六節〈馬鹿と天才は紙一重〉/1
人たるもの、生涯のうち幾度も間違えることはあると思う。
きちんとしている人でも、ふとした瞬間にとんでもない間違いを犯すことはあるのだ。
絶対は無いし、故意ではないのだから、責めるのもお門違い。
「……だから、ですね。僕は悪くないと思うんですよ」
「んなわけねえだろ。現実見ろ」
目の前で仁王立ちするフローレンスと、試験監督の教師に、レイフォードの詭弁は通用しなかった。
事件が起こったのは、二日目の実技試験の時だった。
一日目の筆記試験は特に何事もなく終了し、その日の夜も、前の晩とは違い早く就寝したこともあり、体調の面では絶好調にも近かった。
これなら試験も──と考えてしまうが、絶対はない。
それに、『神秘科と騎士科の実技試験は荒れる』という噂がある。
これは、それら二つの学科は精霊術と戦闘技術という、不確定かつ危険で派手な試験科目を扱うことが原因だ。
高等学校への入学試験申し込みは、各初等、中等学校を通して行われる場合と、完全に個人で行う場合の二通りが存在する。
当然、レイフォードたちは前者であり、同年代層は大抵同様に学校を通して申し込む。
しかしながら、毎年約二割、浪人か、成人してから学び直そうと入ってくる『大人』がいる。
枠が決まっている以上、席の奪い合いというのは熾烈になるものだ。
他の九科と違い、直接受験者と対面する要素の大きいこの二科において、成長期の年齢差は大きい。
例えば、十六歳と十二歳が争うとする。
そこに特殊な事情が無ければ、年上の方が勝つに決まっている。
その四歳の差には、積み上げてきた年数の違いがあるのだから。
だからこそ、油断はできない。
たとえ実力差があったとしても、最後まで戦い抜くのが戦場の心得だ。
足元を掬われるのが一番手痛い事を、二人は身をもって知っている。
入学が確約されている特別奨学生だとしても、試験に不真面目に取り組むのは、信念が許さなかった。
朝日が顔を出し始める中、他の宿泊客よりも早起きをしたレイフォードとテオドールは、早朝の公園にて『日課』を行っていた。
軽く捻りつつ振り抜かれた腕を躱すと、レイフォードはがら空きになった横腹に掌底打ちを放つ。
だが、それを予見していたのか、テオドールは振り抜いた腕を引き戻し、脇で彼の腕を挟み込んだ。
そのまま足払いを掛け、姿勢を崩したところを空かさず抑え込もうとする。
が、しかし、宙に上がった身体を捻って、レイフォードが放った蹴りが側頭部に降り掛かった。
それを防ぐために、テオドールは捕らえていた腕を離してしまう。
互いに距離を取った二人は、相手の出方を見計らった。
一進一退の攻防。
決定打は未だにないが、体力は半分ほど消費している。
体力面では、レイフォードはテオドールに劣っているため、早期に決着しなければいけない。
反対に、テオドールは戦闘が長引くほど有利になる。
攻めなければいけないレイフォード。
守り抜かねばいけないテオドール。
攻勢を仕掛けるのはどちらかなんて、明白だった。
昇る朝日を背にし、疾走する。
テオドールは、動かない。
ならば、動かなくてはいけない状況にしてやろう。
微動だにしない彼の顔面に、飛び蹴りを放つ────と同時に、鐘の音が聞こえた。
「よいしょっ……と」
「……普通に避ければいいのに」
「怪我されたら困るから」
飛び掛かったレイフォードの身体を片手で受け止め、地面に下ろすテオドール。
流石、先祖返りの半精霊と言ったところか。
強化の術式がなくとも、大人三人持ち上げられる筋力は、たった十二歳の子ども一人軽く受け止められるのだ。
先程鳴ったのは朝七時を告げる鐘の音。
同時に、予め取り決めていた日課終了の合図だった。
レイフォードとテオドールは、共に支持をするイヴによって、二つの日課を与えられている。
一つは、毎日十分ほどの走り込み。
もう一つは、先程のような組手だ。
