三節/2
漸く解放されたか、と肩の力を抜いた。
ずっと強張っていた身体は、僅かな疲労を主張している。
彼女は何故、こんな行動を取ったのだろう。
幾許か上にある顔を横目で覗く。
だが、視線に気付かれたようで、硝子色と目が合った。
「気になるか?
……当然だな。いや、済まない。
少しだけ、確かめたいことがあったのだ」
一度目を伏せたかと思うと、ずいと身体を乗り出し、レイフォードの頭を掴む。
咄嗟に後退りしようとするが、彼女の勢いに押されて、中途半端に押し倒されたような体勢となった。
視界がキャロラインの顔で埋め尽くされる。
じっと己を見つめてくる意図は、表情からは読み取れない。
けれど、何だか哀しい顔をしている気がした。
「……ああ、どれだけ似ていても、お前はルディではない」
十数秒の沈黙の後、そんな当たり前の言葉が聞こえてきた。
「分かっていたさ、そんなこと。
……それでも、私は未練がましく願ってしまうのだ。
お前が彼奴の生まれ変わりなのではないか、と」
彼奴──彼女の夫である、ルーディウス。
レイフォードが生まれる九年前に亡くなった、ある男のこと。
キャロラインは、あり得ないと叫ぶ脳に反して、心のどこかで、ルーディウスがレイフォードとなって己に会いに来てくれたのではないかと思ってしまっていたのだ。
ルーディウスとレイフォードは違う。
飴色の瞳、天色の瞳。
白銀の髪、白金の髪。
溌剌で、どこか憂いを帯びた少年の声。
穏やかで、どこか儚げな少年とも少女とも取れる声。
ルーディウスとレイフォードは同じだ。
笑うときに眉を下げて、下目蓋を上げ、苦しそうに喉を締めるところ。
偶に、遠い目で空を見上げているところ。
自分より他人を想い、己が傷付くことを躊躇しないところ。
どこから見ても、二人は違う。
なのに、どこか同じように感じてしまう。
今だってそうだ。
無理矢理行動権を奪ったって、反抗するどころか心配そうに見つめてくる。
救けようとする。
そういうところが嫌いだった。
そういうところが好きなんだ。
いっそのこと、罵倒してくれれば楽なのに。
もう枯れてしまった涙は、零れることはなかった。
「……本当に、済まない。
お前は、レイフォードだ。
決して、ルディではない」
自分に言い聞かせるよう呟いて、キャロラインはレイフォードを抱き締めた。
ふわりとした生地の下にある、細いようで確かに筋肉が付いている身体。
それも、同じようで違かった。
「……情けないところを見せたな。
また、重ねて詫びよう。済まなかった」
「お気になさらないでください。
どんな時でも、貴方は美しいと思いますよ」
見上げてくる蒼空色。
どこで学んだか分からないお世辞は、素直に受け取ることにした。
兎型の帽子に覆われた頭を撫でると、卓の上で冷やされていた瓶を手に取る。
それは、イスカルノート領内で生産している葡萄酒の一つ。
王太子をも唸らせた、キャロライン自慢の一本だ。
栓抜きを使って木栓を抜けば、忽ち芳しい薫りが漂った。
柑橘果実と花の匂いを混ぜたそれは、彼の墓に備えた花束の薫りを思い出す。
キャロラインは手に持った杯を、レイフォードに向かって傾けた。
「どうか、注いでくれないか?」
「……僕で良ければ、何度でも」
受け取った瓶から、黄金の液体を注ぐ。
静寂な空間にとくとくと、葡萄酒が杯の中を掛け巡る音が響いた。
三分の一ほどが飴色に染まった時、瓶の口が上げられた。
それを合図に、キャロラインは杯を呷る。
ありとあらゆる感情と共に、飲み下してしまうように。
「……旨い。
酒を飲まなければやっていけないな、『大人』というものは」
「……僕には難しそうです」
「そういえば、酒の類は全く駄目だったか。
悪いことをしたな」
微かに香る酒気だけでくらりとするほど、レイフォードは酒に耐性が無い。
未成年だから、ということではない。
本能が酒というものを拒絶しているような反応だ。
「麦酒と比べたら、葡萄酒の方がいくらかはましです。
果実の匂いで若干打ち消されますし」
「……彼奴も同じことを言っていたな。
アーデルヴァイトの連中は皆酒に弱いのか?」
前当主とシルヴェスタ、ルーディウスの酒に対する反応を思い返す。
二人は一応飲めはするが、ルーディウスは全く飲めなかった。
騎士団の飲み会に引き摺られて行ったときは、セリアーノが背負って帰ってきたほどだ。
蒸留酒を割った低濃度のものを一口飲んだだけで眠ってしまったらしい。
翌日は二日酔いで使い物にならなかった。
そういうところも愛らしくはあったのだが。
「伯父上もお酒に弱かったのですか?」
「弱いも弱い。
『そんな顔をしているのだから、本当に気を付けろよ』とは、何度言ったか覚えてないくらいだ」
「……そんな顔?」
そういえば、今までルーディウスの顔をまじまじと見せたことはなかったか。
疑問符を浮かべるレイフォードに、精霊術で記憶を空中に映す。
「……なるほど、よく分かりました」
「お前もそうだぞ。
卒業後は技術局に行くのだろう?
警戒しておかないと、何をされるか分かったものじゃないからな。
信頼出来る者を横に置いておけ」
「肝に銘じておきます」
映し出されたルーディウスの顔は、シルヴェスタを超えた女顔だった。
シルヴェスタが中性的な女性に見えるならば、ルーディウスは完全な女性である。
周りにいるのが屈強な男性ばかりであるからか、より一層その顔の特異さが際立っていた。
キャロラインが言うには、現在アーデルヴァイト家で門番をしているセリアーノが居なければ、『お持ち帰り』されていたかもしれないような時が何度もあったという。
酒の弱さに漬け込んで、無理矢理度数の高い酒を飲ませようとしたり、壁際に座って隣をセリアーノが占領しているというのに、間に割り込もうとしてきたり。
諸事情で遅れてしまった日なんかは、あと三分も遅ければ目も当てられない事態になることもあった。
一番の問題は、それが男女関係なく襲い掛かってくることだ。
婚約者がいるというのは知れ渡っているはずなのに、略奪しようとする勢いで来るのだ、と。
「しかし、そんなことをしなければ彼奴に近付けない時点で、私の勝利は決まっているのだよ。
可哀想な奴らめ」
「……大人って、怖いなあ」
未だ想像付かない未来に、レイフォードは恐怖した。
自分の意識がないうちに何かされるというのは、貞操的にも社会的にも危ない。
ユフィリアもテオドールも進路が違うわけであるし、新たに信頼出来る者を作らなければ不味いだろう。
「だがまあ、酒が無くても彼奴はよく絡まれていたぞ?
騎士科だからかもしれないが」
「それは、どういったことで……?」
二杯目の葡萄酒を飲み干し、キャロラインは語る。