十三節〈光の裏に影があるように〉/1
根が首に届くまでの光景は、酷く明瞭に見えていた。
一秒一秒が絵に描き起こされているかのように、目に焼き付いてくる。
それなのに、身体はちっとも動かない。
一歩後ろに引くだけでも、状況は変わるはずだというのに。
前にも一度、こんなことがあったな。
在りし日を思い返す。
あの時の自分は、殺される覚悟があった。
ここで殺されたとしても、心までは殺されるものかと、背筋を伸ばして立っていられた。
しかし、今は違う。
殺される覚悟もできていなければ、背筋を伸ばす度胸すらない。
今この場にいるのは、強くて、格好良くて、勇気のあったユフィリアではなく。
弱くて、情けなくて、怖気付いたユフィリアなのだ。
刹那、駆け巡る思い出。
彼と歩んだ世界。
隣に立ちたいと、虚勢を張った己の姿。
どこまでいっても、ユフィリアはただの人だ。
どれだけ嘘で着飾ったところで、彼らには届かない。
あれだけ自分を飾り立てていた衣装は、『死』という本能的恐怖の前で、あっけなく塵芥と化してしまった。
もう、駄目なのかな。
剥き出しの心が零した。
もう、会えないのかな
剥き出しの心が泣き出した。
脳裏に過る彼の笑顔。
一生を誓ったあの日の記憶は、いつまで立っても色褪せることはない。
否、それよりも前から。
出逢ったときから、ユフィリアは彼に恋い焦がれていた。
だから、手を伸ばしてしまう。
願ってしまう。
ただ、君に向けて。
何者でもない、君に向けて。
──助けて。
そう、希ってしまうのだ。
まるで、御伽噺の英雄のように。
愛しい彼が、お姫様を助け出してくれることを。
「──ああ、任せて!」
純白の光が迸った。
誰かが自分を抱き寄せた。
知っている。
それが誰か、ユフィリアは知っている。
花の優しい匂い。
細く引き締まった身体。
少年とも少女とも言える中性的な声。
月光のような輝きを纏うその少年の名を、ユフィリアが知らないはずがなかった。
場に沿わないふわりとした笑みを浮かべ、彼は言う。
「ごめん、遅くなった」
「……遅いよ、ばか」
頬を伝う涙を気にもせず、ユフィリアはレイフォードに抱き着いた。
五感が、目の前にいる彼が幻想でないことを証明する。
薄い胸から伝わる心音が、ここが戦場だということを忘れさせていった。
左腕でユフィリアを引き寄せたまま、レイフォードは魔物へと歩んでいく。
『浄化』の祝福によって、魔物のからだは八割消し飛んでいた。
「……うん、倒すだけなら簡単かな」
「倒す、だけなら?」
「そう、『倒すだけなら』。
でも、今回はそれだけじゃ駄目だ。
この人を助けないと」
そう言って示されたのは、ユフィリアが魔物の根から引き剥がした青年だ。
気を失っているようで、動くことはない。
「魔物を倒してからじゃいけないの?」
「そうすると、多分この人も死んじゃうかな。
無理矢理魂が繋がれてるから、魔物の死に引っ張られる。
それを断ち切らないことには、あれを倒せないんだ」
レイフォードの〝眼〟には、青年と魔物の間に繋がる糸のようなものが視えていた。
『継ぎ接ぎ』や『欠陥工事』とも言えるような、粗末なものだが。
座り込み、青年の様子をよく観察する。
その間、ユフィリアには魔物の監視を頼んでいた。
あの様子ではもう戦えないだろうが、念には念を入れるべきだろう。
そうして、観察しているうちに、一つ問題点が上がってくる。
「大分深いところまで繋がれてるみたいだ。
ほぼ同化してると言ってもいい。
安全に切除するのは、かなり難しいかも」
接合から長時間経過しているからか、青年と魔物の魂の結合は深刻だった。
ローザたちの一歩手前ほど。
完全ではないが、どちらか片方が死ねば、もう片方も死ぬ。
身体が離れていても、それは変わらないようたった。
不安そうなユフィリアが問う。
「……助からない?」
「そうだね、流石の僕でもお手上げだよ。
……これが無ければ、だけど」
「それは……?」
レイフォードの右手に収まっているのは、厚みのある透明な板のようなもの。
三分の一ほどで直角に曲がっており、角周辺には奇怪な機構が取り付けられていた。
「うーん。
言葉にして説明するのは難しいんだけど、強いて言うなら──……杖、かな」
そして、レイフォードは引金を引いた。
「……え?」
「よし、これで大丈夫。
あとは魔物を倒すだけだ」
「待って、状況に付いていけてない……!
