四節〈空音と虚構の演劇を〉
どん、と勢い良く扉を開く。
「レイくん! 取り敢えず一発殴らせ────」
腹の奥底から煮え滾る怒りを乗せて、叫んでいた最中。
視界に入ったのは床に寝転がったまま、虚ろに天井を見上げ続ける少年であった。
「……何してんの?」
テオドールの質問にも答えず、ぶつぶつと呟くばかり。
もしや、また発作か。
恐る恐る少年に近付き、彼が何と言っているのか聞き取ってみる。
「本当にごめんなさい許して許さないで許したら全部無駄になるでも本当に僕が悪い全面的に悪い全部嘘でしたごめんなさいとか今更言えないのは分かってるけど言いたい言わせてほしいいやだから駄目って言ってるじゃんだけどユフィを泣かせたのは万死に値する僕は愚かだ誰か殺してくれないかな死にた────」
むかついたのでテオドールはレイフォードを蹴飛ばした。
割と強めに。
ごろりと転がるレイフォード。
正気に戻ったのか、唸りながら彼は起き上がる。
そして、テオドールは胸倉を掴んだ。
「……あ、テオ?
お疲れ様、ユフィどうだった……あれ、怒ってる?
怒ってるよね、滅茶苦茶怒ってるよね」
「取り敢えず、歯食いしばれ」
振り抜いた左手が、レイフォードの右頬を叩く。
『僕が正気じゃなくなっていたら、遠慮無く殴っていいから』と、前々から言われていたので躊躇はない。
躊躇はないが、テオドールはレイフォードの顔に弱い。
どれだけ苛ついていても、思い切り殴ることはできなかった。
なので叩いた。
ぱちん、と子気味良い音が鳴る。
正気に戻っていたようにも見えたが、それは誤差だ。
気にしない。
ふるふると叩かれた左頬を震えながらら抑えたレイフォードを、引き摺るようにして寝台にぶん投げる。
「……今日だけで二度も打たれた!
父上にも打たれたこと無いのに!
そもそも叩く必要あった?!」
「面倒掛けられた仕返し、とユフィ泣かせたから。
シルヴェスタ様にはこれから打たれるから問題ないんじゃない?」
「その節は大変ご迷惑を……え、本当に?
……黙らないでよ怖いから!」
自業自得である。その報いは受けてもらおう。
テオドールにとって、元々の計画をぶち壊したのはこの男なのだ。
突発的行動にも程がある。
「〝寒冷なる二つの水玉〟」
源素を載せて、発音する。
ふっと力が抜けるような感覚の後、宙に掌ほどの水玉が二つ現れた。
指先をついとレイフォードに向け、彼の両頬に当たるように位置を調整する。
「随分上手くなったよね、精霊術。
鍵句だけでもできるようになったし」
「そりゃあ先生に鍛えられてますから。
できなかったらどやされるよ。
……で、どう?」
「……駄目みたい。全く痛くないや」
『痛い』に決まっているのに不思議だね、と悲哀に満ちた声で彼は呟いた。
否が応でも自覚させられる。
レイフォードの『死』が目前にあるということを。
部屋の端にあった椅子を持ち運び、テオドールは腰を下ろす。
「発作の方は?」
「もう大丈夫。ユフィは?」
「……ああ、うん……気にしなくていいよ」
「ええ……何その反応……良さそうならいいんだけど」
先ずは情報共有からだ。
どこかの誰かが計画をぶっ壊したせいで、練り直さなくてはいけなくなってしまった。
変わった条件を含め、手段を調整する必要がある。
「根本的な確認から行くけど、今回の目的は『ユフィとの距離を置くこと』だよね」
「うん。でも、ただ距離を置くだけじゃなくて、『ユフィがレイフォードに関わろうと思えないようにする』のが大事だった」
互いの認識を擦り合わせる。
今日、レイフォードたちがレンティフルーレ家に訪れた理由は、『ユフィリアと決別する』ためであった。
何故、そのような計画が立てられたか。
それは、ずっと前から分かっていたことであり、至って単純なことだ。
「──あと、一か月」
それは、レイフォード・アーデルヴァイトに残された『寿命』。
『人』として、この世界に存在できる期限。
越えたが最後、肉体は崩壊し消失する。
約二年前から定められていたことだ。
レイフォードが患っている病、『体内源素過剰症』は個人差はあれども数年以内に肉体が消滅する。
原因は物質界と幻想界を結び付ける源素と呼ばれる原動力が、肉体と魂の両方に干渉し破壊するから。
平たく言えば容量限界の突破だ。
崩壊自体はまだ先でも、肉体と魂はもう既に罅割れている。
味覚や痛覚が消え、最近は嗅覚までも無くなり始めていた。
レイフォードの特殊な眼で見る限り、魂への罅はもう八割九分にまで至っているらしい。
発作はまた別ではあるが、関係無いとは言えない。
発作が起きる時というのは、総じて罅割れが加速する。
今回だって目に見えるほど増えた、とレイフォードは語った。
二年間探し求めても、終ぞ治療法は見つからず。
死を待つだけであったレイフォードが『最期は好き勝手やりたい』と言い出したのは、二週間ほど前のことだった。
計画を聞かされた当初、テオドールは正気を疑った。『こんな阿呆みたいな計画成功するわけない』、そう思ってしまうほど荒唐無稽な話だったのだ。
