七節〈それは果てなき壁だった〉/1
慣れない正座で痺れた足。
手元には、この国の法律に関わる精霊術の扱いについて印刷された紙。
そして、『お前がやらかしたことの重大性を教えてやる』と作られた、小型箱庭世界の残骸。
「……今回はこれで許してやる。精霊石の生成と源素の補充、忘れんなよ」
「……承知しました」
普段おちゃらけたように見えるフローレンスだが、精霊術に対しては至って真面目である。
今回の件については、他人を害する危険性もあったため、反省していたとしても、レイフォードをこっぴどく叱る必要があったのだ。
体裁的に、という面もあるのだが。
「あれの代わりになるやつの生成って……百年ものだろ。作れるのか?」
「問題ないっす。今まで数個試してますが、品質的にも及第点どころか優良判定っすよ」
「……真面目に?」
「マジっす」
「……マジかあ」
足の痺れにもがくレイフォードを見ていると、それほど『怪物』のようには見えない。
しかし、あの時彼が放った精霊術は、間違いなく戦略兵器となる威力と規模を誇っていた。
あれの元は、恐らく、対軍用の攻撃術式だ。
普通、対軍用や戦略級ともなれば、数人掛かりで発動させる必要がある。
単純に、源素量が不足するからだ。
人は、一度に使用できる源素の上限が決まっている。
上限は源素量に比例して上昇するが、源素量と同様、いずれ頭打ちになる。
だからこそ、精霊術師にとって、源素量とは最重要の項目であるのだ。
その点において、目の前で芋虫のように転がり呻いている少年、レイフォードは規格外にもほどがある。
計測不能を叩き出した、無尽蔵の源素。
周囲の源素濃度を変えてしまうとしても、精霊術を扱う才は十全にある。
発想だって、術式の改変をいとも容易く行えるほど。
「……なるほど、お前が気に入るわけだ」
「でしょ? 先輩にはあげないっすよ」
「いらねーよ。俺には御しきれん」
いつものように、生意気な後輩をぶっきらぼうにかまっているマシューだが、その口角は若干、本当に若干上がっていた。
流石、『彼』の甥だ。『友』を救ってくれた子だ。
その有り余る才も、フローレンスの下であれば、滓も残らないほど活用できるだろう。
教師としてか、先輩としてか。
生徒の未来が安泰であることは、心底嬉しかった。
「ちゃんと指導してやれよ」
「こっちの台詞っす。先にあんたらが教えるんすよ?」
「俺に心配する要素はない。あるとしたらお前くらいだ」
「言うっすね。出張授業してあげますか?」
「遠慮しておく」
強がりっすね、とマシューの言葉を鼻で笑ったフローレンスは、未だに悶ているレイフォードに手を差し伸べた。
「ほら、さっさと行くぞ。日が暮れちまう」
「……はい、ありがとうございま──」
──〝火花〟。
彼女の口が、にやりと弧を描く。
音を言葉と認識する時間もなく、反射でそれを消し、レイフォードは飛び退いた。
「──何するんですか! 一歩間違えたら炎上沙汰ですよ?!」
「……へえ。使えんじゃん、《禁呪》」
一変した空気に、息を呑む。
『禁呪』。
それが、この技術の名なのか。
意識的に息を深くし、脈動する心臓を落ち着かせる。
何故、彼女が突然レイフォードを襲ったのか。
その意図は不明。
しかし、意味がない行動ではないことは理解出来た。
「……おいこら、バカ後輩。早速変なこと教えんじゃねえ」
「いやいや、自分で編み出してるんですって。
これから技術局で問い詰めて来ます。
つーことで、行くぞ」
状況に混乱したまま、先行するフローレンスの後をついていく。
背後では、マシューが頭を抱えていた。
「……本当、あいつは。
何でいつもこう、めちゃくちゃなんだ」
一人きりになった応接間で、茶碗を片付けながら、マシューは愚痴を漏らした。
マシューとフローレンスは、二十年来の付き合いである。
中央校の神秘科、同じ研究室の先輩後輩という関係を四年ほど続け、その後の進路は別れたが、関係はあの頃のままずっと続いていた。
フローレンスにとって、マシューとは二歳上の先輩であるはずなのだが、初めから態度は馴れ馴れしかった。
知り合いではないし、名前も噂も聞いたことがない。
だというのに、何故こいつはここまで馴れ馴れしいのだ。
貴族家に生まれたマシューには、それが疑問で仕方がなかった。
出会ってから数週間。
マシューは彼女の態度に怒り、叱りつけていたが、いつの間にか面倒臭くなってしまっていた。
何度言っても直さないし、寧ろ面白がる。
なら、もう何も言わないのが最善だろう、と。
はっきり言って、理解不能の後輩だった。
けれど、一つだけ。
彼女を心底理解出来ることがあった。
それは──『彼』を、ルーディウス・アーデルヴァイトという青年を、慕っていたことだ。
「もう、二十年か……」
ルーディウスを慕っていたのは、マシューたちだけではなかった。
