七節〈遺却された死〉/1
影が二人に降り掛かる。
男は気付いていなかった、空から急降下してくる物体に。
音も出さずに現れたもの。
不釣り合いに大きな翼を持つそれは、落下の勢いそのまま男を蹴り飛ばし、頭を足で掴み上げた。
「何……っこの!」
黒と銀の翼と自分と同じほどの体躯。
流星の瞳は鋭く、冷たく獲物を見据えている。
つい数時間前に出会った彼。
鳥に類似した翼と手足を持つ、翼人族の子ども。
レイフォードの窮地を救ったのは、あの少年だった。
死角から襲い掛かられ激しく動揺した男は、レイフォードから手を離し、短剣を落とす。
それは、またと無い勝機の訪れだ。
両腕に力を込めて、無理矢理立ち上がる。
石の槍に貫かれていた足を引き抜いて、走り出す。
傷が開いた感覚、足から大量の血が流れ出す感覚がした。
だが、そんな些細なことでは止まれない。
これを逃せば、体力的にも精神的にも勝ち目が存在しないのだ。
だから、ここで雌雄を決する。
あの男を倒す。
姿勢を低くし、石畳に落ちた短剣を減速せずに拾い上げ逆手とする。
レイフォードと男との距離は、僅か五米。
男は少年の足を払い除けようと暴れていた。
魔物を殺した時と同じように、短剣を胸の前に構える。
痛む足で踏み込んで、五米を突き詰めた。
同時に振り払われる少年。
見るからに軽い身体は容易く宙に投げ出された。
ここまで、か。
男が暴れたことによって、もう一人の少女との距離は離れている。
自分がこれ以上できるのは、戦闘環境を整えることだけだ。
少年は、座り込んだ少女を抱えながら大きな翼で羽撃いて、二人との距離を更に離す。
離脱する際、視界の端に見えた白金。
研ぎ澄まされたその意志が男を貫くことを、少年は確信していた。
もう、レイフォードを邪魔するものはない。
自身に背を向ける男に、渾身の体当たりを打ち噛ます。
少年を払い除けることで消耗していた身体への効果は、覿面だった。
体制を崩す寸前に振り返ったことで、男は仰向けに倒れる。
レイフォードも雪崩込むように倒れつつ、空かさず胴に乗り上げた。
優位位置。
それを取ってしまえば、戦況は一気にレイフォードに傾く。
体格差から覆されかねないため、詰めは躊躇わない。
左手で男の首を締め、喉元に短剣を突き付ける。
身動ぎでもすれば、切先が肌を切り裂くように。
こうすれば、男が何らかの神秘を使用する前に、こちらが息の根を止めることができる。
男にとっての完全な詰み。
レイフォードにとっての勝利宣言。
闇夜の攻防は、白の勝利で終わった──はずだった。
「……ああ、ああ!
見届けてくださっていたのですか、我が主よ!」
レイフォードを睨み、見上げていた男の目が、突然見開かれた。
焦点は合わず虚空を眺め、わけのわからない戯言を話し始める。
「多くの贄を、捧げました。
多くの背教者を、殺しました。
私は、私は主の御心に従ったのです!」
何を言っているのだ、彼は。
左手を力む。
怪我で力は弱くなっていると言っても、首を締められるくらいの力は出せる。
現に男の声は絞り出すように掠れ、途切れている。
だが、それでも話すことを止めない。
語り掛けること止めない。
『主』とやらに。
何が見えている、何が聞こえている。
レイフォードには理解できなかった。
幻覚や幻聴、もしくはそれらに似通った何かであることは確実であろう。
しかし、もし本当にそこに。
男が見ている虚空に『主』がいるのであれば、レイフォードにはどうすることもできない。
そして、もう一つ不可解なことがあった。
沸々と腹の底から煮え滾る感情。
憤怒、怨恨、憎悪、復讐、痛哭、愁傷。
レイフォードは知らない感情の数々。
知らないというのに、何故か知っている。
身に覚えがある。
この激情が酷く身体に馴染む。
「我が主よ、我らが神よ、私はやりました。
やり遂げしました、捧げました、殺しました。
全ては主のために」
殺さなければ、消さなければ。
『神』を崇める者、狂信者を。
男は既に果て無き狂気に呑まれ、正気なんて残っていない。
口端から泡を噴き出して、譫言を吐き出すばかり。
虚ろな瞳で祈る男の、がら空きの首。
その動脈目掛けて刃を突き立てようとした、瞬間だった。




