五節/5
「……きみは、わたしを赦せるのかい?
そう願われたとはいえ、わたしは『ローザ』の人生を奪った。
彼女が『ローザ』自身として歩めたはずの人生は、わたしのせいで失くなってしまった。
人の価値観では、到底赦せないものなのだろう」
──それでも、きみは。わたしを赦すと言うのかい?
それは、罪の懺悔。
人ならざる精霊が、人に寄り添った結果。
ローザという精霊は、ローザという人を救った。
しかし、精霊は彼女の人生を奪った。
それがどうしようもなかったことだとしても、それはどうしようもないほどに真実なのである。
ローザは死ななかった。
けれど、彼女が『彼女』として生きる道は、途絶えてしまった。
受け取り方に個人差はあるだろうが、大抵の者はそれを『死』とそれほど変わらないように感じるだろう。
精霊に、『死』という概念はない。
何故なら、あれらは世界そのもの。
強いて言うなら、世界の滅亡があれらにとっての『死』となる。
長命であるからこそ、他との関わりもなく、ある意味『一つ』である精霊たちにとって、人の規則や感情は、曖昧で複雑すぎる。
どうしてそんな規則が存在するのか、どうしてそう考えるのか。
そもそも、どうして死ぬのかすら分からない。
規格の違う物差しで測ることは出来ないように、精霊と人は不理解の関係なのだ。
しかし、ローザは違う。
ローザは『赦し』を願った。
与えられるはずの『罰』を求めた。
人と長く寄り添った故に、人を知ってしまったが故に。
精霊は、精霊にはありえないはずの『心』を持ってしまった。
『ローザ』を救った日から、自責の念が。
簒奪者と罵る心の叫びが、消えることはない。
それでも、精霊はその生を捨てることはない。
彼女を救ったことを、後悔することはない。
『ローザ』自身も、救われたことを恨むことはない。
掴んだ手を振り払っていないことが。
ローザがローザとして生きていることこそが、その証明だった。
だからこそ、その問いをレイフォードに行うのは、鏡に問い掛けるのと同じなのだ。
「……赦すとか、赦さないとか、そういうことじゃない。
それは、部外者が決めることじゃない。
きみの中にいる、『ローザ』が決めることだ。
だって、彼女はまだ生きている。
遺された者たちの記憶から寄せ集める必要も、遺されたものから作り出す必要もない。
生きているなら、何だって出来るから。
だから、貴方は彼女を生かしたんだろう?
かつて永遠の命を求めた、貴方だから」
精霊は、決して同じ名を持たない。
精霊の名は自らを表すものであり、世界から決められた唯一無二のものだ。
もし、精霊間で名が重複してしまえば、自己同一性の破壊に繋がるだろう。
そこで気掛かりになるのは、数年前に見たとある劇のことだ。
あの劇には二体、精霊が登場する。
そのうち一体の名は、『ローザ』。
丁度目の前にいるあれと同じ名である。
『創作だから、関係ないのではないか』。
レイフォードも始めは、そう考えた。
しかし、あの作品は、元となったあの童話は。
遡れば、口伝の子守歌を元にしたものなのだ。
今はもう継承されておらず、残ったのはあの童話のみ。
原因は、それを知る者が継承する前に、数百年前の厄災により命を落としたからだとされている。
もう失伝した子守歌の内容は知り得ない。
しかし、そこから派生した童話は残っている。
そして、レイフォードには、現在は改稿されてしまっているその童話の、第一稿を見る機会があった。
レイフォードの特異的な記憶力は瞬間的なものに限定される。
時間が経っていることから、すべてを正確に思い出すことは難しい。
だが、それでも、確信を持って『花の名を持つ精霊、ローザ』という一文があったとは言える。
同じ名を持つ精霊は存在しない。
子守歌と童話の主題は、それほどずれていない。
