三節〈英雄は遅れてやってくる〉/1
右手に伝わる、温かな熱。
繋ぐ手の主が生きていることを証明する温度。
大丈夫、生きている。
彼は死なない、死なせない。
レイフォードは、そう自分に必死に言い聞かせて全身の震えを抑えようとする。
思い出す、ある二人の最期。
撒き散らされた脳漿と臓物。
砕かれた脊髄と幾千もの骨。
撒き散らされた緋に染まった世界。
遺ったのは、握っていた彼女の手だけ。
臭いが、音が、景色がこびり付いて離れない。
また、繰り返すのは嫌だ。
誰も失いたくない。誰も奪わせない。
今度こそ、絶対に。
そうして、暗闇の中を走って──視界の端に何かが横切った。
少年を引き寄せ、押し倒すように突き飛ばし姿勢を低くする。
瞬間、頭上を通る風切り音。
それは、鞭を素早く振った音に酷似していた。
また新たな魔物か。
そう考えたレイフォードは起き上がり、周囲を見渡す。
しかし、どこにもその姿はない。
気のせいだったのか。
いや、そんなことはない。
確かにあれは殺意と質量を持った攻撃だった。
決して幻覚、幻聴などではない。
現に、この空間に魔物のいる気配がしている。
走っているときは感じ取れなかったが、確実に周囲にいる。
ならば、何故見えないのだろう。
その答えは直ぐに導き出された。
「……そこ、か!」
レイフォードの右斜め前、二時の方向の空間が歪む。
その歪みの中心には朧気な球体──魂があった。
そこを狙い、踏み込んで右手に持った鉈で切り裂く。
はっきりと感じる手応え。
同時に、不可視であったそれの姿が顕になった。
大凡、人型だ。
魔物の特性である純黒の全貌。
眼孔が露出し、長い二つの突起がついた頭部。
刃物を模して鋭く尖った手足。
特筆すべきは体長の倍ほどある尾だ。
円錐状の先端は槍のようであり、至る所に付いている返しは、刺さってしまえば抜くことは難しいだろう。
反撃を喰らう前に後退し、少年の近くへ移動する。
人型ならば知性も相当に高い。
昔読んだ魔物の図鑑には、そう書かれていた。
だが、倒せないことはない。
動きを止めれば、レイフォードの勝利は確定する。
時間は掛かるだろうが、魔物を殺すこと自体は難しくないのだ。
難点は、少年を守りながら戦うことだ。
前の魔物は挑発すればレイフォードだけを構っていたが、この魔物はそうはいかないはず。
明らかに戦闘能力があるレイフォードと少年、どちらが狙い易いかなんて分かりきったことだった。
このまま、ただ戦っているだけでは、やがて少年が殺されてしまう。
もしくは魔物の大群に追い付かれてしまう。
そうなってしまえば、意味がない。
かと言って、不可視の魔物を即死させることもできない。
深呼吸して、思考を落ち着かせる。
レイフォードの今の目的は、少年を生かすことだ。
ならば、やるべきことは一つだった。
「■■■■■■■■、■■■■■■!」
足元の少年を叩き起こし、森の出口を指差して捲し立てた。
森を出れば、直ぐにクロッサスが見える。
そこまで少年が逃げ切れば、門番や住民が助けてくれるはずだ。
少年はレイフォードのことを気にして、立ち上がっても直ぐに走ることができない。
言語が通じなくても二人の意思疎通はできていた。
示した先が目指す道であること、一筋の希望であることは解っていたのだ。
そして、レイフォードが足止めをして、少年を逃がそうとしていることも。
その隙を逃さず魔物は再び攻撃を繰り出す。
今度は手足による切り裂き。
レイフォードへの意趣返しのように、一直線に向かってくる。
刃を寝かせ、勢いを往なす。
受け流せても手が痺れた。
まともに受ければ、腕が持っていかれるだろう。
「■■、■■!」
レイフォードは、翼の生えた背を押す。
少年は一瞬振り返るが、意を決して走り出した。
獲物が逃げた、とでも言うように魔物は少年を追い掛けようとする。
みすみす、許すわけにはいかない。
「お前の相手は、こっちだ!」
魔物の手足は、切断力を上げるためか非常に薄い。
当たればこの鉈でも切り落とせる。
問題はどう当てるか、だ。
透明化能力は〝眼〟があるから無視していい。
集中すれば、体内に巡る源素も視える。
最大の長所を潰せば、残るのはあの手足のみ。
長い手足は遠距離にいる相手には丁度良いが、近距離の相手では些かやり難い。
自分をまとめて斬ってしまう可能性があるからだ。
だからこそ、至近距離では攻撃し難いはず。
恐らく機会は一度切り。
意表を突いて、あの胴体に鉈を突き刺す。
一回だけなら、多少の無茶も許容範囲だ。
殺してしまえば、それで終わる。
再び向かってくる手足をいなし、魔物に肉薄する。
泥濘んだ土を蹴って、姿勢を低くしつつ鉈を胸の前に構えた。
──いける。
魔物が腕を振る速度、それよりもレイフォードが刺す速度の方が早かった。
人であれば、心臓のある位置を刃が貫く。
そして、祝福を発動させた。
浮かび上がる光の粒子。
瘴気を滅する浄化の光が、魔物の身体を灼く。
金切り声を上げたそれは、最期の悪足掻きに自分をも顧みず手足を振り回した。
時間にして三秒。
たったそれだけの短い時間だが、人の軟な身体を傷付けるには十分だった。
レイフォードの右頬に深い切創が刻まれ、血が流れ出す。
一瞬の攻防だったにも関わらず、ここまで深く傷を付けるのは、流石魔物といったところだろうか。
「……死んだ、か」
魔物の全身が光となり、跡形もなく消失する。
そしてまた、ことりと透明な石が落ちた。
強靱な怪物であっても、条件さえ揃えばレイフォードのような小さな子供でも殺せる。
余裕の勝利までとは言えないが、できるものはできるのだ。
一対一に限った話ではあるのだが。
「……追い付かないと」
レイフォードは、今にも崩れそうな脚で少年が向かった方向へと歩み出す。