三節/3
「今でも思い出せる。三十年も前のことだ」
キャロラインは、イスカルノート公爵家の嫡子であった。
父である先代の公爵があまり子宝に恵まれず、病弱であった母がやっとの思いで産んだ子がキャロラインだ。
次男、もしくは次女を出産するような体力はなく、なるべくして嫡子となったキャロラインは、貴族教育を満遍なく受けることとなる。
座学は勿論のこと、武術も並大抵の大人を凪ぎ倒せるほどに習熟した。
貴族にとって、武術とは茶道や華道に並ぶ、一つの嗜みである。
普通はどれか一つに絞って習うのだが、優秀であったキャロラインは、ありとあらゆる稽古を行った。
そして、そのどれもにおいて、一番とは言わずとも優秀な成績を収めたのだ。
目の上のたんこぶのように自分を上回っていく王太子殿下に対抗しつつ、怠けることなく励んできたキャロラインは、いつしか並ぶ者が片手で数えられるほどとなっていた。
自分が優秀である自覚はあったが、こうも上手くいくとは。
苦労はあれど、努力が実を結ばないということはなかった。
同年代どころか、上級生や大人ですら己に敵わないのだ。
恵まれていると分かっていても、内心驕らずにはいられない。
まだ年若いキャロラインを、その万能感が熟した果実のように甘く、芯まで浸していく。
しかし、そんなキャロラインに転機が訪れる。
新たな春の日を迎えて数週間。
いつも通り孤高に過ごしているところ、ある生徒の話が耳に入った。
────騎士科の新入生の女の子が、舐めてかかった上級生を薙ぎ倒してるんだって。
騎士科は、十二ある学科の中で、最も男性率が多い。
肉体が重要で、過酷な訓練があるからというのが大きいだろう。
だからこそ、女子生徒への風当たりは少々強い。
具体的には、『そんな細腕で戦えるのか? 淑女は大人しく守られてな』というような揶揄い半分のものである。
騎士科を志望する時点で守られるような女子ではないことが丸分かりであるが、それを加味した上で煽るのだ。
寧ろ、この逆風に耐えられなければ、これから先やっていけないだろう。
女性騎士というだけで舐められる風潮がある現在、教師や規則が禁じたところで、将来の役には何も役に立たないのだ。
そんなこともあって、毎年と言っていいほど必要以上に女子生徒を煽る男子生徒はいる。
大抵が、入学し粋って調子に乗っている一年生坊主が、それなりに強い女子生徒──上級生も含む場合がある──に張り倒されるだけ。
だが、今回は少々違う。
『一年生の女子生徒』が『上級生』を薙ぎ倒しているのだ。
キャロラインは純粋に興味が湧いた。
そこまで強い者がいるのか、と。
そんな彼女が世間話をしていた集団に話し掛け、内容をよく聞き出すのは当然のことであった。
そうして放課後、例の決闘が行われるという時間に決闘場を訪れた。
周りにはキャロラインと同じように噂を聞き付け、野次馬に来たものが数十人。
これが始まったのが二日前だというので、明日、明後日になれば人はもっと増えるのだろう。
最前列に仁王立ちし、場内を眺めるキャロライン。
やがて、入場してきたのは、想像通りの粋った三年生と──どこからどう見ても少女にしか見えない少年だった。
噂通りの人物が登場してきたことに会場は座喚いた。
職人が作り上げた刀剣のような銀髪に、厄介そうに細められた金眼。
あまりにも小柄な背丈と小枝のような身体。
とても十人以上を薙ぎ倒した技量があるようには見えなかったのだ。
しかし、キャロラインは分かっていた。
誰もが少女だと思う中、少年だという真実にまで辿り着けたキャロラインには、分かったのだ。
そうして、口角が上がる。
ああ、此奴はやってみせるだろう。
完膚無きまでに相手を打ち負かし、敗者の山の上で嗤うだろう。
そんな者だからこそ──己を負かせられる存在に成り得るのだろう、と。
審判が試合開始の合図をすれば、勝敗は直ぐに決まった。
誘われていることが分からなかった男が無警戒に少年に切り掛かり、無様にも顎に反撃を喰らって撃沈したのだ。
彼の仲間であろう者も挙って挑んだが、結果は惨敗。
少年の連勝記録を伸ばす糧となるだけだった。
試合終了後、少年は審判の拡声器を借りる。
────あ、会場の皆様聞こえてます?
