十一節〈霧の街〉/1
入学してから、もう四ヶ月が経つ。
夏真っ盛りも過ぎたというのに、未だ暑い日が続く生命の月の終わり。
今週末には、高等学校の文化祭が迫っていた。
「ただいま……っと、暑かった……」
「技術局は涼しかったからね……癒やされる……」
「お帰り。遅かったね、部活の準備?」
とある用事を済ませたレイフォードと、その付き添いをしてきたテオドールは、寮の玄関に辿り着いた瞬間にへたり込んだ。
もう夕暮れだというのに、外はかなりの気温で、ここから距離のある学園の隣の技術局から徒歩で来た二人は、大分体力を消費していたのだった。
そんな二人に、居間からやって来たステファンが上から声を掛けた。
「いえ、ちょっと別件で……あ、先輩氷菓持ってる」
「ください。結構死にかけてるんです俺」
「自分で取って来なさい、いくつか種類あるから。
あ、お徳用の棒のやつだけね。
他のは個人のだから食べちゃダメだよ」
ステファンの手にあったのは、空色の棒型氷菓。
表面はパリッと、中身はシャリッとした感覚が特徴の、甘く爽やかな味の氷菓である。
「うえ……取りに行く気力が……」
「キミ騎士科じゃなかった?」
「それとこれとは別問題なんですよ……暑いの本当に苦手なんで……」
玄関に仰向けに倒れたテオドールが、普段からは想像も付かないような蕩けた声で話す。
毎年のことながら、平常との変わりようが凄まじい。
「いつも溶けてるもんね。そろそろ粘体超えて水になりそう」
「年中長袖のレイくんには、この苦しみが分かるまい……」
「いや、僕も結構暑いからね?
どれだけ素材に気を付けていると思って……って、本気で死にかけてる?!」
「うわ?! ニコラスくーん、急患!」
「またですか?! 今日だけで何人見たと……!
おれミシェーラさん見なきゃいけないんで、運んでもらってもいいですか!
あと運び終わったらステファンさんはこっち来てください!」
今日は偶然早く帰ってきていたらしい専門家に判断を仰ぎ、更に涼しい居間へと連れて行く。
貧弱な筋力の男どもしかいないため、ほぼほぼ引き摺るような形だが。
その最中、虚ろな瞳のテオドールが一つ呟いた。
「……とりになる」
「更に暑くなるでしょそれは。というか邪魔だよ」
本当に暑いときは頼りにならないな。
脳味噌が機能していない発言に逐一ツッコミを入れつつ、術式により頭を強制的に冷やしていく。
これは確実に熱中症だ。
すぐに水分と塩分を取らせる必要がある。
だが、レイフォードには適切な医療方法が分からない。
意識を落とさないように会話を続けているが、このまま続けば、いずれ気絶してしまうだろう。
しかし、この場で唯一の専門家であるニコラスは、もう一人の患者であるミシェーラの対処もあって、今は手を離せそうにない。
どうやら、先程までステファンの源素をニコラスに渡し、そこから彼女に供給しつつ身体を冷やす、ということをしていたようだ。
今のステファンの源素の残量では、一人でミシェーラの対処をすることは出来ないらしい。
ミシェーラ一人だけならばここまでになっていなかっただろうが、そこにテオドールが増えてしまうと一気に慌ただしくなってしまった。
せめて、もう一人彼と同じように動ける者がいれば。
そこで、ふと思い付く。
「ニコラスさん、増援呼んでもいいですか?」
「ごめん、お願いしたい! ……え、どうやって?」
「呼んだら来ます。
ラウラ今いい? 緊急事態だから、ちょっと手伝って!」
レイフォードがそう言うと、虚空から一人の女性が姿を表した。
男よりも高い背丈に、豊満な身体。
一つにまとめた金髪と、長い前髪に隠れた黄昏色の瞳。
レイフォードの契約精霊である、特位精霊ラウラだ。
人にしか見えない身体は、レイフォードから無理やり奪った血液と源素を使い、受肉したものである。
「お呼びとあらば即参上、ラウラです。何なりとお申し付けください」
「状況は分かるね。経口補水液の作り方って知ってる?」
「はい、ただいま用意いたします。
厨房をお借りしても?」
「いいよ……って何その格好?!」
世界そのものとも言える彼女なら、それくらい知っているであろうと頼む。
予想通り既知であったようで、即座に行動に移してくれるラウラ。
登場はふざけていたが、心強い味方だ。
そう思っていたのも束の間。
顔を上げたレイフォードの視界に入ってきたのは、ほぼ全裸のような露出度の高い服装──水着であった。
「ようやくお気付きになられましたか。
何分急に呼び出されたもので、着替える時間などなく……」
「着替えって概念ないよね、精霊には!