そして、この国の性質上、精霊を騙ることはありえない。
あれらは隣人であり、敬意を払うべき友だ。
だからこそ、彼女が何者であるのかは、彼女が精霊だという事実を踏まえれば辿り着ける。
まあ、レイフォードであるから出来ることでもあるのだけれど。
「……お見通し、か。流石だね」
「褒められるものじゃないよ。
人として生きるには、余計なものだ」
「確かに、大変だろうね。
そんなものを持ってなお、人として生きようとしているのなら」
どこまで知っているのだろう、彼女は。
そう問いたくなるも、藪蛇のような気もしてレイフォードは口を噤む。
今の己が聞いたとして、それを受け止める準備も出来ていない。
薄々分かっていたとしても、事実を突き付けられるのは堪えるものだ。
「……ふむ、なるほど。
きみはまだ、夢を見ていたいようだ。
でも、いつまでも夢を見続けられないことは理解している。
ならば、わたしが言うことは何もない」
「……お気遣い、どうもありがとう」
「なに、これでも数百年は生きているのでね。
まあ、わたしのくだらない悩みに付き合わせたお礼も兼ねてかな」
「くだらない自覚はあるんだ」
「そりれはそうさ。
能天気なわたしらしくない、くだらない悩みだよ」
からっと笑い飛ばすローザに少しだけ呆れながら、レイフォードは今度こそ扉を開ける。
「おやすみ。
明日はちゃんと起きてね、起こしには来ないから」
「おっと手厳しい。
おまけもしっかりしてほしいものだよ」
「耳元で爆音鳴らしてもいいなら、やってあげよう」
「ご遠慮しよう。では、また明日」
軽く手を振る彼女に、レイフォードは手を振り返した。
円満解決とは言えないが、彼女を殺傷する事態にはならなかったことに安心している。
覚悟していても、やはり、見知った顔の者を殺めるというのは気分が悪い。
彼女のためにも、基本避けたいものだ。
ローザの部屋からそれほど離れていない自分の部屋の扉を開ける。
ふわりと薫るのは紅茶の匂い。
嗅ぎ慣れたそれは、本来ここにはないものだ。
「……何してるの、ラウラ」
「おかえりなさいませ、レイフォード様」
整ったお辞儀をする、長身の女性。
どこからどう見ても人だが、彼女はローザと同じく精霊だ。
それも、千年以上生きた《特位》の。
「話し疲れたでしょう。
簡単なお菓子と、眠りやすいお紅茶を用意させていただきました。
どうぞ、お召し上がりください」
「もう真夜中なんだけど?」
「貴方様のことですから、このまま、ただ眠ろうとしても眠れませんよ。
身体の緊張を解した方がよろしいかと」
ぐうの音も出ない正論に、レイフォードは大人しく席に付いた。
契約している精霊だとしても、ここまで見透かしてくるものなのだろうか。
まだ三ヶ月にも満たない関係の中で、度々このように先回りされたことを思い出しながら、紅茶を啜る。
「ありがとう、とても美味しいよ」
「光栄でございます。
……よろしければ、お悩みのご相談も受け付けますが」
「それはいい。
相談したところで解決するものでもないし……これは、僕自身が解決しないといけない問題だから」
一難去ってまた一難。
治療不可能な難病が治ったと思えば、それより難しいものを患ってしまった。
治療薬は無く、治療法も無く。
更に言えば、『人』の理解が及ぶ範疇でもない。
誰かの手を借りることも難しいだろう。
「……ままならないね。
望んでこうなったわけじゃないのに」
右目に触れる。
アーデルヴァイト家の継承能力である《境界視》。
シルヴェスタも、アニスフィアも持ち得るこの力。
だが、彼らと違って、レイフォードはより深いところまで視えてしまう。
本来ならば、境界──己と他を分ける線だけを視る力のはずなのに、レイフォードは『色』や『純度』まで視えてしまうのだ。
大人数を裸眼で見て意識が飛び掛けるのはそういう理由があったからだ。
