六節/3
そして、更に約七年経ち、今に至る。
セレナは、大きく溜息を吐いた。
最近、我が天使は元気がない。
一見明るく振る舞っている彼だが、長年付き添ってきたセレナだからこそ、その仮面の下に隠された顔に気付いていた。
決して、憂いを帯びた顔も良いですね、などと言っている場合ではないのだ。
原因の六割は、彼が恋している少女との関係だった。
何でも、喧嘩別れして半月以上そのままであるらしい。
あれくらいの年齢の子どもでは、互いに意地を張り合って引っ込みがつかなくなるというのはよくあることだが、二人はそこまで幼稚ではなかった。
偶に、セレナが驚くほど大人な態度を取るあの二人のことだ。
単なる喧嘩ではないのだろう。
歯痒い気持ちもありながら、セレナは仲裁をすることができない。
中途半端に大人が出張ってくるのは、更に仲を拗らせることにもなるからだ。
それに、セレナよりも彼らに年齢が近く、友である弟分がいる。
下手にセレナが動くより、テオドールが動いたほうが良い。
いやしかし、もう半月も経っているのに改善していないというのはおかしくないだろうか。
だが、干渉するのは──。
「また悩んでいるのか、セレナ」
「また来たんだ、騎士さん」
見慣れた金髪が横に現れた。
あの日以降、彼女はずっとセレナに付きまとっている。
騎士さんとは、セレナが付けたあの精霊の仮の名前だ。
精霊は、基本名を教えたがらない。
最上位の精霊でも、それは同じだ。
「……そういえば、まだ教えてくれないの? 御子のこと」
風に靡く洗濯物を眺めながら、呟くように訊いた。
「……良いか、教えよう」
「え、いいの?」
「聞きたくないか?」
「いや、聞きたいけど……ずっとはぐらかして来たのに、なんで急に良くなったのかなって」
精霊は、哀しそうに目を細める。
「……もう何も変えられなくなったから、だ」
「変えられない……?」
また、よく分からないことを。
訝しむセレナを横目に、精霊は話を続ける。
御子とは、神の力を宿す者──そして、世界の生贄のことだ。
現在は、祝福保持者とも呼ばれている。
厳密には、少し違うが。
御子はやがて、世界を守るために犠牲となる。
その身を礎とすることで世界の安寧が保たれるのだ。
「……必ず、後悔することになるっていうのは」
「貴殿は喪うことになるのだよ、あの少年を。
それは今や、変えられない未来だ」
精霊は、嘘を吐かない。
つまり、これは真実だ。
「……変えられないのは、どうして」
「演劇を見たことがあるか?」
セレナは頷く。
レイフォードとユフィリア、そのお付きの使用人ユミルとテオドール。
五人で見たあの劇は、今でも鮮明に思い出せた。
「脚本は、幕が上がってしまえば書き換えられない。
それと同じだ。
……演者が変える、というならば話は別だが」
「なら、私は変えられるの?」
「不可能だ。
貴殿はただの『観客』にしか過ぎない。
この先の展開を知らないだろう?」
その通り、セレナは何も知らない。
レイフォードの身に何が起こっているのかも、彼が何を謀っているかも。
セレナはただ、見守ることしかできなかった。
「だから言ったのだ、『必ず、後悔することになる』と。
入れ込まなければ、ただの他人が死ぬだけだというのに」
「……それでも、私は」
セレナは俯いていた顔を上げ、精霊と視線を合わせた。
「私は、レイフォード様を愛す。
喩え、後悔することになっても、愛さなかったことで後悔したくない」
夜という名だというのに、その煌めきは太陽のようで、精霊は目が眩んでしまう。
自分もこう言えていたら良かったのに、と変えられない過去に浸ってしまう。
目を隠すように手で顔を多い、精霊は言う。
「ああ、貴殿は昔の私と同じようで違う」
一際強く、風が吹いた。
あの日と同じ晴天に、花と葉が舞う。
「それほどまでに強い意志があるならば、諦めるな。
観客を舞台に引っ張り上げる演者だっている」
「……ええ、勿論」
鉄仮面な顔が、少し綻んだ気がした。
「誰か、居る?」
「私はここで、励めよ少女」
「ええ……」
突如聞こえたレイフォードの声に、精霊は尻尾を巻いて逃げ出す。
彼女にとっては、いつものことだった。
レイフォードが現れると、精霊は直ぐどこかに消える。
苦手なのか、と聞いても話を逸らすのだ。
「居りますよ、レイフォード様。
いかがなさいましたか?」
「ちょっと外の空気が吸いたいなあって思って。
……セレナ一人?
もう一人くらい誰か居なかった?」
「気のせいですよ、お気になさらず」
レイフォードは、一年半前と同じように杖をついていた。
患っている病気により、視界と身体の自由が喪われてしまっているのだ。
「テオドールは、どうしたのですか?」
「……一人になりたくてね。申し訳ないんだけど」
風で舞い上がる髪を片手で抑えながら、目を伏せて言った。
「なるほど……しかし、長くいれば身体に触りますよ。
春になると言っても雪も降りましたし、まだ肌寒いのですから」
「分かってる。セレナが戻るときに一緒に戻るよ」
そうして、会話は途切れた。
聞こえるのは風の音、鳥の鳴き声。
目の前では洗濯物が、優雅に風に煽られている。
そんな静寂を切り裂いたのは、セレナだった。
「レイフォード様」
「……どうしたの、セレナ」
これを言うべきか、セレナは迷っていた。
『観客』の立場で『演者』に話していいものか、と。
しかし、『演者』ならば、自身を応援してくれることは嬉しいはずだ。
だから、セレナは決めた。
「貴方がどんな未来を選んでも、どんなことを決めたとしても。
私は、貴方を支えましょう。
貴方の選択と決断を称えましょう」
──私は、貴方を愛しているのですから。
「……ありがとう。少し気持ちが楽になったよ」
金剛石と天青石が揺らいだ。