どちらも精霊術の使用は禁止されているため、純粋な肉体の質のみが問われる。
騎士であれ精霊術師であれ、誰もが精霊術を扱うこの時代だが、基礎がなっていなければ、どれだけ強化したところで意味はない。
元手が無ければ資産が増やせないように、元の筋力・体力が無ければ強化術式の効果もないのである。
「──〝水。〟」
数回ほど源素を『練り』、掌の上に一口大の水の玉を作り出した。
「はい、口開けて」
テオドールの口に向けて、その水の玉を放り込むよう操作する。
彼が口を閉じた瞬間に操作権を放棄すれば、弾けたような感覚を最後に、何も繋がりが無くなってしまった。
「それ、今日は使わないんだよね」
「うん。
……何も言われたことないけど、ちょっときな臭いから」
同じように自分用の水の玉を作り、口に放り込んで、レイフォードはそう言った。
今、己がやったことは、恐らく、本来は禁止──いや、秘匿されているもののはずだ。
そうでなければ、こんな便利な方法、使われていないわけがないからである。
レイフォードは、同年代の者より、精霊術の方面では優れている自覚がある。
しかしながら、世の中には先人がたくさんいるのだ。
自分より、遥かに優秀な先人が。
そんな彼らが、誰一人として『これ』を見つけられなかった、というのは考えにくい。
レイフォードのちょっとした思い付きで出来るほど簡単な方法を、見つけられないわけがないないのだ。
「……そろそろ帰ろうか。朝食の時間には遅れたくないし」
休憩の終わりを告げると、腰掛けていた長椅子から二人は立ち上がった。
少し乱れた服を整え、清潔の術式を掛け、宿に戻っていく。
帰る頃には、ユフィリアとローザも起きている頃だろう。
流石に、女子の部屋に行って起こすのは難易度が高い。
幼馴染かつ婚約者であるユフィリアでさえ気後れするのだから、ローザは尚更だ。
レイフォードだって、一介の少年。
恥ずべき心はある。
昨日の出来事は、例外も例外なのである。
少しだけ早足に、まだ仄暗い街道を歩いていく。
隣を歩くテオドールが、感嘆を込めながら話した。
「いつも思うけど、その身体でよく蹴れるよね。
歩行補正とか、何もしてないでしょ?」
「視界がある限りは、基本どうとでもなるよ。
……逆に言えば、見えなくなったら終わりなんだけど」
公園を出たときから付け直した眼鏡にそっと触れて、レイフォードは呟く。
レイフォードは、足に障害を抱えている。
本来ならば、一生杖や車椅子が必要となるほどの後遺症なのだが、レイフォード本人の特異な適応能力により、何故か問題なく歩けるまで回復したのだった。
だが、それが出来るのは比較対象となる周囲の景色を観ることができ、かつ足場が安定していることが条件となる。
接地の感触が薄いため、自分が立っているのか、座っているのか、それとも歩いているのかが曖昧だからだ。
周りと比べてやっと、というところだから、判断基準が無くなれば、立つことでさえ難しくなる。
そんな事情があったからこそ、この眼鏡を作ったのだ。
つまり、レイフォードの最大の弱点は、そこ。
視界を封じられてしまえば、レイフォードは為す術も無く敗北してしまうだろう。
神秘科は入学試験自体に戦闘科目は無いが、必修の中にはあるという。
それは、実地研修時の不測の事態──魔物との遭遇など──に備えてのものであり、それなりに激しいのだとか。
騎士でなくとも、敵と相対する機会なんてざらにある。
レイフォードたちの出身地域を踏まえれば、その自覚は更に高まるだろう。
『動かない精霊術師なんて、ただの的だ』とは、慕っている先生の教えである。
敵は、詠唱を待ってくれるわけではない。
ただ棒立ちで唱えるだけでは、即座に喉を掻き斬られて終わる。
日課は、テオドールの戦闘訓練だけでなく、レイフォードの戦闘訓練も兼ねていた。
いざというとき、己の身を守るための。
「……無理しちゃ駄目だよ」
「しない、しない。
寧ろ、テオの方が大変でしょ?
