十三節/2
自分は、何者だろうか。
青年は、『自分』という存在が始まった頃から、そう問い続けてきた。
一番古い記憶は、恩人となる女性と出会ったこと。
暗い夜道をわけもわからず動き回っていた時、彼女が自分を見つけてくれた。
言葉も通じなかったというのに、すぐに事情を察して、衛兵の詰め所まで送り届けたのだ。
後に、身元が分からないと判明し、引き取ってくれたのも彼女だった。
記憶も無ければ、名前も無い。
空っぽの自分に居場所をくれたのは、彼女だった。
そうして今、自分はここに居る。
彼女への恩を返すために、生きている。
寧ろ、そうしなければ生きれない。
どこまで行っても、自分は空虚だ。
過度な装飾を貼り付けて、あたかも立派なように誤魔化して。
ぐちゃぐちゃになった心を隠し、人に好かれるように笑って。
辛くても、苦しくても。
何も、考えられなくても。
そうするしか、道は残っていなかった。
それに縋るしかなかった。
だから、だろうか。
いつの日か、自分ではないもう一人の『自分』が身体を動かし始めた。
酷く傲慢で、怒りっぽくて、人を傷付けるのにも躊躇しない。
はっきり言って、屑に分類される性格。
けれど、それは確実に自分だった。
ぐちゃぐちゃになっていたものから作り上げられた、自分だった。
自分と『自分』の区別は、付いていない。
記憶が地続きだからだろう。
切り替わったと認識できるのは、いつも終わった後だった。
だから、この現象を他の誰かに話したことはない。
信じてもらえると思ってもいないし、そもそも、『自分がやってしまったのだ』という自覚があるからだ。
その狂暴な──獣のような『自分』は、紛れもなく自分である。
自分すらも噛み契り、喰い殺そうとする怪物である。
そしてまた、その手綱を握るのは、他でもない自分である。
人には頼れない。
引き摺られたとしても、この手を離すわけにはいかない。
『人』であることをやめるわけにはいかない。
ただ同時に、こうも考えてしまう。
手を離せば。もう、諦めてしまえば。
空っぽなからだを、欲という名の怪物で満たせば。
やっと初めて、生を全うできるのではないのだろうか、と。
胸を張って、『心』を名乗れるのではないか、と。
あり得もしない夢を願ってしまったのだ。
目を覚ませば、嗅ぎなれない臭いがした。
鼻の奥を刺すような、何らかの薬品の臭いだ。
診療所、またはどこかの施設の医務室だろうか。
しかし、何故自分はこんなところにいるのだろう。
一瞬思案し、それを思い出して慌てて飛び起きる。
瞬間、全身に巡る激痛。
酷い筋肉痛にも似たその痛みに、思わず蹲る。
身体に残る傷が、あの夜の出来事が夢ではないことを証明していた。
どうにも力が入らないので、大人しく再び寝具に横たわる。
無理をして動いても、後に残るのは更に増えた傷だけだと思ったからだ。
ふと、窓の外を眺める。
木枠が嵌められ、開けられないように工夫が施されたそれからは、傾いた日光が差し込んでいた。
時刻はもう夕方。
眠っていたのは一日か、それともそれ以上か。
あの日は体調不良で早退し、帰路に就いた。
ある程度歩いたところで酷い頭痛がして、少し休もうと路地裏に座り込んだ。
そして、何かに直接脳を弄られているような不快感と痛みに耐え切れず、意識を手放した。
そこから先の記憶は、曖昧だ。
夜の街を歩いていた気がする。
誰かとあった気がする。
誰かを傷付けてしまった気がする。
誰かに助けられた気がする。
朧気な記憶を必死に思い起こそうとするも、断片的なものしか憶えていないことに気付く。
いつも『自分』が身体を動かしていても、記憶だけは残っていたのに。
全身が言い表しようのない恐怖に包まれる。
見下ろした両手が、赤く染まっている光景を幻視した。
「おれは──……」
その時、誰かが病室の扉を叩いた。
入ってきたのは、見覚えのある少女──否、少年であった。
「失礼します。……あ、お目覚めになったんですね。
お久しぶりです、お身体の調子はどうですか?」
「どうして、きみがここに……?」
「ああ……話すと長くなってしまうので、それは後ほど。
とりあえず、先生と看護師さん、あとヒルダさんを呼んできます。
少しお待ちください」
淡く金色がかった白髪をふわりと靡かせ、彼は病室を後にする。
青年──ジークは、自体を理解できず唖然としているだけであった。
間もなく、数時間の検査と説教、事情聴取が始まる。
丸一日眠っていた身体は、今までの生活で蓄積された疲労等は残っているが、致命的な傷などは不思議と残っていなかったという。
ヒルダからは、無理をして働いていたことと、相談しなかったことを叱られた。
『お前よりずっと年上なのに、頼られないのは癪なんだ』そうだ。
そして、『彼女』からの言伝を受けたとも。
すべてが終わった後、病室に帰ってくると、再び彼が来訪した。
「お疲れのところ、すみません。
どうしても話さなければいけないことがありまして」
寝具の隣に置かれた椅子に腰掛けた少年との関係は、あまり良いものではなかった。
出会いからしても、今回の件にしても、迷惑をかけてばかりだったのだ。
「……問題ない。元はと言えば、おれのせいなんだ。
きみが気にする必要はない。
だから、その……すまなかった」
そう言うと、彼は一瞬目を丸くさせ、笑いを堪え切れずに噴き出した。
ジークはむっとして、眉を顰める。
「何がおかしい?」
「いえ……すみません。
いつもの軽薄な雰囲気が全く無いのが以外で……。
それが、貴方の『素』なんですね」
「……悪いか?」
「いいえ。そちらの方が貴方らしくて、良いと思いますよ。
無理に自分と違う『自分』を演じたところで、何も良いことはありませんから」
妙に実感を込めて話す彼に、ジークはどこか近親感を覚える。
彼も自分を見失った者なのではないか、と。
「さて、本題にしましょう。
僕は昨日、事件に巻き込まれ傷を負っていた貴方に、『治療』を施しました。」
「治療……?」
「はい、『治療』です」
当時の記憶なぞないジークは、取調の際にされた説明を思い返した。
どうやら自分は、謎の魔物に寄生され、自我を失くした状態で彷徨っていたらしい。
そこで、同時に発生したもう一つの事件に巻き込まれ、有志の努力あって保護されたのだとか。
「わざわざそう言うってことは、普通の治療とはわけが違うんだろうな」
「……はい。
おそらく、極一部の者しか知覚できませんし、『治療』できません。
外見には何の影響もありませんから」
「なら、きみはいったい何をしたんだ?」
空色の瞳をじっと見る。
濁りのない、澄んだ蒼と白。
夕焼けの日に照らされ、少しばかり赤く色付いたそれが細められた。
「──『魂』という概念をご存知ですか?」