七節/5
ゆっくりと、宿の扉を開ける。
夕暮れ時だからか、こちらの方には人の気配はない。
耳を澄ませば賑やかな声が聞こえるので、隣の食堂に集まっているのだろう。
ならば重畳と、彼女たちに見つからないうちに、忍び足で自室へと戻る。
荷物が増えるからと服を持ち帰ることは断ったが、レイフォードの身体には依然拘束痕が残っていた。
一人だけ帰りが遅くなったこともあり、ユフィリアたちへの説明は必須。
しかし、正直に話したところで、待っているのは『お仕置き』だろう。
ローザは兎も角、ユフィリアとテオドールには、口酸っぱく『注意しろ』と言われた上でのこの様だ。
免れぬ罰であるのは分かっている。
だが、少しでも軽くするために足掻くのは悪いことではない。
多分、きっと。
だから、これは逃げているわけではないのだ。
戦略的撤退である。
左右を見て、誰も居ないことを確認してから、取手に手を掛ける。
いつものレイフォードなら、辿り着いたと思った瞬間、背後から襲撃を受ける。
最後の最後で逆転されてしまうのだ。
しかし、今日はそんなこともなく、無事に安全地帯へと辿り着けた。
これは成長だ。
いつもやられてばかりでは──。
「あ、お帰り。レイ。
随分……遅かったね」
閉める。扉を閉める。
きっと、気のせいだ。
何かの見間違いだ。
自分の考えを見透かされて、部屋で出待ちされているなんて、そんなことあるはずがない。
あのユフィリアであっても、流石にそこまでは出来ない。
「……なんで、閉めたの?」
「……部屋、間違えちゃったのかなあって」
「それなら大丈夫。
ここは、間違いなくレイの部屋だよ」
と、いうのは現実逃避で。
自室では、確かにユフィリアがレイフォードを待っていた。
極寒のような圧を携えて。
部屋と廊下の境界を挟み、レイフォードとユフィリアは対面する。
レイフォードの足は廊下の先の階段へと向かっているが、ユフィリアの足先はレイフォードをじっと捉えていた。
「……そっかあ。
じゃあ、僕は食堂の方に行こうかなあ。
皆、そっちの方に居るんだよね。
ユフィも一緒に行こうよ」
「そうだね。
でも、その前に、話さなきゃいけないことがあるの」
扉の取手に掛けていた側の手首が、尋常ではない力で握られる。
俯きがちの白髪から覗く青紫の瞳は、『意地でも逃がさない』と主張していた。
「ねえ、レイ。『おはなし』、しよう」
「……はい」
そんなユフィリアに逆らえるわけもなく、レイフォードは自室へと引きずり込まれる。
彼女の言う『おはなし』とは、十中八九お説教だ。
短くても一時間、長ければ二時間。
己の愚かさについて耳が痛いほど教えられながら、ユフィリアへの奉仕をする。
抱擁であったり、膝枕であったり、添い寝だったり、奉仕の内容は日によってまちまちだが、思春期男子にとっては、毒よりも甘く、苦しいものであるのは間違いなかった。
いったい、今日は何をさせられるのだろうか。
そう、思っていたはずなのに。
「……あの、ユフィリア、さん?」
「なあに、レイ」
「これは……その、どういう状況で……?」
何故か、レイフォードは寝台の上に押し倒されていた。
抵抗出来ないよう、両手を頭の上に拘束された状態で。
「ん……そうだなあ、教えてあげてもいいけど……先にそっちからかな」
「何のことでしょうか……?」
「とぼけないで。
目も耳も、鼻も鋭いの知ってるでしょ。
私、分かるんだよ。
……どこ、行ってたの?」
首の辺りに、彼女の顔が近付けられる。
「……いつもと違う匂い。