始めはただ慣れていないからだと思っていたが、偶に彼らとの話の中で齟齬が起きることがあり、最近になってようやく気が付いた。
しかし、シルヴェスタたちはこれを知らない。
彼らは今も、レイフォードも自分たちと同じ力を持っていると信じている。
自分から持ち掛けない限り、彼らが気付くことはないだろう。
「申し訳ございません。私の力では及ばず……」
「気にしないで。多分、誰だって無理だよ。
……どうやら僕は、色々望まれているみたいだから」
明確に告げられたわけではない。
けれど、時折、自分の意志ではない、何者かの意志が己を突き動かすときがある。
それが『役目』なのだというように。
「そうですか……しかし、今日のことは叱らないといけませんね」
「へ?」
しおしおと落ち込んでいた姿から一変。
微かに怒気が混じった鬼が顕現する。
「レイフォード様」
「……はい」
「困ったときは、いつでも呼んでくださいと申し上げましたね?」
「……いや、あの一瞬でそんなことする余裕が無かったと言いますか」
「彼らに絡まれた時点で呼べば良かったのでは?」
「……えっと、その。忘れてました、ごめんなさい」
失念していた。
あの二人の勢いに気を取られて、ラウラを呼ぶという選択肢が全く頭になかった。
契約精霊であるからには、ラウラはいつでも、レイフォードの呼び掛けに応じて召喚することができる。
だからこそ、普段はアーデルヴァイトの屋敷に居てもよいのだ。
正直なところ、ラウラは目立つ。
それはもう、目立つ。
かなりめりはりの付いた身体に、かなり大きな背丈。
男女問わず視線を集めるのは、クロッサスの街で証明済みだ。
だが、今回のようなことがあるならば、彼女は無理にでも護衛をしたいと言うだろう。
彼女は、レイフォードの騎士を自称しているのだから。
レイフォードとしては、それは避けたいところだ。
あまり注目を集めるのは得意な方ではないし、何より、ユフィリアの視線が怖い。
『レイはああいう女の人が好きなの?』と目で訴えてくるのである。
レイフォードの本心はユフィリア一択なのだが、女性として、己の婚約者の隣に女が居るのは気に食わないに決まっている。
それも、ユフィリアと仲の良くないラウラなら尚更だ。
「正直に謝られましたね、よろしい」
「……許してくれるの?」
「許さない方がよろしいのでしょうか?」
「すみません、許してください」
「承知いたしました。しかし、次はありませんよ。
……お分かりですね?」
大きく、何度も頷く。
彼女の言葉の裏には、『お仕置きを覚悟しろ』という意味が込められている。
何をされるかは不明だが、碌なことにはならないだろう。
受肉させるときだって、半ば無理矢理襲われたのだ。
それ以上を覚悟しなければいけない。
「……お説教はここまでです。私は屋敷の方に戻ります」
「分かった。ありがとう、ラウラ」
「礼には及びませんよ。
おやすみなさいませ、レイフォード様」
一礼をした彼女は、微風と共に姿を消した。
机の上にあったはずの食器類は、跡形もなくなっている。
一緒に持って帰ったのだろう。
静寂が妙に気に触る。
頭を振って掻き消して、寝る準備を整えた後、部屋の照明を消した。
真っ暗な部屋には、月の光は差し込まない。
今日は新月のはずだから当たり前だ。
ゆっくり寝台に潜り込み、思い出すのは今日のこと。
ティムネフスの公爵邸を出発して、軟派な二人と出会って、ローザと再開し和解して。
明日のことを考える余地もないほど、一日が濃かった。
「……王都って、変な人しかいないのかな」
いや、流石にないだろう。
そんなことを呟きながら、レイフォードは眠りに落ちる。
明日は国立中央総合高等学校の入学試験。
入学が確約されていようと、手を抜くことはない。
全力で挑む所存だ。
例え、どんな結果になろうとも。