さては、僕の反応を見たいがためだな?!
とりあえずまともな服を着て、早く!」
「ご明察です。流石レイフォード様」
「ご明察したくなかったよ! テオは笑わない!」
心の動揺に術式が安定しなくなるも、どうにか耐えて、テオドールの額を冷やし続ける。
なお、肝心の彼はレイフォードとラウラの会話に震えていた。
隠せていると思っているのだろうか。
一瞬のうちに普段着へと変身したラウラが、経口補水液が並々と注がれた食器を差し出す。
「どうぞ。足りないのであれば、また作ります」
「ありがとう。……テオ、飲める?」
「飲めます」
「なんで敬語……? それ飲んだら、後は安静にしてて。
ラウラ、無事に飲めるか見張ってもらってもいい?
終わったら僕の代わりに冷やしておいて」
承知しました、と頷くラウラを尻目に、レイフォードはニコラスとそれを補助するステファンの元へ向かう。
一度眼鏡を外して視ると、二人ともかなりギリギリの状態であることが伺えた。
声を掛けてから自身と二人だけを包む結界を作り、少しだけ源素を開放する。
レイフォードが自ら注ぎ込むと悲惨なことになる故、源素濃度を高くし、自然回復量を増やすという、間接的な供給しかできないのだ。
「……これでどうです? 足りますか?」
「……助かるよ。
流石に釣り合わないなって、不安になってたところだったんだ。
ステファンさん、もう休んでもらって大丈夫です」
「いや、手伝うよ。氷菓食べて大分英気を養えたからね。
まだ術式の発動には足りないけど、十分動けるさ」
「すみません、ありがとうございます」
これにて一旦安心か、と肩を撫で下ろす。
文化祭直前ということもあり、皆忙しく人が居ない。
特に企画部にもなると、下級生でも毎日夜八時辺りにならないと帰ってこないほどだ。
文化祭は、王都でも一大イベントであるため、何千人もの人が来場する。
また、文化祭の目玉とも言える『国内高等学校決闘選手権』は、全国から選りすぐりの強者が集まり、今年度の優勝者を決めるということもあって、毎年満員だという。
文化祭は、企画部と生徒会執行部の共同運営だ。
構成人数十二人の生徒会と、部員数約二十人の企画部。
いくら風紀委員会による取り締まりがあると言っても、騒動対策を含めた運営はかなりの負担であるはずだ。
一部活の出し物でさえ大変だというのに、いったい企画部はどれほどの修羅場なのだろう。
想像すればするほど、肝が冷えていく。
学年が上がれば上がるほど、熱量が上がると言われるこの文化祭。
一年でもこうだとすると、来年はどうなってしまうのか。
同じ研究部の先輩たちの異常な盛り上がりに、未来の自分の行く末を重ね合わせ、しかし、流石にああはならないだろうと頭を振った。
その際、いつも通りならば、この時間帯は寮にいるはずの二人の姿がないことに気付く。
「……あれ?
そういえばユフィたちは、まだ帰って来てないんですか?」
「うん、まだ帰ってきてないよ。
今日はボクが一番最初に……四時くらいにかな。
帰ってきてたんだけど、その後はニコラスくんとキミたち以外、誰も帰ってきてない。
ローザさんは環境調査部の準備かもしれないけど、ユフィリアさんは無所属じゃなかった?
もう帰ってきてもおかしくない時間だと思うけど……」
「一応風紀委員会に入っているので、打ち合わせがあったら遅くなるかもしれません」
「友達の風紀委員が『今日は何もない』って言ってたから、その線はないはず。
誰かの手伝いとかかな」
思念伝達の術式などによる連絡は、誰も受けていない。
まだ心配するような時間ではないが、いつもより遅い帰宅に心がざわついた。
何より──
「最近何かと物騒だからね。
例の連続傷害事件、また被害者増えたし」
「女性ばかり狙われるって噂ですから、完全に日が暮れる前には帰ってきてほしいですけど」
それは、一月ほど前。
ちょうど夏季長期休暇に入り、レイフォードたちが王都を離れていたときから始まった。
月の出ている日の、暗い夜道。
急に人の気配が無くなったかと思えば、何者かに背後から襲われる。
あまりの激痛で意識を失う直前、被害者は皆、ある言葉を耳にするという。
──『おまえじゃ、ない』と。
狙われるのは、白髪や金髪、銀髪の十代から二十代前半の若い女性。
一人で居る、居ない関係なく襲われ、誰も犯行現場を目撃していないらしく、犯人の特定が難航しているのだとか。
今は、騎士団、技術局両方が神秘学的捜査を行っているようだ。
ふと、窓から空を見る。
爛々と輝く星々の中で、二十六夜の月が淡く町を照らしている。
今日は、快晴であった。
今夜は星月がよく見えるだろう。
もうすぐ、完全に日が暮れてしまう。
学校から寮は、それなりに遠い。
そして、町の中心街からも。
今もユフィリアが学校にいるのならば、帰ってくるであろう頃には夜道は街頭と星月の明かりのみが頼りだ。
例の事件を知っていて、彼女一人で帰らせるわけにはいかない。
「……すみません、一瞬連絡取ってもいいですか?
