五節〈不朽不滅の花の名は〉/1
日も暮れた頃、王都観光を終えたレイフォードたちは、三日ほどお世話になる予定の宿、『美咲亭』へと戻ってきていた。
美咲亭は王都の外れの方にある、家族経営の小さな宿屋だ。
料理人であった主人が引退と共に始めたこともあり、併設された食堂が大人気である。
泊まらずに食堂だけを利用する客もいるほどだ。
中心部から離れているので、周囲は静か。
寝静まった夜は、自分一人だけ存在しているように感じるだろう。
風呂上がりで肌から湯気が立ち上るのを見つつ、ローザは充てがわれた自室に入る。
すると、肌寒い空気が少しだけ緩和された。
湯冷めしてしまうほどではないが、気温の低い冬場は、どうしても若干寒さを感じてしまう。
しかし、室温調整の術具は、平民にとっては割高である。
高級宿屋なら兎も角、個人経営の宿屋にそんな大層なことを求めるのはお門違いだ。
そんな雰囲気は無いとはいえ、一応貴族家出身の彼らは、この環境に耐えれているのだろうか。
テオドールは使用人の養子であるらしいが、そこは無視する。
貴族が一般の宿屋に泊まることなんて殆ど無い。
基本は御用達の高級宿屋だ。
そもそも、貴族家出身の子息子女が準成人にもなっていないのに、子どもだけの旅をしているというのも少しおかしい。
入学試験があるからと言っても、貴族家ならば送迎の馬車と使用人は引き連れてくるものなのだ。
それには、安全のためと、貴族らしい振る舞いをするためという理由があるのだが、彼らにはそれが一切見受けられなかった。
服装も一般市民そのものであったし、食事だって屋台や食堂で済ませている。
貴族特有の振る舞いも全く無く、強いて言えば育ちの良さそうな雰囲気だけがあるというだけ。
彼らの事情を知らなければ、誰だって平民だと思うだろう。
現に、宿の予約は名だけで取っているようで、従業員たちは彼らが貴族だということを知らないようだったし、周囲の客も気付いていないようだった。
白髪と異色虹彩が揃っていれば勘付きそうなものだが、良くも悪くも平和ぼけした今の民では気付けないらしい。
いや、わたしも『わたし』でなければ気付かなかったかもしれないのだが。
『記憶』の中の幼い彼らと、今現在の彼らを照らし合わせる。
見た目は順当に成長した姿をしていた。
内面の方は、想像よりずっと逞しい。
特に、あの二人は目覚ましい進化を遂げている。
やはり、彼と共に過ごして鍛えられたからだろうか。
今日だけでも、かなりの厄介体質であることが理解できたあの少年。
伊達に七年も共に過ごしていたわけではない。
思わず、くすりと笑いが溢れる。
ああ、やはり人は面白い。
七年ぽっちでここまで進化してくれる。
不変たる我々にはありえないことだ。
上がる口角を手で覆い、高笑いしそうになるのを必死で抑える。
防音術式も掛けていないのに騒いでしまえば、何事かと従業員がやってきてしまう。
今は、あくまで一般人でなければいけないのだから、余計な動きは出来ないのだ。
しかも、隣の部屋には件の少女が泊まっている。
空き部屋の関係上、二人の少年とは部屋が離れてしまっていた。
もし、騒ぎを起こせば──あの二人がどんな表情をするのか、手に取るように想像できる。
好奇心がないわけではないが、流石に一線を超えている。
これから学友として振る舞う必要がある以上、無意味な諍いは避けたかった。
湧き上がる妄想の数々を両手一杯に抱えながら、明日の試験に備えて床に就こうとする。
その時だった。
「すみません、ローザさん。少しお時間よろしいでしょうか?」
部屋の扉が叩かれ、外から年若い少女の声が聞こえた。
美咲亭の主人の孫であり、この宿屋で手伝いをしている、ローザらと同年代の少女の声だ。
「はい。今、行きますよ」
寝台に座っていたローザは、何の警戒心もなく扉を開ける。
勘が鈍っていたのだ。
王都に滞在し始め、早一週間。
周りに野生動物もいなければ、魔物もいない。
