二節〈夜の陽に焦がれて〉/1
春の夜は冷える。
室内であっても、それは変わらない。
しかし、少年が感じている寒さは気温によるものではなかった。
大きく息を吸えば、肺に空気が入る。
つまり、ここは水中ではない。
そして、二月というあの世界の冬を指す暦よりも、この空間は暖かい。
瞳が映す景色は水面上の星月ではなく、見慣れた木製の天井。
この身体はあの少年のものではなく、レイフォード・アーデルヴァイトのものだった。
久し振りに『彼』の幼少期を見たな。
無意識に伸ばしていた右手を下ろして、レイフォードは先程の記憶を思い返す。
レイフォードとしての自我が確立した時から、この記憶は存在していた。
この世界ではない、どこか違う世界に生きた青年の記憶だ。
地球という星の日本という国に生まれた彼は、紆余曲折あって二十歳という若さで現世を去った。
死因は九日前に見た記憶の通り、短剣の能力。
不思議なものだった。
レイフォードの思い違いでなければ、青年の暮らす世界には神秘──『奇跡』とも表現される現象の総称──は存在しないはずなのだ。
だと言うのに。
あの光は、あの現象は、確かに神秘であった。
しかし、既知の記憶の中に存在しないというだけで、これから思い出していく記憶の中にはその片鱗があるかもしれない。
レイフォードが知る青年の記憶は、未だ不完全であった。
レイフォードとして生きていく中で、ある時蘇ってくるそれらは、一度に全て思い出させてくれるわけではなかった。
割れた硝子の破片を拾うように、慎重に一つずつ脳に刻み込まれていく。
幸運であったのは、思い出した記憶は二度と忘れることは無い、ということだ。
そもそも別人の記憶であるから、思い出すというのも少しおかしいのかもしれない。
だからこそ彼、そしてもう一人の彼女が大切だと思っていた人々の名前が思い出せないことが堪えたわけだが。
レイフォードにとって、青年の気になる点は両親が存在しないことだった。
始めからいないわけではなく、どこかの出来事を革切りにその存在が感じられなくなる。
いったい何があったのだろう。
先程の思い出した記憶は、青年が両親を喪って一か月半後ほどのものだった。
そして、喪った瞬間も欠片だけ見えた。
青年が心身の摩耗等で狂っていないのなら、あれは幼子が耐えられるものではない。
現に彼女の妹は記憶を抹消していた。
心の防衛本能だったのだろう。
虐めだって、青年の傷を更に広げていたはずだ。
そうして起こった、あの投身自殺擬き。
成長した青年の記憶があるからには、彼はあそこで死ねなかったのだろう。
誰かに救助され、生きる希望を見出した。
それが、十歳ほどのこと。
そこから先ならば多少は憶えている。
親代わりとなる男と出会い、小中学校を卒業し、高校へ進学。
地元から離れた高校に進学した青年は両手で数えられるほどだが友を作り、更に大学へ進学。
そして、あの事件が起こったわけだ。
青年には恋人がいたはずなのだが、レイフォードは彼女のことを全く思い出せないでいた。
知り合ったのは高校以降だ、ということしか分かっていない。
だが、いずれ知る時が来るのだろう。
レイフォードの精神は青年の記憶に大きく影響されていた。
年不相応の聡明さも、時々見せる懐疑的な行動も、全てその記憶によるものだった。
子どもの身体に大人の脳が入ったような状態は、他人の目に可笑しく映って当然だ。
しかし、それでもレイフォードはただの子どもであった。
どれだけ異端であっても、子どもだったのだ。
家族に見放されたくないと思うのも、共にいたいと思うのも当たり前の感情だ。
だから、レイフォードは自分を偽ることにした。
ただの少年てもある『レイフォード・アーデルヴァイト』という役を演じることにした。
ここまで来れば、レイフォードは自分が本当に人であるのか少し疑問を覚え始めていた。
そもそも異世界の記憶とはなんだ。
自分の頭が可笑しいだけなのではないか、と。
そうして悩んでいる時にあの日が来た。
レイフォードが決定的に人ではいられなくなった、あの日が。
どこまで、人と偽り続けられるだろう。
レイフォードの目下の課題はそれだった。
自身の命はあと二年。
それより先を生きるつもりがない、というわけではないが、想像できないのだ。
『レイフォード・アーデルヴァイト』を演じられるか。
ユフィリアの前でなら演じることはあまりないのだが。
もう一つの記憶の持ち主である少女、彼女の大切な少年とよく似た少女を思い浮かべる。
明日は約束の夜の曜日。
レイフォードは手紙を出さなければいけない。
机の上に置かれた、花と蝶が描かれている可愛らしい便箋。
今日の昼に、使用人に頼んで買ってきて貰ったものだ。
ユフィリアは喜んでくれるだろうか。
書き連ねるべき内容を整理しながら、そろそろもう一度眠ろうと目を瞑る。
しかし、一向に眠れる気がしない。
それどころか目が冴えて仕方がないのだ。
星でも見れば眠気が来るだろうか、と窓へ視線を送った。その時だった。
身の毛がよだつような気配が全身を駆け巡る。
右手が殺意で震えるような、今直ぐに消し去らなければいけない何かがような。
そんな感覚に襲われる。
何なんだ、これは。
身に覚えのない想い。
しかし、レイフォードは──否、■■■■■は知っていた。
強い殺意、全てを消し去ろうとする怒り。
それらに導かれるまま、不自由な足で立ち上がる。
本来ならば、動かないはずだった。
体内源素過剰症により肉体は衰弱し、歩くことさえままならないはずだったのだ。
だが、身体は動き続ける。
足は前に進み続ける。
絶対に殺さなくてはいけない、と強要されているように。
ふらりふらり。
力の入らない身体で、レイフォードは屋敷の外に出る。
身の着のまま、暗く寒い夜道を歩く。
あの記憶と同じように。
ああ、そうだ。
あれがないと、あれがないと殺せない。
レイフォードは唐突にあるものを探し始めた。
それは、園芸用の鉈。
母親が使っているものだ。
これならば剣の代わりくらいにはなる。
小屋の外、廃棄用の物が放置されていた。
刃渡り約三十糎。
いつでも斬れるよう、抜身で持っていく。
斬るというより削ることになりそうだが、相手の動きを止められるならば何でもいい。
剣が使い慣れている、というだけだ。
小石を拾うのも忘れない。
最も原始的な武器の一つであるのだ、小石は。
衣嚢にいくつか詰め込んで、目的地へ進む。
目指す場所は《精霊領域》。
国内最大級の森林にして、最高源素濃度を誇る立入禁止区域。
アリステラ王国と他国の国境でもあるそこに、レイフォードが求めるものがいる。
黒に染まった怪物。
瘴気によって、世界を滅ぼす《魔物》が。