三節/2
彼はどこまで遠くに行ったのだろう。
もう既に、町の方まで逃げてくれたのだろうか。
そうやって、安心していた。
一つの戦闘が終わり、命の危機は去ったと誤認していた。
こんな身体でも二体倒せた、と油断していたのだろう。
だから、先の魔物が本当に一体だけであったのかも、増援の存在も確認しないまま背を向けた。
戦場で敵に背を向けることは、死と等しいというのに。
──死角から、太い尾が鳩尾にめり込んだ。
肺の空気が全て抜ける。
宙へ浮き上がった小さな身体は勢いそのままに吹き飛んで行き、木の幹に打つかって停止した。
激しい振動、痛み、衝撃。
意識を手放しそうになるも、歯を食いしばって耐える。
「……な、んで」
何が起こった。
揺れる視界で見えた先には、倒したはずの魔物が立っている。
いや、あれは確実に倒した。
消滅だって確認した。
きちんと核も落ちていた。
つまり、あれは増援。
もう一体の魔物なのだ。
見えていなかった、視ようとしなかった。
自分の短絡的な思考に嫌気が刺す。
だが、後悔していても意味は無い。
今はどう切り抜けるかが大事だった。
指先は動く、目も見える。
しかし、身体が動かない。
もう、レイフォードの肉体は限界だったのだ。
先程の攻撃による怪我、無茶な動きをした脚、千切れかけの左腕。
たった五歳の子どもが耐えられるわけがなかったのだ。
喩え、狂い壊れていようとも。
起き上がれない、動けない。
木に寄り掛かったまま。
それは、長い手足を引き摺って近付いて来た。
にたにた、笑いながら迫ってくる。
草木を踏み分けて、大人の身長を優に超える大きな身体が目の前に聳えられた。
ゆらりとそれが刃を構え、薄く鋭い刃が心臓を見据えた。
レイフォードがそうしたように。
凶刃がゆっくり迫ってくる。
世界が段々とゆっくり進み始める。
ここで、死ぬのだろうか。
静かな暗い森の中で心臓を抉られ、死に絶えるのだろうか。
脳裏に浮かぶのは守りたい、愛したい人々の顔。
父、母、兄、姉、使用人たち。
そして、とある少女。
暁の瞳を持つ少女。
レイフォードが死ねば、彼女が哀しむ。
手紙の約束もまだ果たせていない。
彼女にだけは嘘を吐きたくないのだ。
あの少女の笑顔だけは、絶対に守らなくてはいけない。
だから、まだ死ねない。
まだ生きなければいけない。
ここで死ぬわけにはいかないのだ。
数糎を残して、刃は動きを止めた。
掴んでいる手に刃が食い込み、血が流れる。
それでも、この手は放さない。
この手を放すことは、即ち生を諦めたということになる。
しかし、徐々に刃は心臓へ歩を進めていく。
決死の力と言えど、瀕死の子どもが出せる力など限られていた。
どうしたらこの状況を切り抜けられるだろう。
鉈は折れた。
魔物本体は遠く、足は動かない。
腕も上がらず、浄化の力も上手く働かない。
なら、何だったらできるというのだ。
レイフォードの手札は、もう無かった。
時間切れだ、と刃が胸を突く。
今にも突き刺そうとする。
死は直ぐそこにあった。
今にもレイフォードを連れて行こうと、手足を、首を、心臓を掴んで放さない。
あるべき眼球が存在しない眼孔を睨みつける。
縦に裂けた口がにやりと弧を描いていた。
魔物は油断していたのだ。
この獲物は確実に殺せると。
自身より遥かに小さく、か弱い生物が反撃できるわけがないと。
それ自体は正しい思考だ。
レイフォードには、魔物を殺せる手段は残っていない。
ただひたすら死ぬまでの時間を延ばすことしかできなかった。
だが、逆に言えば時間を稼ぐことはできるのだ。
歴史は繰り返すものだ。
一度犯した罪を何度も犯し、それを直そうとしない。
加えて、因果応報や自業自得などという言葉だってある。
自分の行動はやがて自分に返ってくるのだ。
つまり、魔物は先程のレイフォードと同じだった。
「──間一髪、か」
黒い液体が宙に舞う。
心臓を狙っていた手足は両断され、地に落ちた。
一拍遅れて響く、魔物の叫喚。
ありえないとでも言うような悲鳴。
闇夜に輝く、魔物の血液に濡れた銀剣。
飾り気のない無骨なそれを握る人影。
「やあ、キミ。遅くなってごめんね」
凪いだ湖の水面のような青み掛かった白髪と、燃えるような赤い瞳を持つ、隻眼隻腕の女性。
レイフォードは彼女を知っていた。
寧ろ、この国で知らない人は殆どいない。
彼女の名はイヴ・サルクウォント。
王国史上最大であった十四年前の厄災討伐戦。
その最前線を張り、《厄災》を討ち滅ぼした英雄その人だった。