八節/2
レイフォードが次に意識を覚醒させた時、事は既に終結していた。
眠っていたのは冷たい石の上ではなく、暖かな寝台の上。
目を開けて見えた景色も真っ暗な夜空ではなく、見慣れた天井だった。
上手く回らない頭を抑えて、起き上がろうとする。
が、全身に走る痛みに妨げられてしまう。
思わず、口から小さな悲鳴が漏れた。
恐らくその声を聞き取ったのだろう。
勢い良く扉が開かれ、ある女性が飛び込んで来た。
「レイフォード様、お目覚めになられましたか?!」
「……ああ、うん。おはよう」
年若い使用人は興奮し慌てふためきながらも、レイフォードが覚醒したことを上位の使用人へと伝えに行く。
無表情なことが多い彼女がここまで慌てるなんて、とても心配をかけてしまったようだ。
起き抜けに溌剌さを直視したため、少し目眩がする。
いったい、自分はどれくらい眠ってしまっていたのだろう。
やがて帰ってきた先程の使用人、セレナはレイフォードのほぼ全身に巻かれた包帯を取り外していく。
「……うわ」
ちらりと見えた傷口は、肉と肉が繋がり合おうと必死で藻掻き、結果的にとても奇怪な見た目となっていた。
「これ、何日くらいで治るの?」
「傷が癒えるのは大体三ヶ月程度のようです。
機能回復も含めると、半年掛かるかもしれないとも。
足、動きますか?」
セレナの問いに答えるように足を動かそうとする。
「……これ、は……」
「……どうなのでしょう」
両者の間に微妙な空気が流れる。
年季が経った時計のようにぎこちなく動く足。
一応動きはするが、重い足枷が付けられているかのように上手くいかない。
痛みもあるため、セレナが確認すれば直ぐに止めた。
「頑張りましょう、きっとどうにかなります」
「そうかな……そうかも」
濡れた多織留で身体が拭かれ、清潔な包帯を巻き直されていく。
「そういえば僕、何日くらい眠っていたの?」
「三日ですね。
中々お目覚めになりませんので、旦那様も心配なさっておりました」
「……三日……三日かあ」
机の上に置かれた手紙は真っ白。
匙も持てなかった手で猛特訓して書けるようになった文字は、ただの一文字も書かれていない。
ユフィ、絶対に怒っているよなあ。
一週間前に交わした約束を早速破ってしまったことに対して、レイフォードは申し訳無さで胸が一杯だった。
『忘れたらお仕置き』などと釘を刺されていたこともあり、どうするべきか頭を悩ませる。
「ああ、あのレンティフルーレのお嬢様に向けての恋文ですか?」
「うん……いや、恋文じゃないよ?!」
机に置かれた手紙をじっと見続けていると、セレナが唐突に爆弾発言を打ち込んできた。
その衝撃に思わず声を荒げてしまい、傷に響く。
「……違うのですか?
