
国家機密の病気、『体内源素過剰症』」
「……なるほど、例の少年ですか」
紅茶の入った急須を置いて、マリアは肩をすくめた。
「本当に厄介ですね。
人の身では解決出来ないものですし」
「魂の問題になると、どうしてもなあ。
マリアでもどうにもならないものなら、皆お手上げさ」
「わたくしも、そこまでの力はありませんよ?
ただ癒やせるだけですから」
「……歴代最高の聖女様でしょうに……」
彼女は微笑んで話を逸らす。
照れ隠しのつもりだろう。
マリアは、昔から褒められることが苦手なのだ。
注がれた紅茶を一口飲む。
鼻に広がる匂いは、イヴの好きな品種のものだった。
「そろそろ期限でしょう、彼のご様子は?」
「何というか……覚悟を決めているみたいだったね。
身辺整理してるっぽいし」
「……あらあら、それは……」
今朝訪れた際にレイフォードの自室を見たが、怖いほどに整頓されていた。
机上に散らかっていた本や紙片らが、跡形もなく。
『自殺』でもするんじゃないかと思うほど。
「……いや、ねえ。
そこまでしてもらっても、さあ……うん。
ワタシ、今凄い申し訳無い気分だ」
「仕方ないのですよ、彼らは知り得ないのですから」
イヴとマリア、救世主と聖女。
権限は、領主よりも遥かに高い。
だからこそ、二人は知っていた。
過剰症により肉体が消失した人はどうなるかを。
そして、シルヴェスタやディルムッドが知らない、その先までも。
「……わたくしたちは知恵を授けることも、手助けすることもできません。
できることは、ただ見守るのみなのです」
「……ああ、分かっているよ」
口ではそう言っていても、心は納得していなかった。
中身は置いておいて、成りは小さな子どもであるレイフォードが自身の死を案じている、というのは心苦しい。
だが、イヴはそれを解決できない。
王国の規則で、干渉することを禁止されているからだ。
だから、彼らを救う知恵を得ているというのに、授けることも手伝うこともできなかった。
──救世主なんて呼ばれているのに、教え子一人救えないなんて。
そう、自分を嘲笑する。
俯いて見えた手の内。
紅茶の水面は、絶え間なく揺らいでいた。
「……イヴ」
マリアが背後からイヴを抱き締める。
「あなたが悪いわけではありません。
だからどうか、自分を卑下なさらないでください」
耳元で囁かれた言葉。
イヴが落ち込んでいるとき、マリアはいつも励ましてくれた。
「……ごめん、でもありがとう」
「どういたしまして」
顔を覗き込み、微笑まれる。
純白の瞳は、変わらず光を宿していた。
少し温くなった紅茶茶碗を傾ける。
彼らを、彼を見守ることは自分で決めたことだ。
目を背けず最期まで、その姿を見届けることを。
喉の奥に支えた不平不満を、紅茶と共に飲み下した。




