九節〈愛は貴方を見守っていたかった〉/1
イヴ・サルクウォント。
救世者と謳われた彼女は、所詮『人』であった。
人より少し強くて、不思議な力を持っていて、大切な人を救いたいという想いがあっただけ。
どこにでもいるわけではないけれど、『普通』の女の子。
でも、そんなことは昔の話。
そして、救世者であったのも昔の話。
今は、大切な人と日々を過ごすだけの人。
国から依頼された任務を熟したり、魔物を退治したりはするけれど。
この世界に生きる、ただの『人』であった。
しかし、『人』でなかったら。
世界の機能の一つであれたなら、こんなことに悩むことはなかったのかもしれない。
そう、考えてしまうこともあった。
イヴがレイフォードの家庭教師となったのは、あの事件から一月半ほど後のことだった。
元々シルヴェスタからの打診があり、レイフォードの特異性に興味を持ったことから引き受けてはいたのだ。
だが、彼の病気の件で二週間ほど遅らせて始めることになり、更に起こった事件による傷の回復を待ったことで、予定より大幅に遅れてしまっていた。
そうして、やっとのことで始まったのだ。
だが、始まって一週間。
イヴは早速項垂れた。
アーデルヴァイト家のような貴族の家が家庭教師を雇う理由の大半は、初等学校の教育では抑えきれない範囲を教えるためだ。
初等学校は、専門的なことを教えることはない。
精霊術は基礎の創造術式を一通り教えるだけであるし、武術は何一つ教えない。
礼儀作法も庶民的なものだ。
平民で騎士の職に就くわけでもないのなら、それで十分だ。
しかし、貴族には不十分である。
だからこそ、貴族は家庭教師を雇い、我が子に不足分を学ばせる──のだが。
レイフォードには問題がある。
先ず、致命的な部分は『精霊術が使えないこと』と『運動が出来ないこと』。
膨大な源素量のため、体内源素を扱うことが出来ず、精霊術が使用出来ない。
怪我が完全に回復しておらず、過剰症による虚弱化で、肉体の格が運動に適していない。
家庭教師を雇う意味の約三分の二が出来ないのだ。
更に、礼儀作法。
これについて、イヴが教えることは殆ど無かった。
一度見ただけでほぼ完全に再現してみせたのだ、あの少年は。
他に何か教えようにしても、国語も数学も申し分無いほど出来る。
つまり、イヴは完全に出鼻を挫かれたのだ。
『教職とか初めてだけど、何とかなるよね』なんて心は瞬く間に消え去ったのである。
そして、湧き上がるシルヴェスタへの怒り。
『お前こうなること分かっていて頼んだな?』、と。
────当たり前だろ、俺の息子だぞ。
何でもない顔で返してきたあの男に、イヴは拳を振り抜いた。
まあ、そのままの顔で受け止められてしまったのだが。
レイフォードは、とても優秀な生徒だった。
少し恐怖を覚える程度に。
一を聞けば十を学び、十を百にしようとする。
意欲もあり向上心もあり、指導の難易度としては簡単なのだ。
だが、教師としては非常に厄介だった。
彼の求める部分を補おうとすると、知識が通常よりも三倍四倍必要になる。
また、『しようと思わない』のではなく『出来ない』。
教えようにも、根本的な部分で躓いてしまうのである。
やりやすいのにやりにくい。
優秀であるのに厄介。
そんな矛盾性に惑わされ続けたイヴは、斜め上にすっ飛んだ。
────しゃらくせえ。
イヴという女を、一言で表すなら『はちゃめちゃ』だ。
彼女の本性を知るものは、皆そう言う。
だが、大人になるにつれて、次第に本性は鳴りを潜めた。
本当に仲の良い友人以外に、その姿を見せることはなくなった。
────もう子どもだとか何だとかどうでもいいから、ワタシの全部詰め込むぞ。
しかし、レイフォードを眼前にして、イヴは仮面を脱ぎ捨てた。
『英雄』、『救世主』。
格好付けていた自分を捨てて、他の何者でもない『イヴ』として。
レイフォードの師になると決めたのである。
そして、自分の持ち得るものを全て詰め込んだ。
精霊術、武術、自然科学、地理、他にも様々。
初等学校どころか、高等学校でも教えないような知識も教えた。
普通の子どもならば、絶対に理解出来ない内容である。
だが、レイフォードは理解出来る。
一週間の関わり合いの中で、イヴはそう悟っていたのだ。
今思えば、この判断は正しかったのだろう。
あんな才能の塊を腐らせずに済んだのだから。
親に──いや、伯父によく似ているようで、似てない子だなあ。
そんな感想を決して口には出さず、心の中で静かに吐露した。




