二節/3
あ、と口から間抜けな声が出た。
力が抜けた右足、空振った指先。
前を走っていたレイフォードが目を見開いている。
ああ、やっちゃった。
そんな思いのまま、ユフィリアは剥き出しの氷に突っ込んだ。
慌てたレイフォードが、直ぐさま駆け寄り屈む。
背後からもテオドールが異変に気付き、雪玉を投げるのを止めて近付いてきた。
「どうした……って、氷で転んだのか」
「そうみたい。大丈夫、ユフィ?」
レイフォードは痛みに呻くユフィリアの手を取り、起き上がらせようとする。
表面上は、ただ手を取っただけだった。
ぬるり。生暖かいものが二人の手の間にある。
「──なに、これ」
レイフォードが手を離すと、そこには真っ赤な液体が付着していた。
鉄の匂い、緋い色。
冷たくなった手であったからこそ、強調される暖かさ。
レイフォードはそれが何か知っていた。
「あれ……あ、氷の破片で切れちゃったみたい」
「やっちまったな、包帯貰って来ないと……レイくん、どうした?」
緋、何度も見た色。
それがレイフォードの手にある。
ユフィリアの血が、レイフォードの手にある。
大切な者の血が、自身の手にある。
両手が真っ赤に染まっている。
レイフォードは、否■■■はあの日を覚えている。
忘れるわけがない、忘れてはれてはいけない。
どうして今まで思い出せなかった。
『死』を忘れていた、『罪』を忘れていた。
幾度も銃声が聞こえる、幾度も悲鳴が聞こえる。
大切なものを守るためには、何かを犠牲にしなければいけない。
それがどんなものであっても■は犠牲にできる。
■は──守るためなら、誰かの命すら奪える。
人を殺せてしまうのだ。
目の前が真っ暗になる。
身体の制御が効かなくなる。
自分が自分自身ではないように。
誰かが己を操っているように。
いや、違う。
そもそも、始めから『レイフォード』なんてなかったのだ。
そこに在ったのはただの役で。
己は名も無きただの演者で。
だから、脚本通りに進めなければいけないのに。
「……なんで、忘れていたんだろう、なあ」
乾いた笑いが口から漏れた。
もう諦めたつもりだったというのに、まだ厚かましく彼女の愛に縋ろうとしてしまうなんて。
もっと、共に居たいと願ってしまうなんて。
演者の風上にも置けないだろう。
どれだけ人を演じたところで、レイフォード・アーデルヴァイトを演じたところで。
その本質は壊れた機械人形にしか過ぎないのだ。
人になんて成れやしない。機械仕掛けの神の機能を喪った、ただの木偶の坊。
「そうだ、そうだったんだよ」
足元の雪と氷を踏み締めて、少年は立ち上がった。
もう、人の振りをする理由なんてない。
終わっていたんだよ、初めから。
終止符は打たれていたんだ。
それは、全て虚構。
何一つ真実なんてない、大嘘吐きの一人劇。
「ユフィリア・レンティフルーレ。君に伝えたいことがある」
──レイフォード・アーデルヴァイトは、もう間もなく息絶える。
「残された僅かな時間。精一杯、楽しんでね」
にこりと最大級の笑顔で、少年は言い放った。
視界が暗転する。
少年が最後に見た少女の瞳は、信じられないほど見開かれていた。