折角、巷で人気の恋愛成就の便箋を買ってきたというのに」
「貴方に買い物を任せた僕が悪かったのか……逆に何でそう思ったの?」
「……そりゃあ、まあ……ええ……」
「濁さないでよ、気になるんだけど」
もごもごと、わざとらしく口ごもりながら視線を逸らすセレナに詰め寄る。
両手を挙げて、観念しましたとでも言うように語り出した。
「儀式の日からずっとレイフォード様、黴のような雰囲気漂わせていたではないですか」
「仮にも雇用主の子どもを喩えるときに使う言葉じゃないけど、そうだね」
歯に衣着せぬ言い様は、時々上司に叱られているそうだが直すことはない。
『反省しているが後悔していない』とは、いつも説教を食らった後のセレナの弁だった。
これでいて、対外的には基本真面目なのが厄介である。
「なのに、あの子と会った後から急に明るくなり、どんよりしていた空気がぱあっと清浄された。
これはもう皆『初恋しかないでしょ!』って感じですかね」
「待って、皆って何?」
あ。
セレナはそう呟いて再度視線を逸らす。
口笛まで吹いて。
「どこからどこまでそう思ってる? ちゃんと答えてよ。
目を見て、こっちを向いて、しっかり」
「申し訳ございませんが、時間となってしまいました。
水とお食事を持ってきますので、少々お待ちください。
それでは」
レイフォードがまともに動けないことをいいことに、セレナは逃げ出した。
彼女の現在業務は既に終了しており、呼び止められる正当な理由もなく、立ち去っていく。
「……私は応援しておりますよ。
決して、口滑らしたこと言わないでください。絶対ですよ」
なんて捨て台詞を吐きながら。
一人になった空間でレイフォードはゆっくり息を吐き、そして頭を抱えた。
──ユフィのことを好きだ、と思われている。恋愛的に。
断じて違う。
と言い切れるわけではないが、今のレイフォードがユフィリアに抱く想いは『恋愛』ではなかった。
まだ、どちらかというと『友愛』や『家族愛』のような方面だ。
何と言い表せばいいのか、レイフォード自身も分かっていない。
ただ、『恋愛』ではないという心自体は明確にあったのだ。
彼女にそんな気持ちを持つことは、彼女と『大切な人たち』を重ねていることに違いないのだから。
そして、セレナと入れ替わるように人が入ってくる。
「元気なようで何よりだ、レイ」
「父上……」
白銀の長髪を緩く編み、垂らした男がレイフォードに近付く。
手には包装された箱といくらかの紙、そして筆を握っていた。
寝台の端にシルヴェスタは座り込み、レイフォードに問い掛けた。
「身体の調子はどうだ?」
「全く、でしょうか。精々右腕と首しか動きません」
辛うじて座れるほどの気力はあるが、寝てしまえばもう一度起き上がれないだろう。
元々過剰症で本調子ではなかった身体が、負傷により更に不調となってしまったので、仕方のないことなのだが。
「そうか」
シルヴェスタは淡々と相槌を打つ。
聞く前からそう言うと分かっていたように。
相も変わらず石像の如き面だ。
しかし、纏う雰囲気は落ち込んだ、若しくは哀しげであった。
そこで会話が止まる。
シルヴェスタは床に視線を向け、俯いたまま動かない。
心配に思ったレイフォードが覗き込むと、彼は重苦しく結んだ一文字を解いた。
「……すまない」
「どうして謝るのですか?
父上は何も悪くありませんよ」
唐突に告げられた謝罪の言葉に、レイフォードは動揺した。
その意味は今回の騒動についてなのだろうと推測できても、シルヴェスタが何故謝罪する必要があるかが分からなかったからだ。
「その怪我は、俺がもっと早く襲撃に気付いていれば。
手を打っていれば、負うことはなかった」
「これは僕が勝手に動いて、勝手に作った傷です。
父上が気に病むことはありません!」
レイフォードは即座に反論する。
夜中に抜け出して森に行ったことも、魔物と出会ったことも、大通りで戦ったことも。
全てがすべて自分で選択したことだった。
そこに、シルヴェスタの非はない。
「それでも、守るべきものを守れなかったことは事実だ」
それでも、シルヴェスタは譲れなかった。
今回の件は自分の力不足が招いたものだ、と。
確かに大半の住民は守れたかもしれない。
だが、少しでも被害が出てしまっているのならば、それは自身の力が及ばなかったということになる。
