三節/2
息を切らして、行く宛もなく少女は駆ける。
どうして飛び出したのか、どうして走っているのか。
自分の感情も思考回路も分からない。
ただ徐に、本能の赴くままに脚を動かしているだけだった。
薄暗い廊下。
窓から差し込む光は淀んでいて、外は雪がちらついている。
しかし、涙で朧気な視界では、そんなことは些細なものでしかなかった。
差し迫る曲がり角。
焦っていたこと、見通しが悪かったこと。
その二つを理由にして、少女は何かと打つかった。
弾き飛ばされるように少女は体勢を崩す。
受け身も取れずに床に身体を打ち付けた痛みで、更に涙が溢れ出した。
大声を出して泣きたいというのに、喉が引き攣って声が出ない。
嗚咽が止まらない。
そんな少女に、謝罪の言葉と共に手が差し伸べられた。
「……何か、あったんだろ?
俺のできる範囲でなら手伝うよ」
夜空に輝く流星、蒼天を飛ぶ自由の翼。
そこに居たのは恋敵であり、友人であるテオドールだった。
ことり、と置かれた紅茶をゆっくりと啜る。
心が暖まり再び泣き出してしまいそうになるのを堪え、ユフィリアは事の仔細を話し始めた。
あの雪の中、レイフォードが放った言葉。
彼と描いた軌跡は、『全部虚構だった』と。
「──でも、私解るの。解っちゃったの。
それこそ嘘で、演技なんだって」
ユフィリアは理解していた。
理解できないわけが無かった。
あんなに共に遊んで、笑って。
長い時を共に過ごした友人の心を。
そして、理解していたからこそ分からなかった。
何故、そのような演技をするのかを。
雪の中で人が変わったかのように話し始めた時から、レイフォードはずっと演じ続けていた。
物語の悪役のような性根の悪そうな態度で、ユフィリアを遠ざけようとしていたのだ。
底意地が悪いのは、彼の話したことはすべて演技だったわけではないということだった。
嘘を吐くなら真実を三割ほど混ぜると信憑性が上がるとは言うが、それにしたって趣味が悪い。
全て嘘だ、と叫べたほうが良かったのに。
レイフォードはユフィリアに真実を教えたことは一度もない。
それは、事実である。
二年前に出会った頃から、彼はユフィリアに隠し事をしているようだった。
それも一つではなく、いくつも。
ユフィリアだって大人しく騙されていたわけではない。
踏み込もうとしたことだってある。
しかし、あの『奈落』は。
底の見えない暗闇は、どうしたって尻込みしてしまうのだ。
踏み込んでしまえば、もう戻れない。
だから、ユフィリアは知らない振りをしていた。
ずっと、レイフォードと友人でいられる世界に居たかったから。
だが、その望みは打ち破られた。
他の誰でもないレイフォードによって。
「ねえ、テオ。
レイの言う『大切な人』って、誰なんだろうね」
「……さあ?」
肩をすくめてテオドールは首を振った。
腕の中の縫いぐるみを抱き潰して、ユフィリアは不満を顕にする。
「直接訊いてみれば?」
「絶対はぐらかすもん。
そういうの、答えてくれないから。
というか、前訊いた時はそうだったし」
「ですよね……」
レイフォードの『大切な人』。
彼が時折見せる寂しそうな顔は、大抵それについて考えているときだった。
レイフォードの嘘の中にあった真実の一つ。
『ユフィリアを大切な人に重ねている』こと。
二人が初めて出会ったあの日、彼はユフィリアがその者に似ていると話していた。
鏡写しのように瓜ふたつで、とても懐かしい気分になるのだ、と。
そこまで大切な者の名前を、何故覚えていないのだろう。
ちょっとやそっとじゃ忘れるはずがない。
ならば、何かきっかけが。
何か原因があって、忘れてしまっているのだろうか。
ぴきり、と頭が痛む。
まるで、それ以上考えてはいけないと肉体が止めているように。
「ユフィ、どうしたんだ?」
ゆらゆらと揺れていたユフィリアが、突如固まったことを不思議がったテオドールは様子を伺った。
頭を振ってなんでもない、と平静を装う。
静寂が空間を包んだ。
重苦しい雰囲気が漂っている。
ちらりと抱き締めた縫いぐるみからテオドールを覗いた。
居心地の悪そうに俯いて、何か話そうと顔を上げるが話せない。
それを何度か繰り返している。
