六節/2
いくつかの時を経て、少女はセレナと名付けられ、ここの使用人となった。
使用人、というよりお手伝いの方が合っているかもしれない。
門番の男であり義理の父であるセリアーノの、仕事時間の暇潰しも兼ねて働いているだけだった。
共に働く使用人たちは、とてもセレナを可愛がった。
セリアーノが危惧していた問題は特に無かったし、寧ろ歓迎されていたのだ。
何せセレナは、《精霊の愛子》であったのだから。
精霊とは、源素の塊が意志を持ったものだ。
高位になればなるほど姿は明確になり、知能が上がる。
精霊は基本、契約しなければ姿が見えず、対話もできない。
しかし、セレナは契約せずとも精霊の姿が見え、対話が出来る。
それが、精霊の愛子である証明だった。
アリステラ王国において、精霊とは愛すべき友だ。
その友に愛されている者は、同じく愛すべき者だ。
だから、セレナは阻まれることなく溶け込むことができたのだった。
そして、三年の月日が過ぎた。
十一歳となったセレナは、音を立てないように気を付けながら廊下を走る。
向かう先は玄関口。
今日は、出産に際して街の病院で過ごしていた、領主シルヴェスタの妻クラウディアが帰って来る日だ。
無事に男の子が生まれた、という報告から一週間と少し。
屋敷全体がおめでたい雰囲気で、皆が舞い上がっていた。
あの仏頂面の領主や厳しい主任でさえ、周りに花が咲くほどに。
勿論、アニスフィアたちも大喜び。
リーゼロッテに関しては、眠れないほど興奮していた。
例に漏れず、セレナも心が踊っている。
表情が乏しいと言われる己が、今日は自分でも分かるくらい頬が緩んでいたのだ。
階段を駆け下りると、大広間には既に少ないながらも人が集まっていた。
「あらセレナ、早いですね。良いことです」
「ありがとうございます、サーシャさん」
使用人の総括である主任サーシャは高年の女性だ。
前当主の時代からこの屋敷に勤めている古参であり、シルヴェスタも頭が上がらないという。
次第に人が集まってきた。
見えないのは門番の二人だけだ。
サーシャが手を叩く。
皆の視線が一斉に集まった。
「さあ、皆さん。
そろそろシルヴェスタ様方がお帰りになられます。
お出迎えするように」
切れの良い返事が広間に響く。
サーシャを先頭に、皆が外に出た。
春風がふわりと吹き、木の葉を揺らす。
ふと見上げた空は、雲一つない澄み渡った晴天であった。
「〝帰ってきたよ、帰ってきたよ!
《御子》も一緒に!〟」
「……みこ……?」
精霊たちが飛び回って騒ぎ出す。
セレナには、御子という単語は聞き覚えなかった。
「ねえ、貴方たち。それってどういう……」
「セレナ、静かにしなさい」
言葉の意図を訊こうとしたが、サーシャに注意されてしまう。
それもそうだと思い返し、後で改めて訊こうと考え直した。
数分もしないうちに、屋敷の門が開かれる。
ゆっくりと馬車が石畳の上を進み、セレナたちの前で止まった。
御者台に座っていたオズワルドが、扉を開ける。先に降りたのはシルヴェスタ。
続いて、クラウディア。
二人がある程度近付いたのを認識すると、皆が腰を折った。
「お帰りなさいませ。シルヴェスタ様、クラウディア様」
「出迎えご苦労」
サーシャが出迎えの口上を代表して言う。
シルヴェスタが労えば、セレナたち使用人は顔を上げた。
至って普通に、いつも通りに。
目の前には、シルヴェスタとクラウディア。
横には同僚。
何も、変わりないはずだった。
けれど、今日だけは。
一つ、いつもと違うものがあったのだ。
「──あ」
絹のように柔らかで薄く細い、白練色の髪。
金剛石と天青石の瞳は丸く、大きい。
ぷっくらとした頬は、人形のように柔らかそうだ。
将に、聖典の一頁。