学校のじゃない。
多分、技術局の、例の研究室の匂いかな。
それも、消毒剤や芳香剤じゃなくて洗剤の匂い。
服、洗ったんだ」
「……えっと、その、ですね」
寝台に付いていたもう一方の手が、動く。
胸の辺りから、身体の線を沿って腰までなぞったかと思うと、彼女は唐突に服を捲った。
「……ふうん。何、この痕。
人の手で付けれるようなものじゃないよね。
……触手系。形が均一だから、粘体か。
この感じなら、全身に付いてるみたい。
ねえ、どこまで付けられたの? どこまで入られたの?」
「……あ、ごめ──」
「謝るんじゃなくて、さ。
どこまで許したかって聞いてるの」
冬場だからか少し冷たいユフィリアの手が、レイフォードの地肌を滑る。
服に隠された胸、その中心よりやや左の位置。
心臓の上辺りで、動きが止まった。
汗ばんでいるのか、若干湿った手がぴたりと肌に張り付き、心音を探る。
レイフォードの鼓動は、いつもより大分早かった。
「……そんなに、気持ちよかった?」
「……へ?」
「私より、そんなモノのほうがいいの?」
「どういうことだか、分からな──ん、う」
「嘘。
本当は分かってるのに、私から言わせようとしてる。
女の子にそういうことさせるの、駄目だと思うよ?」
開いた口を無理矢理閉じさせるように、彼女の指が唇に押し付けられる。
「悪いのは、この口かなあ……」
なぞるように、あるいは撫でるように。
徹底的に、唇付近ををいじられる。
咥内までは、流石に自重したのだろうか。
口の端に掛かった指が、中に入ってくることはなかった。
「……もう一度訊くよ。
どこまで付けられたの?」
「……ほぼ、全身かな。
下半身は、服の上からだったから、そこまではっきり付いてないけど、上半身はびっしり」
「どこまで入られたの?」
「口の、中は。
それ以外は、特に」
「……そっか」
その言葉を合図に、彼女の指が咥内へと侵入する。
人差し指と中指で舌を挟むと、ゆっくりとその上を移動した。
触れられる度に脳の奥が痺れ、背筋が疼く。
喉奥の方にまで指が差し込まれたので、レイフォードは思わずえづく。
それにぴくりと反応した指は、舌上からは手を引いたが、変わらず咥内を弄り続けた。
決して、激しく動くことはしない。
口蓋や頬粘膜を優しくなぞり、撫でるだけ。
時折舌を押すことはあれど、先程のように喉奥まで突っ込むことはなかった。
「多分、自分じゃ分からないと思うけど……レイって、体温低いんだよ。
でも、中は温かいんだね。新発見かも」
「嬉しく、ない……」
弄られ続けていたせいで呂律が回らない。
えづいたからか、それともまた別の要因か、瞳は潤み、涙が滲んでいる。
「苦しい? それとも、気持ちいい?」
「……意地悪」
「仕返しだよ、仕返し。
誰かさんが、私以外に触られるのを許したから」
「……ごめんなさい」
「分かったなら、よろしい」
夕陽だけが射し込む暗い部屋。
赤い光を反射して、唾液塗れの指が輝いた。
そうして、ユフィリアは、レイフォードに見せつけるように、その唾液を唇に塗る。
「……何を、して……」
「接吻じゃないから大丈夫、でしょ。
同じ食器を使うことくらい、何回かあったじゃん」
「そういう問題じゃ……!」
自分でも分かるくらい、頬が紅潮している。
だって、流石にあんまりだ。
間接的だと言っても、限度がある。
第一、彼女にそんなこと教えた覚えもないし、そういうことを教えるような人物に心当たりもない。
いったい、どこからそういうことを学んだのだ。
「……だめ、だった?