彼の弟であるシルヴェスタと、シルヴェスタに想いを寄せていたクラウディア。
弟子のような立場であったイヴ。
貴族科でも、騎士科でも、神秘科でも。
勿論、他の学科でも。
彼を慕う人は、沢山いた。
そして、その中には、今は亡きヒューゴ・ノストフィッツも含まれていた。
彼との出会いの切っ掛けは、ルーディウスであった。
『精霊術が苦手らしいから、教えてやれ。お前、教えるの上手いじゃん』なんて言って、全く関わりのなかったヒューゴを引っ張ってきて。
『地域も爵位も違う相手に教えられるか!』という文句も、『マシューが一番頼りになるんだよ』と言われてしまえば、そこからもうとんとん拍子で。
けれど、文句を言っていた割に、教えるということは性に合っていた。
ヒューゴとも、同じ写真好きという共通点から、すぐに仲良く成れた。
結果的に、とても良い出会いとなったのだ。
それも、もう、何もかも懐かしいものであるのだが。
「……ルー先輩。甥っ子さんは、貴方によく似てますよ」
レイフォードという少年は、ルーディウスという男によく似ていた。
浮世離れしているところ、常識外の行動をすること。
裏表も、自己と他人の境界も曖昧なところ。
そして、心が痛くなるほど、優しいところ。
生まれ変わりのように似ていて、けれど、どことなく違う。
だからこそ、彼はもうこの世に居ないのだ、ということに胸を締め付けられる。
彼が居たときは、幸せだった。
皆笑顔で、どんな些細なことも嬉しかった。
なのに、彼は死んだ。
無残にも、首を落とされて。
それから、彼の周りの人々は、少なからず狂ってしまった。
シルヴェスタは、彼のことを忘れた。
クラウディアは、シルヴェスタに彼を忘れさせたことに責任を感じ、偶に一人で泣いていた。
イヴは、まだ余っている身体を使って、彼を蘇らせようとしていた。
フローレンスは、イヴに協力しようとした。
マシューは、そんな二人を止めるのに必死な振りをして、彼の死から目を逸らした。
ヒューゴは、すべてはこの世界が悪いのだと、塞ぎ込むようになった。
皆、自分の気持ちを整理するのに精一杯で、他人のことに目を配る余裕なんてなかった。
十年経っても、傷は癒えていなかった。
命日に、彼の妻であったキャロラインの自宅の裏に咲く桜の木の下で、彼がいつか飲んでみたいと言っていた酒を飲み交わして、別れるくらいでしか、彼を思い出そうとしなかった。
辛かったから、哀しかったから、思い出したくなかった。
幸せな記憶が、上書きされてしまいそうだったから。
そんな時だ。
彼の生まれ変わりのような、彼が生まれたのは。
見た目は、シルヴェスタとクラウディアを足して割ったよう。
ルーディウスには、ちっとも似ていない。
しかし、立ち振る舞いは、酷く似ていたのだ。
フローレンスから話だけを聞いていたマシューが、そう感じるほどに。
そして、運命の日が来る。
生来の生真面目さから、この国の歪さに狂ってしまったヒューゴ。
その身体を乗っ取ったという、過去のノストフィッツ子爵。
もう止まれなくなってしまった彼は、レイフォードの手によって止められた。
ルーディウスとよく似た少年に、彼は止められてしまったのだ。
一級精霊術師として、事件の概要を聞き、ノストフィッツ子爵邸に訪れ、事件の痕跡を探した時は、思わず膝から崩れ落ちてしまった。
ああ、どうして友の心の歪みに気付いてあげられなかったのか、と。
それと同時に、彼が居たら、こうはならなかったのだろうか、と。
嘆かずには、いられなかった。
事件は収束し、レイフォードの様態も安定し、世界は何事もなかったかのように回り始めた。
けれど、マシューはそうはいかなかった。
事情を知る関係者には、『もう割り切った』とは口では言いつつも、内心はずっとあの頃に囚われていたからだ。
帰りたい、あの日に。
あの幸せな日々に。
けれど、その願いは叶うことはなく。
残酷に、時間だけが過ぎていく。
そうして、今日。
また、マシュー・メルキストは『彼』に出会った。
いや、彼に、『彼』を見た。
見てしまった。
教育者として、許されないことであるのは分かっている。
大人として、許されないことであるのは分かっている。
それでも、マシューは反射的に、レイフォードにルーディウスの面影を感じてしまったのだ。
嫌だ、嫌だ。
それは、彼への冒涜だ。
ルーディウスは、『ルーディウス』でなければ行けないのだ。
レイフォードは、ルーディウスの代わりにはなり得ないのだ。
唯一誇れるものと言っていい理性に、そう言い聞かせる。
不安の波が、一気に押し寄せる感覚。
久しいその感覚に、一瞬目眩を覚えた。
「……どうですか。俺は、あの子を導けますか」
俺たちのように、ならないように。
彼から貰ったお守りとやらを握り締める。
返事が帰ってくることは、ない。
窓の外で、小鳥がさえずっていた。