シルヴェスタは完璧主義であった。
一縷の不備でもあれば、結果がどうであれ考え込んでしまう。
もっとできたはずだ、もっと上手くやれたはずだ。
悶々と思考を巡らせてしまう。
万能感か、それとも劣等感からか。
その悪癖は治ることはない。
三十年以上抱えてきたものを、落とすことはできなかった。
「……俺は何もできやしない。
どれだけ武力を、精霊術を扱えたとしても。
守れなければ何の意味もないんだ」
懺悔するように、シルヴェスタはレイフォードの手を握る。
恐ろしく小さな手であった。
丸みを帯びた、柔らかな手。
剣を握ったことも、ましてや生物を殺めたこともないような手。
だが、レイフォードは正しくこの手で魔物を殺した。
鉈と短剣を握っていた。
守りたいものを守るために。
「……お前は強いな。
こんなにも小さいのに、俺よりずっと」
「……そんなことはありません」
シルヴェスタとクラウディア、父と母の面影を織り込んだ少年。
とても大切で愛おししい我が子。
レイフォードは再び、シルヴェスタを否定した。
「僕は強くなんかありません。
命を掛けることしかできないから、それしかできることがないから。
一生懸命、手を伸ばすことしかできません」
ぽつりぽつり、少年は語る。
「そこまでして、やっと守ることができます。
でも、それで守れる人なんて片手で数えられるくらいなんです」
強く手が握られる。
「父上は違います。
貴方は何千人もの人々を守りました。
凶悪な魔物に立ち向かい、責務を果たしました」
「……だが」
納得できない、飲み込めない。
頑張ったからと言って、取り零してしまっては意味がない。
今回は運が良かったに過ぎなかった。
イヴが偶然レイフォードを見つけ救ったからこそ、今生きている。
後少しでもずれていれば、レイフォードはもうここにはいない。
「余り、自分を卑下し過ぎないでください。
僕は貴方を敬愛しています。
父としても、人としても」
蒼と白。
シルヴェスタが顔を上げるとその色が目に入った。
「父上は人なのです、何と言われようとも。
だから、間違うこともあると思います。
ですが、それに思い詰めすぎてはいけません」
子どもだとは思えないほど成熟している。
まるで、子どもの皮を被った大人のように。
だが、レイフォードは紛れもなくシルヴェスタの子で、先日五歳になったばかりの幼子だ。
「間違えたなら直せばいい。
一人でできないのならば皆でやればいい。
母上だって、そう言っていたでしょう?」
とある日、陽だまりの中で掛けられた言葉を思い返す。
────シルには私がいるじゃない。
一人で何でもできるなんて嘘よ。
間違えることなんかない、というのもね。
だって、私たちは人なんだもの。
だから──。
「ああ、そうだ。そうだった」
深く呼吸をする。
霧が晴れていくように悩みが消えていく。
「ありがとう、レイ。
そして、すまない。
情けない姿を見せてしまったな」
「いいえ、父上はずっと格好良いですよ」
「お世辞か?」
「心からに決まっています」
向かい合って微笑む。
レイフォードの笑顔を見たのは随分久し振りだと感じた。
やっと、シルヴェスタは置いていたものを手に取る。
「本来の目的を果たす──前に、小さな勇者への餞別だ。」
包装箱を差し出す。
恐る恐るレイフォードが封を開けると、中には二組の手袋が入っていた。
「もっと早く渡すつもりだったのだが……少し時間が掛かってしまった。
それの意味は分かるな?」
「はい。これを隠すため、ですね」
右手から上腕に掛けて刻まれた聖印を指差す。
「良し。
屋敷の中は付けなくてもいいが、外に行くときは必ず付けるように」
少し触っただけでも、レイフォードは手袋の質の高さに気付いていた。
精霊術による刻印までされたそれは、汚れにくく壊れにくい。
用意に時間が掛かったというのも納得だった。
「ありがとうございます」
レイフォードがそう言うと、シルヴェスタは照れ臭そうに顔を背ける。
彼の感情を探るには顔を見るより行動を参考にするのが一番、とクラウディアが教えてくれたことを思い出した。
「……事情聴取に移る。
覚えていることを嘘偽りなく教えてくれ」
平常心を偽って、シルヴェスタは筆と紙を持つ。
そうして、長い戦いの記録を取るのだ。




