八節/3
「大丈夫、みたいね」
クラウディアは壁に背を預けて立っていた。
「入るのは、もう少し待った方が良いと思うわよ」
「承知いたしました、奥様」
食事を運んできたセレナに待機を命じ、その場を立ち去る。
一時はどうなるかと思ったが、どうやら二人の仲は拗れずに済んだようだった。
全く手の掛かる夫と子どもだ。
そうだからこそ愛しくもあるのだが。
レイフォードが大怪我をしたと聞いた時、クラウディアは心臓が止まったかのような感覚に襲われた。
また、大切な人が自分の手の届かない場所に行ってしまうのではないか。
そんな不安が頭を過ぎったのだ。
それはレイフォードが難病を患ったことを知った時もだった。
子が命の危険に晒されている。
親として、それ以上に怖いことはない。
そしてクラウディアは、レイフォードとシルヴェスタの関係も危惧していたのだ。
二週間ほど前から、二人はぎくしゃくしていた。
距離を測り兼ねているようだが、それ以外にも別の要素があると見受けられた。
気に掛けるシルヴェスタと、遠避けるレイフォード。
どうしてそうなったか。
原因は不明であったが、煮え切らない二人にずっとやきもきしていたのがクラウディアだった。
昔のシルヴェスタと、クラウディアの関係と重ね合わせていたのかもしれない。
あの男はへたれで及び腰であるため、無理矢理にでも詰めてやらないと会話すらままならないのだ。
そうだからこそ、相性が悪かった。
前はそうでもなかったというのに。
帰ってきてからのレイフォードは、人が変わってしまったかのようだった。
きらきら輝いていた目は光を遮り、知を求めていた好奇心はなりを潜め、人との関わりを絶つようになった。
病気を患ってしまった。
そう宣告されたからという可能性もあった。
だが、親の勘なのだろうか。
その要素も孕んでいるが、本質は違うところにある。
恐らく、レイフォード本人も自覚していないところに。
しかし、それを問い質すことはできなかった。
そもそも殆ど寝たきりであったし、無理に近寄ることでレイフォードの中で保たれている均衡が崩れてしまうかもしれなかったからだ。
まだ時間が足りない、もう少し経ってから。
そう思っていたところで、あの少女が来た。
ユフィリア・レンティフルーレ。
ディルムッドと、その妻カシムの子だ。
彼女は何も知らないが故にレイフォードと深く触れ合い、その心の檻を開けることができた。
無知は罪、というがこの件に至っては功であったのだ。
レイフォードはユフィリアと出会い、また変わった。
元に戻ったわけではない。
だが、一人きり閉じ篭もっているよりは良い変化だったはずだ。
何より、『初めての友達』となったようであるし。
それがいつか、『初恋』になるのだろうけれども。
くつくつと、セレナに届けてもらうことにしたレイフォード宛の手紙を思い出す。
中身は見ていないが、あの二人の様子を見る限り微笑ましい内容なのは間違いない。
「私も、できることはやらなきゃね」
大きく伸びをする。
目下の心配であった二人の仲は修復された。
ならば、後はあの大きな壁を打ち砕く準備をするべきだ。
クラウディアは果たさなくてはいけない。
愛しい我が子が、ずっとこの世界で笑っていられるように。
この世界で生き続けていられるように。
自身の全力をもって、あの子を救う。
たった二年、されども二年。
「やってやろうじゃない!」
怪我も治す、病気も治す。
握り込んだ拳と意志は固かった。
走らせていた手が止まる。
「これで一先ず終わりだな」
レイフォードの知る情報は、王国を揺るがすものだった。
特に、侵入者が所持していたという魔物の血を濃縮した液体、仮に《《濃縮黒血》とする。
そんなものがあれば、国中の混乱は避けられない。
摂取すれば即座に魔物になってしまうなど、浄化術式使用者が周囲にいなければ死を避けられないからだ。
魔物を人に戻すことはできない。
黒血は生物の身体を破壊し、死に至らしめる。
そして、その死体を変性させ魔物へと成る。
その過程に『死』がある以上、魔物から人への変化はできないのだ。
唯一ある可能性として『蘇生』があるが、眉唾に過ぎない。
死者を蘇らせるなぞ、|神にしかできないのだから《・・・・・・・・・・・・》。
もう一つ、重要な情報があった。
レイフォードの祝福の詳細だ。
魔物を消失させる力、『浄化』。
研究が進めば、更なる対抗策が生まれるかもしれない。
情報を書き留めたシルヴェスタは筆を置く。
かたり、その音を起点に一瞬にして空気が張り詰めた。
「最後に、お前に言って置かなければいけないことがある」
──今回の件についてを他人に話すことは、一切許されない。
「……それは、どういうことですか……?」
レイフォードは息を飲む。
先程までの真面目であったが和やかな空間が一変したことにより、肌がひりついていた。
シルヴェスタが口を開く。
それは、信じられないことであった。
──俺やお前、イヴなどの特例を除き、国民の記憶を抹消したからだ。
「どうして、そんなこと……」
「国を守るために必要なことだ」
国を守るために記憶を消す。
そんなことが許されていいのだろうか。
シルヴェスタは言葉を紡ぐ。
本来ならば、レイフォードも記憶抹消対象であったこと。
異常な源素量による干渉力の差により、実行できなかったこと。
緘口令が敷かれていること。
不都合な部分は辻褄を合わせていること。
一連の流れは国家主導であること。
そうして、彼は疑問を呈した。
「お前は、何をそんなに気にしているんだ?」
「だって……許されるわけが」
理解できない、とでも言うようにシルヴェスタは言い放った。
「知らない方が幸せなのだから、そうする方がいいだろう?」
レイフォードの中で二つの感情が渦巻く。
シルヴェスタの論を肯定するものと、否定するものが。
おかしい、はずなのだ。
人為的な記憶の操作は、自然の摂理から飛び抜けている。
忘却は悪いことではない。
辛い記憶を忘れたいと思うことは正当である。
しかし、それを外部が強制的に行うのはいけないことだ。
意思が歪まされていることになる。
だと言うのに、レイフォードは肯定しようとしている。
否定しなければいけないはずなのに。
いや、違う。
否定しようとするほうがおかしいのだ。
レイフォードの中の倫理観は影響を受けている。
記憶の中の、■■■の影響を。
「よく分からないが、何かあったらいつでも来てくれ」
そう言ってシルヴェスタは寝台から立ち上がり、部屋を退出する。
入れ違うようにセレナが食事を運んで来た。
「どうしたんです、レイフォード様?」
「……ああ、いや。何でもない」
冷たい水と擦り下ろされた林檎。
悩みも共に流し込むように飲み下す。
この国において、レイフォードの方が異常なのだ。
愛故に歪む。愛故に歪になる。
全ては愛ある故に、守るために歪んでいく。
永遠の理想郷。
代償の無い永遠の理想なんて存在しない。
歪めて円環となることで造られた永久機関。
絶対的な法則に守られて、今日も平和は守られ続ける。