私、一生懸命考えたんだよ。
レイが、そこまで許しちゃったって聞いたから。
私がまだ、入ったことないところまで、入れちゃったって聞いたから。
なら、私で塗り替えなきゃって」
レイフォードの両手を抑えていた手が、頬に触れた。
「……私のこと、好きなんでしょ。
他の子には、こういうことさせないんでしょ」
二人の身体が密着する。
布越しでも分かるほど、ユフィリアの身体は温かい。
彼女は頬から手を離すと、レイフォードの服の襟を引き、首を露出させた。
そして、露になったその筋に吸い付く。
時間にして、たった十秒。
けれど、レイフォードにとっては、無限にも近しい時だった。
白く細い首筋に咲く、赤い花。
服で隠れる位置なのは惜しいけれど、恥ずかしがり屋の彼ならば寧ろ丁度良い。
蠱惑的に、妖艶に微笑む少女。
その笑顔から、少年は目を離すことが出来ない。
愛欲も、独占欲も、ありとあらゆる欲を滲ませた瞳が歪む。
「忘れないで。
世界で一番、君のことを愛しているのは、私なんだから」
それだけは譲れない。
君だけは、誰にも渡せない。
だって、約束したんだもん。
ずっと一緒に居るって。
ずっと一緒に生きるって。
例え、誰もが私たちの絆を断とうとしたって、何度でも私は結び直す。
私に与えられた力は『再構』だ。
何度でも、やり直し、作り直す力だ。
かと言って、初めてを譲り渡す気もない。
君の初めては、私でなくてはいけない。
だから、全部私のもの。
何一つ、奪わせやしない。
私の初めては、全部君のものなんだよ。
だったら、君の初めても、私のものに決まってる。
可愛くて、格好良くて、綺麗な君。
皆に愛されて、好まれる君。
けれど、そんな君の深いところまで触れられるのは、私だけ。
それに優越感を持たないなんて、ありえない。
なのに、君は許してしまった。
身体に痕まで付けられて、奥まで好き勝手されて。
私だって、まだ、そこまでいっていないのに。
だから、この怒りは正当なものだ。
抱いて、当然の昂りだ。
呼吸まで忘れて、自分に見惚れている君の顔を捕らえた。
逃げられないように、耳を塞ぐように。
これからどうなるのかを察したのか、君は目を伏せた。
あの綺麗な目が見られないのは寂しいけれど、ずっとあんな目で見られていても、嗜虐心がくすぐられて、全身が沸き立つのが抑えられなくなってしまう。
しょうがないけれど、このまましてしまおう。
少女は顔を近付けた。
そして、薄く桜色に色付いたそれに触れる──。
「レイくん、起きてる?」
かと、思われた瞬間。
部屋の扉が叩かれた。
聞こえたのは、年若い少年の声。
テオドールの声だ。
「もう帰ってきてたんだって?
俺たち、もう先にご飯食べちゃったから、後でユフィと食べてね」
「……疲れているようなら、後でもいいさ。
二人とも、ゆっくりね」
続けて聞こえる、ローザの声。
この部屋の外には、二人がいる。
そういえば、レイフォードを引き摺り込んだ後、部屋の鍵を掛けただろうか。
もし、掛けてなかったら、この部屋は、誰でも、いつでも入れてしまう状態で──。
水を掛けられたように、思考が冷えていく。
今、自分は何をしようとしていた。
百歩譲って接吻は良いとしても、その先は。
「……ユフィ」
レイフォードが、小さな声で名前を呼んだ。
彼と己の身体は、今、とても密着している。
押し倒された彼の上に、自分が跨がって、その上、彼を覆い尽くすように被さっている。
端から見れば、その姿勢は、どこからどう考えても──。
悲鳴を上げて、ユフィリアは飛び退いた。
自分がしようとしていたことの重大さに気が付いて。
「あわ、あわわ、あわわわわ。
私は、なんてことを……!」
脳裏に映るのは、涙目で己を見上げるレイフォード。
情欲を煽るその姿は、いつ思い返しても欲情的。
「って、違う違う! そういうことじゃない!」
頭を振って、煩悩を消し去る。
いくら彼が他人──今回の場合は他物──を誘惑していたとしても、流石にあれはない。
彼が強く抵抗しなかった、いや、出来なかっただけで、立派な『アレ』である。
痛いくらいに高鳴る心臓を抑えつけながら、ユフィリアは背後を振り返った。
押し倒されていた寝台に腰掛けるレイフォード。
乱れていた服や髪はいくらか直されているが、しきりに首元を気にしている。
そこは恐らく、ユフィリアが付けた鬱血痕がある位置だった。
「……あ、あっ」
謝ろうにも、なんて言えばいいのか分からない。