天から使わされたような愛らしさ。
《天使》とでも呼べばいいのだろうか。
頭頂から爪先まで、全てがすべてセレナの心を掴んで離さない。
胸が苦しい、呼吸が荒い。
しかし、不思議とそれが心地良いのだ。
美しき我が天使。愛おしき我が天使。
この瞬間、セレナは決意した。
この天使に生涯を捧げよう、と。
齢十一にして、人生の方針が決まったのだった。
「……セレナ、どうしたの?」
「いえ、大丈夫です。何もありません」
「……ならいいけど」
固まっていたセレナに、同僚の一人が声を掛ける。
セレナの食い気味な返答に不安を憶えるが、調子が悪いわけではないようだと改めて動き出した。
周囲の使用人たちは、もう自身の業務に戻ろうとしている。
サーシャに叱られないように、自分も仕事をしなければ。
だが、その前に一つ確認しなければいけないことがあった。
「精霊たち……いいえ、そこの貴方。
隠れていても無駄よ」
「……まさか気付かれるとはな」
「そんなに分かりやすくしておいて、気付かないわけないでしょう」
背後を振り返って、姿が見えないように隠れていた精霊に向かって声を掛けた。
虚空に浮き上がるのは、騎士服と鎧を身に纏った女性型の精霊。
金色の髪に隠れる黄昏色の瞳が、鋭くセレナを見据えている。
「して、要件とは?」
「ただ訊きたいことがあるだけ。
……御子って、何?」
それは先程、精霊たちが口々に騒ぎ立てていた言葉だ。
騎士の精霊は腕を組み、しばし考える。
「……今はまだ、知らなくても良いだろう」
「……どういうこと?」
彼女の口振りに、セレナは疑問をそのままぶつける。
「言葉通りだ、少女よ。
今はまだ知るときではないのだ」
「……なるほど、ね。
あまり詮索しない方が良いみたい」
「理解が早くて助かる。
いずれ知るべきときが来るさ」
一層強く風が吹く。
思わず、瞬きをしてしまう。
「私がここに来たのは、貴殿に一つ忠告をするためだ」
耳元で声が聞こえた。
反対方向に飛び退けば、元に居た場所の真横に精霊が移動している。
「──あの方に入れ込むな。必ず、後悔することになる」
そう言うと、精霊は外套翻し、踵を返す。
「待ちなさい!」
セレナは追いかけようとするが、また強い風が吹いた。
木の葉が散り、花が散り、春の匂いが香る。
再び目を開けると、そこにはもう誰も居なかった。
「……逃げられた」
言い逃げした精霊を探そうにも、彼女らは幻想界に棲んでいる。
肉体を持つ『人』であるセレナには、幻想界に直接向かうことはできなかった。
ぐっと、掌を固く握る。
かの精霊はセレナに対して、どうしてあのような言葉を掛けたのだろうか。
あれとは恐らく、敬愛する天使のことだ。
何故入れ込んではいけないのか。
何故必ず後悔することになるのか。
詳細は語らずに、彼女は去ってしまった。
本来ならば、従うべきなのだろう。
精霊、特に上位精霊は時偶人々に助言をする。
彼らは世界そのものの触覚であり、世界の流れを察知できるのだ。
彼らの言葉は常に最善であり、真実である。
だからこそ、従わなければいけない。
だが、しかし。
それは、自分の心に逆らうことだ。
セレナは、一目であの天使に心酔した。
その心を裏切ることなど、出来やしない。
自分が好きなことをして何が悪い。
自分が好きな人を愛して何が悪い。
何者であっても、意志を歪めさせてなるものか。
セレナは、セレナの好きなようにやらせてもらう。
握った拳を天に突き立て、宣言する。
「我が天使への愛は世界一──!」
「何をやっているのですか、セレナ」
叫ぶセレナ。
背後に立つサーシャ。
ああ、今日は良く背後を取られる日だ。
呆れたサーシャに引き摺られながら、セレナは青い空を見上げた。