声変わり前の、鈴が転がるような声で彼は言う。
────そこのお嬢様は分かってると思うけど……。
名指しかつ目線を向けられたキャロラインは、少年に向けて『やれ』と口を動かした。
微かに笑った彼は、大きく息を吸い込み叫んだ。
────……俺は、男だ──!
その後の騒がしさは、入場時の数倍だったという。
「……そこから、どうしたんです?」
「審判役の教師と交渉し、急遽決闘を取り付けることにした。
彼奴も二つ返事だったよ。
賭けた内容は、『勝った方のお願いを何でも一つ聞く』。
……流石に限度はあるがな」
決闘である以上、二人は何かを賭ける必要があった。
『何でもいい』と言ったルーディウスがキャロラインに任せた結果、そんな条件になったのだ。
「あの時勝てればなあ……まだ可愛かった彼奴に好きなことを出来たというのに……」
「ということは、負けたのですか?」
「ああ、接戦だったぞ。一寸の差で決まったからな。
彼奴に成長期が来てからは全く勝てなくなってしまったが」
言葉と同時に出された映像には、レイフォードから見ても大分小柄な若き日のルーディウスと、今とそれほど変わらないキャロラインの剣戟が記録されている。
これは、審判役の教師の記憶を合法的に複製して得たものだという。
どうしても三人称的記録が欲しかったのだ、と。
「小さいなと思っただろう。
だが、お前より大分強いぞ。
恐らく、テオドールを秒殺出来るからな」
「……本当に言ってます?
彼、イヴから太鼓判をいただくほどなんですが」
レイフォードが、十戦中三勝出来たら奇跡というほど実力差があるテオドールを、この小柄な少年が秒殺できるなんて信じられない。
テオドールは先の話の中の二年生よりも手強いはずだ。
そんな彼でも手も足も出ないなんてことが有り得るのだろうか。
「そうか、知らないのか。
ルーディウスはイヴの師匠だぞ。
そして、イヴが彼奴に勝ったことは一度も無い。
数百戦して一度も、だ」
「……はい?」
一瞬、脳が理解を拒否した。
イヴの師匠がルーディウス。
そんなこと今の今まで聞いたこともなかったのだ。
「今は彼奴の存在そのものに箝口令が敷かれているからな……。
知らないのも当然だ」
「それは……それ自体はまだ理解できます。
先生が一勝も出来なかったという方が、よっぽど分かりません。
どんな強さしてるんですか」
曰く、騎士道など知らんとばかりな闇討ちや奇襲という、何でもござれの無茶苦茶だが論理的な戦術。
曰く、三階から飛び降りても無傷な化け物の如き運動能力。
曰く、源素量が少なくても発動速度と応用で、初級の術式だとは思えない使用方法。
それらを満遍なく扱うことで、どれだけイヴが強くなったとしても、常に上回ることが可能だったという。
「本当に人なんですか?」
「残念ながら人だったよ。
彼奴に勝てたやつなぞ片手しかいないからな。
無論、奴らも化物だ」
魔境と呼ばれる東の地。
しかし、高等学校というものは、それ以上に魔境であるようだ。
「……少しだけ、入試が嫌になってきました」
「安心しろ。お前もどちらかと言えば、『あちら側』だ」
間髪入れずに告げられたのは、励ましなのか蔑みなのか分からない言葉だった。
そうして、他愛もない話と思い出、将来について語りながら、夜は更けていく。
義伯母と甥、あるいは年の差のある友人、もしくは上司と部下。
関係を目眩く変化させつつも、二人の仲は途切れることがない。
まるで、永遠と思えるほどに続く、この歓談のように。