そっちこそ、無茶して大怪我しないように」
神秘科はただ見せるだけだけど、騎士科は実戦形式なんだから。
そう付け加え、彼に向いて笑う。
心の奥底の不安を、更に押し込めるように。
はにかんだのは、何もかも分かっていたけれども、触れようとはしない。
そんな、彼自身の優しさなのだろう。
それに甘えてしまっていること自分が、堪らないほど情けなかった。
ふと、テオドールが立ち止まった。
レイフォードが不思議そうに見つめると、お、という声とともに、彼は遠くに存在する人影に向かって手を振る。
方角は、目的地の宿。
動き方と色彩、状況からして、その人影はユフィリアなのだろうと見当がついた。
よくこんなところから見えるものだ。
テオドールに感心しながら、レイフォードも彼女に手を振り返す。
よくよく考えれば、この距離で見えるユフィリアも大抵おかしいのだが。
なんて考えながら。
互いの距離が縮まり、声が聞こえるようになった頃。
ユフィリアは二人に労いの言葉を掛ける。
「おつかれ、そろそろご飯の時間だってよ。
汚れは……ないみたいだね」
「しっかり清潔術式掛けてるから。
一応、もう一回しておこうか?」
テオドールが頷いたので、レイフォードはもう一度術式を発動させる。
町中では一部の術式の使用が禁じられているが、日常生活で使うようなものは、当たり前だが禁止されていない。
『清潔』や『洗浄』などは、一般人でもよく使う術式とされている。
「そういえば、ローザは?」
「ちゃんと起きてきたよ。
すごい眠そうだったけど」
ユフィリアは、ローザの部屋から一つ空けた隣の部屋を使っていた。
『もし起きられなかったときは起こす』という約束をしていたらしい彼女は、約束の時間にローザの部屋の訪問したらしい。
幸い、ローザは問題なく起きられてはいたのだが、半分寝惚けながら準備をしており、これでは埒が明かないと手伝ったのだ。
後に聞くと、寝起きがすこぶる悪いらしく、日の出が遅い冬は更に悪くなってしまうのだとか。
これは、元の『ローザ』の性質で、彼女には改善できないらしい。
昨晩の出来事のせいでもあるだろうから、レイフォードは少し居心地が悪かった。
しかし、時間を引き伸ばしたのは技術局の人々であるし、自分が悪いのは精々三割くらいだ、と開き直る。
それでも、もう一度謝る必要はあるのだが。
「でも、びっくりしたなあ。
ローザって大人びてるというか、しっかりしてるから、朝からしゃきっとしてるものだと思ってたもん。」
「……まあ、そういうこともあるよ。
みんな『人』なんだし」
レイフォードたちは三人揃って、宿屋の中に戻る。
一見、穏やかそうにも見えるのだが、ある一人の内心は、蛇に睨まれた蛙のようにびくついていた。
『ユフィ、勘付いてないよね?』と。
ユフィリア・レンティフルーレという少女は、とてつもなく勘が鋭い。
何か隠し事をすれば、些細な違和感を嗅ぎ付けて追求してくる。
内容までばれることは少ないので、そこは安心なのだが──。
「どうしたの、レイ?」
「……いや、えっと。朝食は何かなって思ってただけ」
「本当に?」
「……本当だよ」
こういうことがあるから、油断ならないのだ。
突然振り返ったユフィリアが、真っ直ぐ目を見て質問を投げ掛けてくることに動揺して、レイフォードはぎこちなく答えた。
ばれてはいない、ばれてはいない。
飛び出そうなほどうるさい心臓を宥めるように、自分に言い聞かせる。
「ふうん……そう」
含みのある返しをするユフィリアから目を逸らし、レイフォードは宿屋に併設された食堂に向けて足を運ぶ。
四人掛けの卓のうちの一つには、既にローザが座っていた。
「やあ、おはよう。
昨日の夕飯とは別に、朝用の注文表があるから、これを使いたまえ」
「ありがとう。
……よく眠れた?」
「おかげさまで。
ユフィリアくんが手伝ってくれなければ、少し危なかったかもしれないけど」
嫌味か。
いや、こちらのせいなのだけれど。
注文表を受け取り、それぞれが食べたい朝食を探していく。
現在時刻およそ午前七時半。
試験開始時刻まで、あと一時間半と言ったところか。
ただ、レイフォードたちは皆、最後の方の組である。
そのため、実質的には四時間半後、つまり十二時からの試験になる。
交流時間を考えれば、遅くとも十時半には着きたいものだ。
やがて、それぞれが頼んだ料理が運ばれてきた。
昨日の夕飯と同じく絶品で、身体の奥底から元気が出てくる。
そうして、英気を養っているうちに、漠然とした不安感は無くなっていた。