あれは杖なの? どうやってあの人を助けたの? 何が大丈夫なの?」
混乱し矢継ぎ早に問い掛けるユフィリアを宥める。
「説明してる時間はないんだ。
帰ったら全部教えるから、ちょっとだけ待って」
「今じゃ駄目?」
「ダメ、先にあれを終わらせないと。
……あれだけは、絶対に許せないから」
甘い声から一転、冷え切った声で魔物への怒りを顕にするレイフォード。
見たことのない彼の姿に、ユフィリアの胸は締め付けられた。
「僕だって、怒ることくらいあるんだよ。
好きな人が理不尽に事件に巻き込まれて、傷付けられて、挙句の果てには苗床扱いとか……本当に、許せない。
世界の果てまで塵一つ遺さずに消さないと、許せない」
こんなふうにはっきりと怒気を示すレイフォードを見るのは、初めてだ。
今まで魔物を討伐するときは、どんなときも基本無感情だったというのに。
『杖』と称したものが、魔物に向けられる。
そして、彼は再び引金を引く。
魔物が魔石を遺して消滅したのは、それから約五秒後のことだった。
音も光もなく行われた『処刑』。
その不可思議さに、ユフィリアは恐怖を抱く。
いったい、何が起こったのだろう。
奈落の底を覗いているような気分だった。
唖然としているうちに、いつの間にか黒い霧は晴れていた。
どこかを見上げていたレイフォードは、何度か瞬きすると、ユフィリアへ語り掛ける。
「色々解決したみたいだから、取り敢えずローザたちをどうにかしようか。
任せてもいい?」
「……あ、うん。でも、まだ源素回復してないから……」
「いいよ、好きなだけ取っていって。
すぐに衛兵も来ると思うから、応急処置程度で留めておこう」
首を縦に振ると、レイフォードはユフィリアから手を離し、気を失った青年を壁に寄せた。
ローザの隣に置く形だ。
目覚めたローザは撃ち抜かれた肩を抑えながらも、ユフィリアへと謝罪する。
「すまないね、ユフィリアくん。
わたしがもっと早く気付いていれば……」
「それを言うなら私の方。
それに、元はと言えば、私が狙撃に気付かなかったのが悪いし……」
「いいや。女の子を守るのは紳士の役目だろう? 名誉の傷さ」
「ローザだって女の子じゃん。……そういうところ、かっこいいとは思うけど」
「嬉しい言葉だね。
しかし、『守る』ではなく『庇う』になってしまったのは反省かな」
「……もう」
撃ち抜かれた傷口に異物が残っていないことを確認し、治癒術式を掛ける。
こういうとき、祝福が使えればと思うが、ユフィリアの祝福は使い勝手が悪い。
何せ、失くなくなったり、壊れたりしなければ、使えやいのだ。
しかも、対象の全体が条件に合致していないといけないため、細かな損傷には使えない。
更に、創り直すには素材となるものもいる。
有用に使える機会は、とても少なかった。
「……どう?」
「ああ、もう大丈夫だ。念の為医者には掛かるがね」
「当たり前。行かないのなら、引き摺ってでも連れて行く」
「強引だね」
くすくす笑うローザだが、顔色はどこか優れない。
治癒術式では失った血液までは取り戻せないからだろう。
それに、精神的なものもある。
ユフィリアだって、レイフォードがいるからこそ、こうやって動けているのであって、彼が居なければ膝を抱えて座り込んでいたはずだ。
当の本人はユフィリアたちをそっちのけで青年を視ていた。
「……どう?」
「ん……怪我は掠り傷程度。
それより、体力の消耗が酷いね。
あとは……ちょっと魂の損傷があるのが気になるかな。
これ、切除前からあったみたいだから、ついでに治しとく。
終わったら治癒お願い」
「はいはい」
また、例の杖を使って何らかの術式を使うレイフォードを後ろから眺める。
何度見ても、詠唱もしていなければ、鍵句の発音もしていない。
精霊と契約していても、術式を発動する以上、鍵句の発音は絶対のはず。
彼がいったいどのような方法を使っているか、ユフィリアには検討も付かなかった。
青年に治癒術式を掛けていると、通りの先からこちらに走り寄ってくる足音が響き始める。
ふとそちらに目をやると、黒の詰め襟という見覚えのある制服を着た人物──衛兵が数名居た。
霧が晴れたことで、隔離されていた空間が開放されたからだろう。
間もなく技術局や騎士団も到着すると、件の通りは一度封鎖されることになった。
事件の調査のためだという。
怪我をしていたローザと青年は、治療所へ。
レイフォードとユフィリアは、夜も遅いということで、寮へ送られることになった。
事件の聴取は、翌日に執り行うらしい。
護衛の衛兵とともに帰ってくると、寮生たちが出迎えた。
どうやら皆、既に帰ってきていたようだ。
事情説明役も兼ねていた衛兵との会話により、寮長であるコレットは、事件の概要を大まかに把握する。
学校には、双方とも明日連絡するそうだ。
熱帯夜に魘されていた二人も回復していた。
テオドールには、『また危険なことをして』と叱られてしまった。
反面、ニコラスとステファン、他の寮生は『無事に帰ってきてくれて良かった』と安堵の声を漏らす。
ミシェーラは、相変わらず無関心であったのだが。
そうして、やっといつも通りの日常に帰ってきたレイフォードたちは、暖かな食卓を囲む。
事件のことを忘れるほど、それは穏やかな時間だった。
こうして、『黒霧事件』と呼ばれた騒動は、幕を閉じる。
宵闇に謎を隠しながら。