三節/4
闘争の月二十九日、早朝。
澄んだ空気と、未だ明けぬ夜空の下。
レイフォードたちは出立の準備を整え、玄関前に揃っていた。
「……もう、行ってしまうのか」
「試験がありますので。
日程も、それほど余裕があるわけではありませんし」
別れを惜しみ、手を握るキャロライン。
背後には何人かの使用人が控え、見守っていた。
「……レイフォード」
静かに名前を呼び、キャロラインはレイフォードに目線を合わせる。
もう、こんなに大きくなったのだな。
改めて、そう認識する。
己の腰ほどもなかった背丈は、肩ほどにまで迫り。
針のように細く、硝子のように繊細だった身体は、細身だが少年らしさを感じる骨張った身体になり。
絶望に押し潰されていた意志は、星のように輝いていて。
ずっと見ていたはずなのに、何だか成長を見逃してしまっていたような気がした。
『男子三日会わざれば刮目してみよ』というのは、こういうことなのだろうか。
彼は今から、階段を一つ登る。
いくつもある階段のうちの一つを。
まだ、先は遠い。
まだ、子ども。
だが、いずれは大人になる。
背が高くなって、身体もしっかりして、目に光が灯って。
あの時から止まったままのルーディウスを飛び越えて、彼は大人になっていく。
己の時間が、彼の死からずっと止まっていたとは言わない。
だって、道を歩んで来れたのだから。
前に進んできたのだから。
けれど、それでも。
時々立ち止まってしまうもので。
彼がいないことを嘆くときはあるわけで。
どれだけ強く気高くあろうとしても。
どれだけ仮面を被れても。
共に歩んでいけないことが、死んでしまいそうなほど苦しく哀しいのだ。
そんな中現れた、レイフォードという少年。
亡き想い人によく似ていて、けれど似ていない。
ルーディウスと彼を重ねてしまったことは事実であり、否定しようのない真実だ。
だが、それがレイフォードという一個人を見ない理由にはならない。
『似ている』なんて、ただのきっかけにしか過ぎないのだ。
キャロラインは、レイフォードのことを好んでいる。
ルーディウスに似ているからではなく、彼自身を知り、好んでいる。
これまで過ごした日々が、その裏付けだ。
共に話し、共に食らい、共に生きる。
ルーディウスではなく、レイフォードという少年と。
歪であったキャロラインとレイフォードの関係。
それは今でも変わらない。
複雑怪奇で、けれど単純で。
そんな矛盾の関係が、一番心地良かった。
だから、これからも変わらずに続けよう。
共に生き続けよう。
ずれめしまった時計の針。
それを直すは機械人形。
螺子を外して、歯車を嵌め直して。
歪んでいた時を、正しく刻ませて。
番人たる獅子が雄叫びを上げる。
もう、時が歪むことはない。
キャロラインは、彼の手を取る。
「また、いつか。同じ時を過ごしてくれるか?」
それは、ただの『キャロライン』から『レイフォード』に向けての願い。
他の誰でもない、『レイフォード』に向けての。
願われれば、『それ』は叶えようとする。
どんな無理難題でも、不可能も。
可能にしてみせる。
けれど、この願いはそんなものではない。
『神』に向けられたものではない。
この世界に存在する、ただ一人の『人』に向けられた言葉。
だからこそ、それを叶えるのは『人』の意志次第だ。
役として定められているのではなく、己として決めるものなのだ。
「──はい。僕で良ければ、いつでも」
握り返した小さな手は、あの日よりも大きかった。
ふっと微笑んだキャロラインは、レイフォードの肩を掴み反転させ、背中を押す。
彼を待つ、友人たちの元へ。
「さあ、行け。あまり時間の余裕がないのだろう?」
「……ありがとうございます、キャロライン様。
では、行ってきます!」
肩口に切り揃えた白金の髪を靡かせ、少年は走り去っていく。
「さあ、戻るぞ。まだ朝は早い。
二度寝くらいは許してくれ」
彼らの背が見えなくなると、キャロラインは後ろに控えていた使用人に声を掛ける。
時刻は凡そ午前四時。
普段の起床時刻より二時間も早かった。
身に染みる冬風が吹く。
羽織物が飛ばないよう、掴んで抑えた。
見上げれば、徐々に空は白み始めていた。
冬だというのに、今日も晴れ渡る蒼穹を予感させるような色。
かの少年と同じ色。
遥か遠くからは太陽がちらりと顔を覗かせる。
まるで、『彼』が覗き見ているようだ。
「……ああ、もし。
もし、本当にお前が私たちを見ているのならば」
──少しばかり、顔を見せてはくれないだろうか。
なんて馬鹿みたいな願いは、口には出さなかった。
そんなことしなくても、彼ならば分かるだろうから。
叶うはずの願い。
けれど、いずれ。
その願いは叶ってしまう。
だって、彼女は関わってしまったのだ。
全ての願いを叶えるもの。
ありとあらゆるものを『幸福な結末』にする、常識外れの機構に。
再び眠りに就いたキャロラインの枕元。
寄り添うのは銀髪金眼の青年。
半透明な指先で、彼女の金髪に優しく触れる。
通り抜けてしまうのもお構いなしに、青年は触れ続ける。
細められた彼の瞳は、どこからどう見ても愛しい者に向けられていた。
「……ごめん、あともう少しだから。
もう少しだけ、待っていてくれ」
誰も聞いていないと知った上で。
誰にも届かないと知った上で。
青年は、そう囁いた。