三節〈夢は醒めて、夢を叶えて〉/1
「ああ、そうだった。覚えているよ。うん、憶えている」
がらり、と人が変わったかのようにレイフォードは話し始めた。
声も顔も彼のものだというのに、彼のように感じない。
レイフォードなのに、レイフォードではない。
『別人』を演じているようだった。
「……おかしいよ、レイ。
熱でもあるんじゃないの……?」
「そうだね。
ずっと嘘の僕を見ていた君からしたら、今の僕はおかしく見えるはずだ」
何を言っているのだ、彼は。
そう考えるユフィリアは、目の前のレイフォードに抱えていた疑問を吐き出した。
嘘だなんだと言っているが、それはいったいどういう意味なのか、と。
それが分かれば、今のおかしな態度の理由も分かるかもしれないと思いながら。
「……なんだ、そんなことか」
一瞬安心したような顔をして、レイフォードは肩をすくめた。
「言葉通りだよ、全部虚構だったんだ。
君と交わした言葉も、過ごした時間も、ね」
「……どう、いうこと?」
理解できない、とでも言いたげな表情でユフィリアは問う。
「僕はずっと演技していたんだ、君と仲の良い『友達』の」
そう言いながら、レイフォードは立ち上がった。
ふらりと身体に力が入っていない歩き方をして、ユフィリアに向かって両手を広げる。
「僕は君を友達なんかと思ったことはない。
面倒だったよ、君との『友達ごっこ』。
毎週毎週手紙を書いたり、遊んだり、笑ったり……全部」
「……冗談は辞めてよ、面白くないよ」
息が詰まる。
喩え冗談だったとしても、レイフォードの口からそんな言葉が放たれるのは聞くに耐えない。
だから、嘘だと言ってくれ。
冗談だと笑ってくれ。
そう願いながら、ユフィリアは膝の上で拳を握った。
だが、その願いは儚くも打ち破られる。
「冗談だと思っているの?
……それこそ冗談にしてよ。
何度も言っているじゃないか、君との時間は全部嘘だったんだって」
心臓がばくばく音を立てている。
呼吸が浅くなる。
苦しくなって心臓を抑えた。
右手に負った切傷が痛みを主張している。
「……何でそんなこと言うの?
おかしい、おかしいよ。
だって、今までずっと一緒に──」
「──もう、夢を見るのは終わりにしてよ」
道化のような雰囲気を捨て去って、一気に空気が張り詰める。
レイフォードが稀に見せる『奈落』。
それがはっきりとこちらを見ている、深淵が覗いている。
本能的な恐怖が体中に駆け巡った。
深く息を吐いて、吸って。
少年は静かに叫ぶように、吐き捨てた。
──君が嫌い、だから。
ずっとずっと……嫌いだったから、この関係を終わらせるんだ。
「──え?」
素っ頓狂な言葉が口から漏れた。
今、レイフォードは何と言っただろう。
『君が嫌い』『嫌いだった』。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。
レイフォードがユフィリアに、そんなことを言うはずない。
半狂乱になりながら、ユフィリアは彼の言葉を否定した。
しかし、待ち受けているのは残酷な現実だけだ。
「……本当だよ。
憶えているよね、二年前の約束のこと。
『ユフィリアにだけは真実を教える』って」
やめて、やめて。
それ以上聞きたくない。壊さないで、醒さないで。
耳を抑えて、誰の声も聞こえないようにして。
でも、それでも。
レイフォードの声だけは聞こえてくる。
「これが僕の真実、僕が見つけた真実なんだよ」
──君が嫌いだ。
世界が壊れる音がした。
耐え切れなくなった涙腺が水滴を零す。
一度零れて仕舞えば最後、大粒の涙が溢れ続けていく。
少女は嗚咽を垂れ流しながら、少年を見つめることしかできない。
脳が彼の言葉を受け入れるのを拒否している。
なのに、なのに、どうして。
理解してしまっているのだろう。
そして、どうして君はそんな顔をしているのだろう。
少女は無意識に手を伸ばした。
ぎゅっと顔を歪ませて、泣くのを我慢している少年に向けて。
だが、その手は届かない。
届く直前で払い除けられてしまったから。
たった一米が果てしなく遠い。
無限にも思えるほどに。
払い除けられた右手を見た。
包帯に薄く血が滲んでいる。
ああ、彼がおかしくなったのは、これを見てからだったか。
「……一つだけ、教えて」
呼吸を整え、少女はただ一つの疑問を投げかけた。
どうして、君は私と友達になってくれたの、と。
「……それ、は……」
少年は右手首を握って、数歩後退る。
そして視線を彷徨わせた後、絞り出すように口にした。
「──君が大切だった人に似ていた、から」
それは突発的な感情だった。
右手を握り締めて、また開いて、少年との距離を一瞬で縮めて。
そして、頬を打った。
破裂音が静かな部屋に反響する。永遠のような刹那を超えて、少女が一言。
「──嘘吐き」
瞳には涙が溢れていた。声は震えていた。
少女は逃げ出すように駆け出す。
この空間から一秒でも早く逃げ出すために。
少年は酷く小さな背中を、唖然と眺めることしかできなかった。
独りぼっちになった部屋で、少年は倒れるようにへたり込んだ。
そのまま背を床につけて空を仰ぐ。
そこには澄んだ蒼い空ではなく、閉塞感のある天井しかない。
それから目を逸らしたくて、手で覆った。
「……これで、良かったんだ」
誰にも聞こえない呟きが宙に溶ける。
少年は、レイフォード・アーデルヴァイトは嘘吐きだ。
いつからだっただろう、ユフィリアの前でも演じ始めたのは。
生存が絶望的になってから、それともあれを知ってから。
それは、レイフォード自身でも分からなかった。
「……ごめん、ユフィ」
謝罪は彼女に届かない。
届いてしまえば、全部無駄になってしまうから。
だから、これはただの自己満足だ。
少しでも、自分の罪を軽くするための。
もう止まれない、引き返せない。
幕は上げられたのだ。
一度上げられた幕は、終幕まで下ろせない。
だから、最期まで演じ続けよう。
何を犠牲にしても、君が笑っていられる世界にする。
そう、あの美しい月に誓ったように。
夢の終わりはもう直ぐに。
終幕までの秒針は始まっていた。




