二節/6
いつの間にか日が沈み、夜空に星が輝き出した頃。
ルーディウスは、時計台の屋根の上に腰掛けていた。
霊体であるから誰にも見られる心配はなく、自分自身が浮遊出来るため、落下の可能性もない。
完璧な布陣だ。
惜しむらくは、星見をしながら酒一杯のようなことができないことか。
そもそも、酒は飲めないのだが。
「……存在しない張りぼてのくせに、星っていうのは何であんなに綺麗なんだろうなあ」
「届かぬものだから、だろう」
突如、隣から低い声が聞こえた。
地の底から唸るような、恐ろしい声だ。
「詩的なことを言うね、おっさん」
「《悪魔》たるもの、教養は身に付けておくべきであるからな」
ルーディウスは、横目で彼を覗く。
己と同様に宙に浮かぶ半透明の体。
体の至るところから黒色の翼が生えており、大まかに人型を形成している。
身に纏う貴族風の礼服は、高貴な雰囲気を漂わせていた。
そして、一際目立つ頭部と思しきものは、黒く光る星のようだ。
矛盾した感想を抱くそれ。
しかし、それ以上例えようがない。
「……ちょこちょこ失念するけど、おっさんって最古にして最強の悪魔なんだった」
「忘れるでない、契約者よ。
我、泣く子も黙る《魔王シエル》ぞ? 明星の化身ぞ?」
「ごめんってば。
四十年近く一緒にいるから、感覚が麻痺してたわ」
出会った時からは想像も出来ないほど、俗に染まった悪魔の王。
これもルーディウスの知識を与えてしまったからなのだが、己は悪くないと言い張っておく。
覗き見したのはあちらからであるのだし。
「さて、契約者。
この度は懸念していた問題の一つが解決したようだが……どうだ、魂を手放す気になったか?」
「いや、まだ終われないよ。
ハンスが終わったからって、他の奴らが沢山残ってるし」
ハンス以外にも、まだ終わらせなければいけない者は数多くいる。
二十年かけても、未だ半分以上残っているこの現状。
手放す気にはなれなかった。
「ふむ、気長に待つとしよう。
しかし、あれほど手こずっていた者が、まさかこれほどまでにすんなり済むとは……やはり、恐ろしいものだな。
『終末装置』とやらは」
「そこに関しては完全同意。全く、どうなってんだか」
片手で丸を作り、右目に合わせる。
念じつつその穴を細めていくと、焦点が合った瞬間に景色が移り変わった。
街頭灯る夜の町から、暖かな食卓へ。
色とりどりの夕餉が並べられた卓には、家族三人が席に着いている。
「お、今日のご飯は巻甘藍っぽいな?」
「ほう、旨いのか?」
「それはもう。うちの料理人の作ってるんだから」
食事を運びながら歓談をする三人。
残りの二人は、今はそれぞれ学校近くで暮らしている。
アニスフィアは王都の借家、リーゼロッテは学校の寮だ。
きゅっともう一段階穴を細めた。
視界が一点に集中し、明瞭に一人の少年を映す。
白金色の髪に、蒼空の瞳。
シルヴェスタとクラウディアの特徴を引き継いだ、間違いなく彼らの子どもである。
その少年の挙動を端から端まで観察する。
食器の持ち方や、視線の動き、息遣い。
見落とさないよう、じっくりと。
そうして、ルーディウスは気付く。
「楽しそうで何より……と言いたいところだが、また不安定になってら。
また抑えないとなあ……」
「それはどちらの方だ?」
「男の方。死んだ家族のことを思い出してるっぽい」
一瞬だけ覗いた心の中、彼の両親と妹との四人で食卓を囲んでいた。
これ以上記憶を覗くのは無粋だろうと、心だけに集中する。
読心の時点で無粋だという意見は無視だ。
そんなことを言っていては、彼──レイフォードを守れない。
「これを始めてもうすぐ十二年……それでもまだ半分か」
「予定より大分低速だな。間に合うのか?」
「もしものときは、土壇場で全部返すしかない。
その後は……未来の俺に任せよう」
不安しかない、とぼやくシエル。
ルーディウスとしても、そんなことは避けたい。
しかし、レイフォードが『レイフォード』として固定化されていないので、速度を上げることも難しいのだ。
ルーディウスは、溜息を吐く。
長い時を掛け安定化は出来ていたが、肝心の固定化が上手くいかない。
記憶を切り貼りしているお陰で、本来の性質を残せているのは幸いだ。
だが、その性質自体が悩みの種であった。
「まさか、巫の血がここまで強く出るとは……」
巫とは、神をその身に下ろす者、またはそれに準じる行為をする者の総称である。
アリステラ王国の建国者であり、王族の先祖であるリセリスが巫であったため、貴族は皆その血筋に当たる。
すなわち、誰にでも素養はあるのだが、レイフォードは。
否、『レイフォード』の肉体の素養は段違いであったのだ。
「香り高く、甘露で美味な肉体と魂。