遅くなるようなら、僕が迎えに行こうと思って」
「そうだね。こっちは大丈夫そうだから、お願いするよ」
頷いたレイフォードは結界を解き、術式の構築をしながら、一応外を見に行った。
茹だるような熱気に扉をそっと締めたくなるが、ユフィリアが周囲にいるか確認するためには、外へ出るしかない。
意を決して、宵闇に染まりつつある通りを、端から端まで眺めた。
彼女の姿は、どこにもない。
やはり、まだ帰ってこられないのだろうか。
一抹の不安を抱きながら、術式を発動させた──。
「あ、そこのキミ! レイフォードくん、レイフォードくんだよな!」
その時、路地の奥の方から、低音の男性──ではなく、女性の声が聞こえた。
レイフォードは、その声の主を知っている。
知り合いというほど深い関係ではないが、それが誰の声であるかは理解している。
駆け寄ってくる二十代ほどの若い男、否女。
精悍な顔立ちと身長からよく男に勘違いされ、というより、自分からそう見えるように仕向け。
そして、王都の歓楽街にて、女性でありながら男娼として働くという、奇怪な者である。
「……ヒルダさん、どうしてここに?」
「ちょっと人を……いや、キミは知ってるのか。
ジークを探していたんだよ。アイツの友達みんなで」
「ジークさんを……?」
もう半年も前のことだ。
入学試験のために王都へ来た際、レイフォードを少女と間違えた二人と『色々』あった。
後から知ったことだが、二人はレイフォードを成人間際ほどだと思っていたらしい。
六歳も年上に見られていたことに驚いたのは、言うまでもない。
クロッサスに帰宅し、受け取った連絡先を頼りに『ご心配なく』という旨の手紙を送り、返答をもらった後の交流は無かった。
ヒルダ側ももう既に忘れていると思っていたのだが、どうやら違かったらしい。
ジークとは、あの時の片割れの青年だ。
金髪碧眼の軽薄な美丈夫と言った風貌のはずである。
「何かあったんですか?」
「それが……行方不明、なんだ。多分、昨日の夜から。
アイツ、昨日の勤務中に凄い顔色悪かったから、店長に口添えして、早上がりにさせたんだ。
オレは普通勤務だったからさ。今日は定休日だし、様子見に行こうとアイツの家に行ったら……」
「姿が無かった、と」
「ああ……帰ってきた痕跡はなかった」
彼らは所謂『夜職』である。
勤務時間は当然夜中。
早上がりだということを加味すると、行方不明になってからほぼ丸一日経過していると考えていい。
「衛兵への連絡は……」
「済んでる。でも、本格的に動けるのは明日からだって。
だから、今総出で探してるんだ。
家の方から探してるから、後は町の中心部の方なんだけど……」
言葉を濁すヒルダ。
彼女が何を考えているのかは、手に取るように分かった。
「最近、少し物騒ですし……『その線』も考えられるかもしれません。
その場合は、一般市民である僕らが動くのは危険でしょう」
「……だけど、早く見つけないと。
アイツ、ずっと前から時々調子悪そうにしてたんだ。
本格的に病院に連れて行かなきゃいけないと思ってたところで……!」
ヒルダは、髪をくしゃりと握り締める。
冷静さを失い掛けている。
それも無理はない。
彼女は、彼のことを弟分のように思っているようなのだ。
「……できる限りなら、僕も手伝います。
丁度、友達を迎えに行く予定だったんです。
彼を見かけたら、声を掛けておきますから」
「……ごめん、助かる」
「気にしないでください。こういうときは助け合いが大事ですから」
ヒルダへ一度断りを入れて、ユフィリアへの思念伝達の術式を発動させる。
何の障害も無く、それは繋がった。
「ああ、ユフィ。今どこに居る?
もう遅い時間だし、迎えに行こうと思ってたんだけど……」
「ごめん、連絡忘れてた!
ローザの仕事手伝ってたの。今お店で物を受け取って帰るところだから……」
「じゃあ、そこまで迎えに行くよ。二人きり?」
「うん。えっと、目印は──」
瞬間、ユフィリアの声が途切れ始める。
ぷつ、ぷつと術式の繋がり自体が悪くなってきたのだ
「……ユフィ?」
「……何、これ。霧……? 人の気配が──あ」
その呟きを最後に、術式の繋がりは断絶した。