周囲を警戒する必要なんて、殆どなかった。
過酷な北の果てから来た影響もあるのだろう。
ここでの生活は、『昔』を思い出すほど穏やかで、そして楽しかった。
だから、本来あるはずの刃は仕舞われてしまったのだ。
年季の入った扉が軋みを上げて開かれる。
冷たい外の空気が、ローザの部屋に入り込む。
扉の先にいるはずの少女は、どこにも居ない。
居たのは──能面のように表情が抜け落ちた、見覚えのある少年だった。
反射的に飛び退き、一瞬止まった思考を全速力で回転させる。
何故きみがそこに居る。
先程の声はいったい何だったのだ。
聞き間違いではない。
確かにあの声は少女の声だった。
声真似というわけでもないだろう。
だが、少女の姿は見えない。
隠れているようにも見えなかった。
つまりは、あの少年が何らかの方法で少女の声を騙っていたということ。
では、いったい何のために。
飛び退いた姿勢から、戦闘態勢に移り変わろうとする。
「……おいおい。どういうことかい、レイフォードくん?」
そこで、異変に気付いた。
指先一つ動かないのだ。
どれだけ力を込めても、まるで凍りついてしまったかのように身体は停止し続ける。
動くのは、首から上だけだった。
二重の意味を込めた問い。
どう考えても、原因は彼だ。
白金色の髪を揺らし、少年はローザに語り掛ける。
「……無駄話は無しだ。単刀直入に聞かせてもらう」
「待ってくれ、先に説明をしてくれないか。
何分突然のことでね、理解が追い付いていないんだよ。
この状況じゃ、話せることも話せないな」
昼とは全く違う雰囲気のレイフォードは、鋭い視線でローザを貫くも、一息を吐いた。
「……疑問点を言ってくれ、それに答えよう」
「ご協力、感謝するよ」
そうして、ローザは一つ一つ混乱した情報を解きほぐしていく。
「時系列順に行こう。
まずは、きみの声の話だ。
どうやってあの子の声を出した?」
「音声模倣の術式だ。
昼の間に情報を得ただけで、特に彼女に頼んだわけじゃない」
「……その割には、精霊の気配が無いようだけど」
レイフォードは、返答しない。
どうやら、それについて答えるつもりはないようだ。
ローザの脳内では、ある程度の推測は付いているのだが。
「じゃあ次だ。
どうしてわたしの身体は動かない?」
「拘束の術式を使っている。
暴れても解けはしない。抵抗は無駄だ」
「……解いてもらうことは?」
「素直に話してくれるなら、その後にでも」
なるほど、用事が終わるまで解くつもりはないと。
ローザは嫌な予感が当たっている気がしてならなかった。
恐らく、彼が発動、または発動を待機させている術式は一つや二つじゃない。
攻撃性がないものも含めて、少なくとも十はあるだろう。
反撃のための詠唱でもしようものなら、即座に制圧させられる。
別の方法での神秘の行使も、彼と己の源素量の差からして難しいと思った方がいい。
万が一発動出来たとしても、その後起きるであろう戦闘に勝てる気がしなかった。
援軍に期待も出来ないだろうから、抵抗は本当に無駄なのだ。
ローザはレイフォードに質問する時に、疑問に思われない程度に声を張り上げていた。
通常ならば、隣室でも聞こえるほどの音量だ。
しかし、誰かが来るどころか、身動きする音も聞こえない。
これは、消音系の術式がこの部屋の中に掛けられていると考えられる。
つまり、ローザは始めから殆ど詰んだ状態だったのだ。
深呼吸をすれば、冷たい空気が肺に入り込む。
この身体でなければ、いくらでも手は打てるというのに。
「……最後の質問だ。
きみは、何のためにこんなことを?」
「……もうわかっているだろう。その上で、言わせてもらう」
その言葉に、ローザは内心ほくそ笑んだ。
そうさ、『わたし』はわかっている。
何故きみが『わたし』を襲ったのか。
何故こうも『わたし』を警戒するのか。
その、理由を。
「──貴方は、何者だ」
蒼空の瞳は、それを射抜いた