「……やっぱり」
その目線、その態度。
抱いていた疑問が確信に変わった。
──テオドールはレイフォードの共犯者だ。
彼はレイフォードが用意した、ユフィリアの精神介助のための人員。
テオドールの存在は、あまりにも都合が良過ぎる。
大方、話し終わった時間を狙っていたのだろう。
テオドールは、先程からずっとユフィリアを気にしている。
レイフォードに盲目的に付いて行く雛鳥のような彼が、目覚めたレイフォードの元に行かず、ユフィリアと話しているのが一番の証拠だった。
そんなことするくらいなら、初めからしなければいいのに。
ユフィリアは肩の力を抜いた。
恐らく、レイフォードにとって、ユフィリアが気付いていることは計算外だ。
考えてしまっては全てが成り立たなくなるから、意図的に考えないようにしていると言った方がいい。
気付かないことが前提で、この計画は作られている。
そこまでして、レイフォードは何を隠している。
何を知られたくないのだ。
あの秘密主義で排他的な男を、少し恨めしく思った。
外に吹く風の音が良く聞こえる。
しんしんと雪が降り出し始めた。
春も近く、そこまで大雪にはならないはずだが。
そんな余計なことを考えていれば、ずっと口を噤んでいたテオドールがやっと話し始めた。
「……ああ、えっと……そうだなあ……」
「言うなら言うで、はっきりしてよ」
「分かってるから!」
喝を入れるようにテオドールは頬を叩いた。
そして、ユフィリアに問う。
「ユフィはさ、レイくんのことどう思う?」
「どうって……」
随分と大雑把な質問だ、と文句が出そうになる。
だが、改めて言われると考えさせられるものだ。
レイフォードと描いた二年の軌跡、長く短い夢の日々。
夢は醒めるものだ。
生命あるものは、永遠には眠れない。
永遠に眠ることは、即ち『死』を意味するから。
刹那の空想、存在しない虚構であるからこそ、夢は夢で在り続けられる。
真実である現実に生きることができる。
それでも、永遠を願わずにはいられない。
幸福を願わずにはいられない。
夢を現実に、虚構を真実にしたくて堪らない。
「……『悪い人』だとは思うよ。
嘘吐きだし、大切なこと何一つ言わないし、隠し事も多いし、自分勝手だし!」
何度だって言ってやりたい。
自分勝手に世界を壊した、悪役気取りのあの少年に『馬鹿野郎』って。
だけど、今彼はそれを望んでいない。
計画を、ユフィリアに気付いて欲しくない。
それは、ユフィリアを守るためのものだから。
「……でも、それ以上に。
優しくて、暖かくて、誰かのために生きている」
本当に馬鹿だ、レイフォードは。
行き当たりばったりのお粗末な計画で、どうやってユフィリアを守ろうとしているのだろう。
しかし、それでもいいだろう。
乗ってやろうじゃないか。
彼が描いた未来に沿って、動いてやろう。
そして、君にとっての最悪な瞬間で、その計画の終幕で思いっきりぶっ壊す。
ユフィリアはレイフォードの演劇で操られている『お人形』じゃない。
お話を描くだけの『観客』でもない。
君を愛する、この世界に生きる『人』だ。
ああ、そうだ。
ユフィリアは彼をレイフォードのことをそう想っている。
初めて逢った時から。
いや、生まれる前からそんな運命だったのだ。
どうあがいても、どう生きても、どんな世界でも。
ユフィリアが■■である限り、君のことを好きになる。
もう、夢は醒めた。
何一つ変わらない虚構の世界は終わった。
これから先は、ありとあらゆる事象が真実である現実だ。
だから、終わらせない。
終止符も打たせない。
永遠の幸福だって叶えてみせる。
ここに宣言しよう、ユフィリアの意志を。
変わらない想いを。
──この世界で誰よりも、私はレイを愛してる。
「だから、テオ。私は諦めないよ」
喩え、レイフォードが願っていることでは無かろうと、必ず願いは叶える。
それが、ユフィリアの精一杯の仕返しなのだから。
鐘の音が鳴る。
雪は晴れ、淡い日光が部屋に差し込む。
宛ら、少女の決意を肯定するように。
「ああ、もう! 面倒くさいな、君らは!」
共犯者はもう疲れた、と言わんばかりにそう叫ぶ。
彼の多難は、まだ始まったばかりであった。




