二節/2
アリステラ王国歴一四〇六年。
契約の月も下旬の過半を過ぎ、遊戯の月を目前に控えた日だった。
冬も終わりが見えてきたというのに、野山や町を覆い尽くすほど降った雪。
それらが作り出す銀世界の中、レイフォードはユフィリアの屋敷へ来訪していた。
馬車から外に出ると、冷たい風が吹き荒ぶ。
吐いた息は白く、凍ってしまいそうだ。
いくつかの人影が玄関先にある。
その中の一人、一段と小さな人影。
寒空の下、雪に混じってしまいそうな白髪の少女が手を振りながらレイフォードに駆け寄る。
「レイ、久し振り! 元気だった?」
「うん、元気だったよ。ユフィは?」
「勿論元気、風邪の一つも引かなかったもん!」
ユフィリアは自慢気に張った胸を叩いた。
相変わらずだと思いつつ、レイフォードは彼女の冷たくなった手を握る。
それは氷のように冷たく、赤くなっていた。
「大分待たせちゃったね、寒かったでしょ」
「私、冬好きだから。平気平気」
そう話すユフィリアの鼻は赤い。
無理をしているようには見えないが、寒いのは確かなのだろう。
レイフォードは、自身の熱で温めるように白く細い手を包み込んだ。
「どう? 温か──」
「はいはい、いちゃいちゃしない」
後ろからテオドールが、レイフォードの背中に雪を差し入れた。
思わず甲高い悲鳴を上げ、冷感を放つ雪を服と肌の隙間から取ろうとする。
だがしかし、厚着をしていることが負に働き、うまく取ることができない。
レイフォードはテオドールを非難する。
背後から不意を衝くとは何事だ、と。
「いや、こんなところでいちゃいちゃしないでよ。
寒いんだから」
「そうかもしれないけどさ!
もうちょっと……なんかこう……手加減というか、段階を踏むべきじゃないかな!」
「そうだそうだ!」
レイフォードに続き、ユフィリアも口々に反論した。
やれ横暴だ、卑怯だと罵る。
が、テオドールは意にも介さない。
何を言われただろうと何処吹く風。
目を閉じ腕を組み、仁王立ちして佇んでいる。
そして、彼は大きな溜息を吐いた。
突如動き出した石像の如きテオドールに、二人の間に緊張が走る。
おずおずと臨戦体制を取るレイフォードとユフィリア。
少し離れた場所へと歩き出し、屈み始めるテオドール。
彼は足元に積まれた雪塊に触れ、両手で掬った。
掌を丸め、圧縮する。
そうして、彼の手により拳大ほどに整形された雪。
否、雪玉。
「そんなに寒い方がいいなら……」
テオドールは、腕を振り被る。
「雪に、沈め!」
思いのまま、彼は雪玉を投げ付けた。
「逃げるよ、ユフィ!」
「テオが怒ったあ!」
隣の少女の左手を掴み、レイフォードは走り出す。
降雪の中を掻き分けて、真っ白な世界を駆けていく。
背後から襲いかかる雪玉を避け、怒る鬼から距離を取った。
二人と一人の距離は凡そ十五米。
ただ我武者羅に投げるだけでは届かない距離だ。
これならば、とレイフォードは振り返る。
テオドールは雪玉を作り出していたため、その場から動いていない。
今も作るために屈んでいるから、近付いてこない。
そして、下を向いているから、こちらを認識できていない。
絶好の機会だった。
ユフィリアと目を合わせ、二人は同時に動き出した。
「──反撃開始!」
レイフォードはテオドールよりも手早く雪玉を作る。
昔から姉に鍛えられていたお陰で、雪玉作りに関しては職人程度の業を持っていたのだ。
鉛直方向に弧を描いて投げられた雪玉は、テオドールの数歩前に落下する。
ぼすりと沈んだそれに反応して、テオドールが顔を上げた。
遂に逃げるのを止めたか、今度こそ脳天に打ち当ててやろう。
そう構えた瞬間だった。
ふと、違和感に気付く。
視界に入っているのはレイフォードだ。
隣に居たはずのユフィリアはどこにも見えない。
これは──。
額を衝撃と冷たさが襲った。
ぱらりと落ちる雪片。
柔らかく握られていたため、痛みはほんの僅かしかない。
「やった、当たったよ!」
「良し、そのまま追撃だ!」
少女と少年の声が響く。
テオドールは、二人にまんまとしてやられたらしい。
大きく息を吐いた。
冷たい空気が肺に染み込み、凍り付いてしまいそうだ。
だが、そんなことは起きない。
何故なら、今のテオドールの心は彼らへの怒りという名の業火が燃え盛っているのだから。
「覚悟しろよ、謝るまでやめないからな!」
叫びを合図に三人は走り出す、手に雪玉を持って。
一見争っている雰囲気──確かに争ってはいる──だが、皆の顔には笑顔が輝いていた。
その様子を見守る者が二人。
「元気がいいなあ、子どもたちは!」
ユフィリアと同色の瞳を持つ彼女の父、ディルムッドは屈託なく笑いながらそう言った。
二年ほど前まで友人なぞ一人もいなかった娘に、仲の良い友人が二人もいる。
親として歓喜に震えると共に、それが永遠でないことが心苦しかった。
「……どうして、あの笑顔を守り続けることができないんだろうな」
口を閉ざしたままの親友に、ディルムッドは語り掛けた。
何より、一番辛いのは彼なのだ。
彼、シルヴェスタはレイフォードの父親である。
愛想のないこの男が心を開く数少ない相手。
家族と親しい友人ほどしかいないその集合の要素一つが、今当に消えようとしていた。
「……俺は無力だ」
ぽつりぽつり、シルヴェスタは心の音を吐き出す。
あの春の日から約二年間、皆で手を尽くしたのだ。
《精霊石》を使用した源素の貯蔵も、《精霊術刻印具》を使用した外部からの操作も、大人数の干渉も。
ありとあらゆる手段を試した。
だが、その全てが塵に還った。
何一つとして、効果がなかったのだ。
その結果を予測していなかったと言えば、嘘になる。
既に分かっていた結末。
それでも、どうにかならないのか、と全力を尽くした。
けれど、あまりにも大きな力の前に、皆が膝を付いた。
もう無理だ、と手を上げた。
誰もその力に抵抗できず、降伏したのだ。
時間切れ。
無情にも、また春の日が来る。
そうすれば、レイフォードの肉体は空に溶けて消失してしまうだろう。
現にシルヴェスタが視る彼の魂は、今にも壊れてしまいそうだった。
「……救えなかった。
どれだけ力があっても、守れなければ意味がないというのに。
俺は、俺は──!」
慟哭するシルヴェスタの頭を、ディルムッドは押さえ付けるように撫でた。
髪が乱れるのも構い無く、彼の哀しみが少しでも和らげばと思って。
「どれだけ嘆いても、オレたちにはもうどうにもできない。
できることは、あの子の願いを叶えることだけ。そうだろう?」
声も出さず、シルヴェスタが頷く。
これが彼らの最期の時間だ。
レイフォードの肉体は、徐々に衰弱している。
彼は誤魔化しているが、あと数日もすれば最初期のような状態になることは明白だった。
ユフィリアは勘が鋭い。
衰弱したレイフォードの姿を見れば、その後どうなるかなど想像に容易いだろう。
だから彼は、レイフォードは──。
「全く、誰に似たんだか」
瞳から零れ落ちる雫が、凍ってしまいそうだった。