我としても、主と契約していなければ、直ぐにでも喰らいたくなる逸材だ」
「絶対破棄してやらないからな。絶対だぞ」
もの欲しそうな目──顔すらないが──でこちらを見るシエルを無視して観察を続けた後、手を下ろす。
「何だ、もう終わりか」
「これ以上続けても意味がない。あの子が寝たら侵入して、弄ってくるよ」
「……犯罪的だな」
シルヴェスタの夢に入り込んでいたお前が言うのか、と反論する。
幼い頃、彼が不安定だった原因の半分はこの悪魔のせいなのだ。
祓うために決闘し、何時間にも及ぶ激しい戦いの末、やっとのことでルーディウスが勝利。
敗北したならば、己と契約しろと条件付けていたこともあり、今に至るわけだ。
死してなお側にいるのは、まだ契約終了の条件を満たしていないことが原因であった。
難儀な契りを交わしたものだ、とシエルはいつも溜息を漏らしている。
「……巫、巫ね。
俺は知らないが、リセリス様はそれほど強い資質を持っていたのか?」
「愚問だな。
数千の民の援助を受けたにしろ、『神』を召喚したのは彼女自身の力だ。
最も、縁のお陰もあるようだが」
「壊れてるから過去視のしようがないんだよなあ……どうにも景色がぶれる」
崩壊前の世界を視ようと、今まで何度も試した。
しかし、得られるのは不明瞭な景色のみ。
辛うじて、人が集まっていることや、得体の知れない化け物が空に浮かんでいることがわかるだけ。
声なんて聞こうものなら、言語ですらない雑音が聞こえるのみだ。
得られるとしたら、『彼女』の記憶からだ。
己が封じている、とある少女の。
「それ以上深入りするな、ということだ。
大人しく現在に集中しておけ」
「はいはい、分かってるよ。
過去に感けて何も見えなくなるのは、駄目だからな」
左手を軸に、仰け反るように起き上がる。
見下ろしたクロッサスの全貌。
居酒屋や夜の町には明かりが灯り、夜がまだ長いことを示す。
しかし、町の外にあるアーデルヴァイト家の屋敷は、既に暗く、門も閉じられている。
起きているのは、明日の仕込みをする料理人と門番くらいか。
「おっさんも着いてくる?」
「当たり前だろう、契約者」
「それは頼もしい。でも、欠片一つもやらないからな」
下心丸出しなシエルに釘を刺し、目的地に向けて旅立った。
満天の星空の下、踊る影が二つ。
誰にも見つからず、誰にも知られず。
裏方は暗躍を繰り返す。
それは、主役が演技に集中するため。
己の役を全うするため。
他の誰でもない『己』として、演じられるようにするため。
舞台を整えれば、彼らは思うがままの未来を選び取る。
その道筋がどれだけ困難であろうとも。
決して諦めず、決して止まらず。
未来を目指し続けてくれるのだ。
あるところに、一人の青年がいた。
『魔王』なんて尊大な名を付けられ、数多の生命を奪った罪人。
世界を敵に回し、果てに勇者に討ち取られた。
蒼空を見上げ、己の業を受け入れ、そして息を引き取ったはずだったのだが。
彼はあろうことか、一人の少年の人生すらも奪ってしまった。
────……これが、異世界転生ってやつか。
目覚めれば見覚えのない世界に、『ルディ』とは全く違う、『ルーディウス』の顔。
死後の世界かとも思ったが、生きる人々の姿を見ていれば、次第にその思考は消えていった。
これは紛れもなく、創作物でよく見られる現象、《異世界転生》。
あるわけがない空想だと思っていたが、どうやら現実は小説より奇であるようだ。
一度死んでも、なお生きようとする意地汚さは、一周回って褒められるほど。
けれど、彼の性根自体はそれほど腐っていなかった。
次があるならば、全て救おうと思うくらいには。
一人の少女を救うために世界を犠牲にしたのならば、今度は一人の少年を犠牲にして世界を救ってやろう。
この身体の本当の持ち主には悪いが、とうの昔に決めていたことなのだ。
謝罪は地獄でする。
だから、願いを叶えさせてくれ。
なんて、言ったはいいものの。
結局、救えたのは手が届く範囲の人々だけ。
全てを救うなんて、出来やしなかった。
寧ろ、救った人を哀しませてしまう。
過去に囚われたままにしてしまう。
ああ、やっぱり俺は弱い。
やること成すこと、全部中途半端なんだ。
それでも、救わなければいけない。
償わなくてはいけない。
この身にそぐわない、大きすぎる罪を。
なあ、レイフォード。
君は、こんな風になってはいけない。
大切な人を哀しませて、皆を苦しませて。
それでも懲りずに行き続ける亡霊なんかには。
どうか、自由に生きてくれ。
この美しい世界で、何にも縛られず。
『レイフォード』自身として。
これは、同じ理を持つものへの餞。
同じようにはなるな、という忠告。
壇上の演者に向けた、草葉の陰に潜む者からの祝福である。