────僕の、命を懸けてでも。
だが、レイフォードの瞳は真剣だった。
どんなに無茶でもやり遂げる、と告げていた。
だから、テオドールは断れなかった。
その計画の終わりにユフィリアがどうなろうとも、どうなるか分かっていても。
レイフォードを止められなかったのだ。
なぜならば、彼の計画の根本には『ユフィリアにずっと笑っていてほしい』という純粋すぎる願いしかなかったのだから。
「──して、あとは……ってテオ、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。
次はシルヴェスタ様やディルムッド様が、近付けないようどうにか理由を付けてくれるんでしょ?」
合ってるけど、何か納得いかない。
頬を膨らませながら、レイフォードはそう言った。
次の段階、それは彼らの親が結託し二人を引き剥がすこと。
あれだけ言ったところで、ユフィリアはレイフォードとの関係をやめようとは思わない。
お淑やかそうな見た目をしているが、中身は年相応にお転婆で頑固なのだ。
だから、今回の計画にはシルヴェスタとディルムッドの協力が必要だった。
だがしかし、テオドールは知っている。
ユフィリアがレイフォードの演技を見抜いていること。
彼の描いた計画の全てまではいかないが、『なぜ離れようとするのか』という部分の大半を察していることを。
レイフォードに会いに来る直前、ユフィリアが別れ際に放った言葉を思い出す。
──全部終わったら、皆覚悟しておいてね。
拳を握り、花のように微笑みながら囁く少女。
肩に置かれた手からは、優しくもありながら言い知れない圧が押し潰そうとしてくる。
冷や汗が額から顎に掛けて、たらりと流れた。
そして、テオドールは予感したのだ。
生命の危機というものを。
久方振りに浴びた殺気に近い圧。
レイフォードと出会った時の魔物や、イヴとの模擬戦で浴びせられたものと同等であった。
雪のせいで薄暗い廊下でそんなことをされれば、並の恐怖ではない。
どこでそんな技術を身に着けて来たのだろうか。
言葉にできない違和感を飲み込み、テオドールはレイフォードと話を続ける。
「……よし確認終了、後は任せたよ」
「了解。
レイくんこそ、ボロ見せないように気を付けてよ。
今日みたいになっても、次は同じように修正できるか分からないからさ」
「……善処します」
そこは嘘でもできると言って欲しかった。
発作が突発的である以上彼自身が操作するのは難しいと理解しているのだが、計画立案者にはどっしりと構えて貰わないと困るのだ。
こちら側の士気の維持のために。
しかし、まあいいかと一時妥協し、テオドールは立ち上がった。
「帰るときは迎えに来るから、それまでゆっくりしておいて。
一番大事なのは君なんだから」
「分かってるって! そんなに無理してるように見える?」
「見える」
「そんなあ……」
項垂れるレイフォードを尻目に、テオドールは部屋を出た。
こつこつと廊下を歩く音が遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなった瞬間、レイフォードは一気に肩の力を抜いた。
「流石に申し訳無い……なあ……」
両手を組んで身体を伸ばす。
緊張で凝り固まっていた筋肉を解すように、ゆっくりと動かしていく。
無理をしていることはばれているようだが、テオドールは真実の計画にまだ気付いていない。
彼はレイフォードが描いた筋書き通りに動いている。偽りの、そして真実の計画に基づいて。
万が一、テオドールからユフィリアに計画が漏れてもさして問題は無い。
その程度で崩壊するような段階は、既に通り過ぎている。
レイフォードは目を閉じた。
真実の計画を確認するためだ。
紙上に計画を書き記すなんて杜撰な真似はしない。
共犯者も、一度聞いただけで大体を把握できるような者ばかりだ。
態々見られる危険を冒す必要はなかった。
『ユフィリアとの接触を避け、レイフォードの死による負担を少しでも軽くする』。
それが、テオドールの知る偽りの計画だった。
偽り、というよりかは始めの部分しか知らないと言ったほうが適切かもしれない。
真実の計画の核、大切な部分は実行者以外に知られると不都合が出る。
理由を知らない人々は、その筋書きに絶対に納得しないからだ。
人道を逸れている自覚はある。
だが、元々決定された予定ではあった。
レイフォードは、それを自分の都合が良いように利用しているに過ぎない。
あと二か月、日にして六十日。
それを耐え切れば、全てが終わる。
全てを終わらせられる。
手は、もう打ち終わっていた。
レイフォードにできることは、来る終わりを待つことだけ。
厚い雲が空を覆い、蒼い空は姿を見せない。
凍えるような冬風が野を駆け巡り、人々は家屋に引き篭もる。
人っ子一人居ない外で、吹雪は孤独に在り続ける。
まだ、雪が止む気配は無い。