四節/3
「……クソ! 何なんだよ、アイツら!」
男は感情任せにごみ箱を蹴り飛ばす。
店の裏口にあったそれは、蹴り飛ばされた衝撃で蓋が外れ、中身が周囲に撒き散った。
異臭を放つ生ごみ。
どうやら、ここの店は飲食関係であるようだ。
「……面倒臭え、蹴らなきゃよかった」
頭を掻いて、男はごみ箱の近くにあったごみ用のはさみを持った。
散らばったごみを一つ一つを拾い、立て直したごみ箱に入れていく。
幸い、箱本体は壊れていないようだった。
全てのごみを回収し、箱を元通りの位置に戻してから男はその場を立ち去ろうとする。
が、その前に一応周囲を確認した。
今の光景を見られていたら、厄介なことになるだろう考えたからだ。
飲食店の店員に見られていれば、業務妨害だと連絡され。
市民でも、不良が迷惑行為をしていると衛兵に告げる者がいるはずだ。
信用される身分でもないし、己は衛兵に何度か世話になっている。
顔見知りでも、彼らには仕事があるのだ。
治安維持の職務の前では、男の口利きなど意味はなかった。
恐る恐る、背後に振り返った。
建物の隙間から、光が差し込まれる。
暗闇に居る男は眩しくて、思わず目を細めてしまう。
ぼやける視界で見えたのは、己に何の興味もない健全で善良な市民ら。
男の姿を見ているものは、誰もいかった。
杞憂だったかと溜息を零して、更に奥へと進んでいく。
──かと、思われたのだが。
「へいへい、ジークくんや。こんなとこで何やってんの!」
「……どっから湧いて来やがった」
「後ろから!」
「……おまえ、もしかしてずっと付いてきてたな?」
「当ったりい! いやあ、全然気付かないからびっくりしちゃった!」
突然現れた、この騒がしい男──否、女の名はヒルダ。
同じ風俗店で何故か男娼として働く、ジークの同僚である。
「何の用だ。おれは疲れてんだよ、さっさとしろ」
「冷たあ、もっと構ってよお!」
「嫌だと言ってるだろうが」
べったり抱き着こうとするヒルダの頭を抑え、振り払う。
どこから見ても男のような格好をし、客からは『王子様』と呼ばれるヒルダ。
しかし、こんな光景を見れば、彼女らもその認識が間違いであると気付くだろう。
あれほど気障な台詞を吐いておきながら、本性はこれほどおちゃらけているのだ。
幻滅するに違いない。
問題は、それを知る手段が一つもないということだが。
「ぬう、いけず。そんなに振られたこと根に持ってんの?」
「……は? んなわけ無いだろ、寝言は寝て言え」
「嘘だあ。目線反らしたし、声揺れてるじゃん!」
「きっしょ、近付くな。帰れ」
またもや抱きつこうとしてくる彼女に、強めの蹴りを入れる。
ジーク自身の脚の長さと遠心力を活かした、渾身の蹴りだ。
だが、ヒルダは微動だにしない。
子犬にじゃれつかれ、仕方ないなとあやしているような顔だった。
それに、心底腹が立つ。
「いやあ、面白かったなあ!
あそこまで振られると、こっちまで清々しくなるよ!
でも、女の子に手を出すのは駄目だぜ?
どれだけ苛ついても、淑女として扱わなきゃ!
な、お子様くん?」
「だから、近付くな。んなもん分かってるわ」
今度は肩を組んできたヒルダ。
彼女は縮めた距離そのままに、ジークの耳元で囁く。
「……なあ、わかってるならさ。もう止めなよ、そんなこと。
向いてないんだよ、楽しくてやってるわけじゃないんだろ?」
「……うるせえ、何やってもおれの勝手だろ。口出すな」
「お前を思って言ってんの。そのままじゃ、もっと身体壊すぞ」
心臓がどくりと痛んだ。
自分だって、止めたい。
嘘を吐き続けて、自分を偽り続けて。
それが、途轍もないほど嫌で。
けれど、止められない。
これを止めてしまえば最後、己は何者でも無くなってしまうから。
この世界に生きられなくなってしまうから。
「……今日はここまでにしよう、これ以上続けると危なそうだ。
だけど、忘れるなよ。
お前がこの世界で生きている限り、お前は『ジーク』という仮面を被らなきゃいけない。
お客様に夢を見せなければいけない。
夢を見せる者としての『ジーク』と、本当のお前は混ぜちゃいけないんだ。
分かるな?」
「……ああ、勿論だ」
ジークは血が滲んでしまいそうなほど強く、拳を握り締めた。
その様子を見たヒルダは呆れたように微笑み、そして手を打ち鳴らす。
びくりと肩が跳ねた彼を面白がりながら、背を押して光の方へ舞い戻らせる。
「よし! じゃあ、行こうか!」
「……は? どこに?」
未だ状況が理解できていないジークを引き摺って、向かうは屋台連なる大広場。
人混みは先と変わらない密度である。
にやにやと上がった口角が下りないヒルダ。
困惑し続けるジーク。
大きく息を吸って、彼が聞き間違えることがないよう、はっきりと言う。
「──さあ、再挑戦といこう!
可愛い女の子とお茶しようじゃないか!」