そもそも、何故こんなことをしてしまったのかも、曖昧だ。
ただ、レイフォードが帰ってくるまで、彼の部屋で待っていたはずなのに。
彼の姿を見て、何か隠していると悟って。
他人の匂いと、あの痕を見た瞬間。
綺麗に理性が吹っ飛んでしまった。
「……えっと、その、ユフィ」
「……はい」
紅潮した頬のまま、視線を泳がせたレイフォードがユフィを手招きする。
それに従わないわけもなく、彼の足元に座り込んだ。
「……今回は、全面的に僕が悪いし。
ユフィは……ちょっと暴走しちゃっただけだから。
……気にしない、でね」
「……うん」
気遣われている。
凄い、気遣われている。
寧ろ、徹底的に蔑んでくれたら楽なのに。
優しい彼は、全くユフィリアを責めようとはしなかった。
「あ、でも、その……嫌なわけじゃなかったから。
そこは、安心してほしい……って何言ってんだろ、僕……」
口を覆うレイフォード。
その仕草にまた心がくすぐられ、そして、そう感じてしまう自分に心底嫌気が差した。
「……取り敢えず、ご飯にしようか」
「……そう、だね」
腰が抜けてしまったレイフォードを何とか支えつつ、二人は食堂へ向かう。
気まずい空気は、夕食後まで晴れず。
ユフィリアに至っては、風呂上がり、夜中すらも、悶々と悩むことになる。
明日になれば、お互い何も無かった体で普段通り接するのだが、ユフィリアの心には一つ、悩みが残ったままだった。
『私って、性欲強いんだなあ』、と。
「……良かったのかい? あんなことして」
「出歯亀してる時点でなあ……。
っていうか、あそこで止めておかないと後悔する。
ユフィ、ああ見えてめちゃくちゃ頑固だから」
「……そうかい」
レイフォードが帰ってきていたと聞いてから、テオドールとローザの二人は、レイフォードの部屋の前で聞き耳を立てていた。
初めはあんなことになるなんて思っていなかったのだが、『これ以上はまずい』と判断したテオドールの手によって、あの二人の乳繰り合いを妨害することにしたのだ。
その判断は、極めて正しいはずなのだが、何とも肯定しにくかった。
「これは……全く勝ち目がなさそうだね、ラウラ」
昔から彼に執着していた旧き友人。
その実態はどうであれ、彼の隣という地位は、もう既に埋まっている。
「まだあの子が人じゃなければ……いや、無理か」
「何か言ったか?」
「いや、何でもないよ」
ぽつりと零した言葉は、誰の耳にも届かない。
遠く離れた地で、噂の張本人がくしゃみをするくらい。
これは、ただの独り言。
とある精霊が、独りごちただけ。
精霊というものは、そして、精霊に近しいものは、基本的に生殖行為への欲と、それに準ずる感情が希薄だ。
それは、長寿である故、子を成す必要がないという一点が問題であるのだが、ただ一つ、例外がある。
それは、『人』からの愛を受けること。
『人』との愛を育むこと。
それにより、精霊は子を成すことにも前向きになる。
何故なら、人の生涯は短いから。
人は生きられても百年だから。
彼との、彼女との愛を遺すために、精霊は子を成す。
後天的に精霊に近しくなったものだとしても、そこは変わらない。
親心を持つかは、また別の問題なのだが。
「……わたしは、無理だったからね。
彼女のことは、応援したかったのだけれど」
自室に戻ってから、ローザは一人、想いを馳せる。
数百年前、己が愛してしまった、とある『人』。
元は、ただの町娘。
出会った時は、特に何も思っていなかった。
けれど、月日が経つうちに、ローザは、彼女に心惹かれるようになっていった。
「……ああ、また、会いたいよ」
『生命は永遠なの!』と、きみは言った。
それを信じて、今もここに生きている。
しかし、偶に思ってしまうのだ。
きみが『永遠の生命』を持っていたならば、こんな想いはしなかったのだろう、と。
精霊の間には、一つ、有名な話がある。
『精霊と人の愛は、結果的に悲恋に終わる』という、何とも残酷な話だ。
寿命や、病気、あるいは戦。
どのような終わりかは問わないが、何であろうと、悲恋となる。
ローザの愛は、その通りだった。
テオドールの愛も、その通りだった。
恐らく、ラウラの愛も、その通りになるだろう。
そして、レイフォードの愛も。
「きみが、『きみ』である限り、いつかきっと、後悔するよ」
それは、先達からの助言。
愛すべき人を喪ったものとしての忠告だ。
今日の夜空に、月はない。