二節/4
「おいこら、いい加減降りろや。
さっきから目の前ちょこまか動き回りやがって」
「いいじゃん。別にお前しか見えてないし」
「そういう話じゃねえんだわ。気が散るっての」
くるりと一回転し、地に足を付けるその男。
だが、着地音はしない。
「アーデルヴァイトの〝眼〟ってやつは、おまえも視えんじゃねえの?」
「もちろん視えるが? 精霊とほぼ変わらない存在だし。
集中しないと、精霊と見分け付かないけど」
白銀色の髪をふわりと靡かせ、彼は受付台に座る。
「座んな、邪魔だ」
「どうせ実体は無いから。邪魔にはならんよ」
「だから、そういう問題じゃねえっつってんだろ。
視覚的にうるせえの」
唇を尖らせ、ハンスに文句を垂れる若い男。
彼は、二十年前から全く姿形が変わらない。
そこで時が止まっているのだから、当然ではあるのだろうが。
「……おまえは、いつになったら死ぬんだろうな──ルーディウス」
「残念ながら、もう死んでるんですよね」
──ルーディウス・アーデルヴァイト。
ハンスの目の前で肩を竦める、青年の名である。
「ったく、仕事中にちょっかい掛けてくんなよな。
挙げ句の果てには、変顔までしてきやがって。
危なく噴き出すとこだったんだぞ」
「てへぺろ」
舌を出し、こつんと頭を叩くルーディウスにハンスが殴り掛かる。
「殴るぞ」
「言う前に殴ってんじゃん。判断が早い」
「……くそが。肉体持ってこい」
だがしかし、かの半透明の体は物理攻撃を通り抜ける。
精霊と同様に幻想界にのみ存在する彼ら幽霊は、特殊な条件下でなければ物質界から干渉することが出来ない。
数年前に作った霊体専用干渉術具は、現在修理中だ。
「……で、何の用だ。いつもの尾行か?」
「言い方!
甥っ子くんが眼鏡着けたら、俺が見えなくなるかの検証に来たの!」
「結果は?」
腕で大きく丸を作るルーディウス。
どうやって確認したのかという疑問が残るが、恐らく、いつもの謎力によって把握したのだろう。
彼は昔から、精霊術ではない謎の神秘を扱うのだ。
「なら帰れ。おれは今からお楽しみなんだ」
「また読んでんだ、百合小説」
「うるせえ、趣味だ趣味」
ルーディウスは金色の目を細め、揶揄うように笑う。
あの日からずっと変わらない、子供のような笑みだった。
ハンスとルーディウスは、旧くからの友人である。
ハンスは魔物による襲撃で家族を亡くし、父の友人に引き取られ北部から東部にやって来た。
心の傷もあり、周囲と上手く交流出来なかったことから、幼いハンスはガキ大将的な少年とその取り巻きに虐められていたのだ。
虐めと言っても揶揄い程度の軽いもので、特に暴力を振るわれることはなかったが、それでも弱った心は傷付けられてしまう。
気まずさから後見人である工房主にも心を開けず、ハンスは一人寂しく過ごしていた。
そんな日常をぶち壊したのがルーディウスである。
性格に見合わず病弱であった彼は二週間ほど休んでおり、ハンスの転校時には不在だったのだ。
『変わった子が居る』とだけ聞いていたハンスは、ルーディウスの奇想天外さの予想が全く付いていなかった。
もし、ハンスが仲の良い友人を作り、彼について耳にしていたなら、あれだけの衝撃は与えられなかったはずだ。
関わることもなく、他と同じように遠巻きに彼を見ているだけで終わっていたはずだ。
しかし、そうはならなかった。
ハンスはルーディウスと関わり、挙げ句の果てには親友──彼曰く『腐れ縁』らしいが──となったのだ。
────なら、俺が救けてやるよ。
この世ではない、どこかに落ちてしまったハンス。
誰も救けにこない絶望の中、救いの手を差し伸べてくれたルーディウス。
あれは、運命だったのだ。
家族を喪い死に損なった少年と、『死』に近付き過ぎた少年。
出会うことも、友になることも、定められていたのだ。
「……なあ、ルーディウス。おまえは、後悔してねえのか」
へらへらと笑う彼から、一瞬表情が抜け落ちた。
こんなに会話出来ても、こんなに笑っていても。
ルーディウスは既に、死んでいる。
二人が今共に過ごせているのは、偏にハンスが幽霊を視認する力があるから。
それがない彼らの周囲の人々にとって、彼は故人である。
ハンスが例外なのだ。
あの日、あの場所で。
ルーディウスが弟を庇って死んで。
まだ生きられるはずだったのに。
もう時間が無いとしても、まだ共に過ごせたはずなのに。
不可解なほど美しく事切れた骸の手を握り、彼が愛した人が涙を零す。
────もう少しだけ、共に生きたかった。
ルーディウスは、それを知っていたはずだ。
気丈に振る舞う彼女の、親しいものだけに見せた弱った姿。
愛する者を喪ってしまった哀しみを。
もしも、あの時、ルーディウスが庇わなければ。
残り僅かな時間を、彼女と共に過ごすことを決めていれば。
もっと、違った未来があったのではないだろうか。
けれど。
「……後悔なんてしてない。
俺は、生まれた時から決めてたんだ。
『ルーディウス』の人生は、誰かを救うために使うってな」
ばっさり、彼は斬り落とした。
「あのなあ……お前がずっと思い詰めてるのは分かってるんだぞ?
そもそも後一年も持たない身体だったっていうのに、皆うじうじし過ぎ。
前から『俺死ぬから、あとよろしく』って言ってただろ?」
「……それでも、それでももっと一緒にいられたのは事実だ。
あんな終わり方、誰も望んでなかった」
脳裏に過るのは、首を落とされた彼の遺体。
何度言葉を掛けても目蓋は開かれることはなく、体は冷え切っていた。
「仕方ないだろうが! ああでもしなきゃ間に合わなかったんだよ!」
「お得意の謎力を使えば良いだろ?!」
「全力で使った上だわ、コンチクショウ!」
取っ組み合おうとするが、実態がないのですり抜ける。
勢いそのままに、受付台に倒れ込んだ。
「……痛ってえ! やっぱり肉体持ってこい!
直ぐ殴り倒してやる」
「お前が一度でも俺に勝ったことがあるかよ!」
「やってみなきゃ分かんねえだろうが!」
哀しいかな、傍から見れば虚空に怒鳴り掛けている四十代男性である。
見かけは二十代後半ほどだが。
深呼吸をして息を整えるハンス。
ずっと、こんな馬鹿なやり取りをしていたか。
遠慮なく、互いの言いたいことを言い合える。
こんなに仲が良い者は、ハンスは彼しかいなかった。
「……ああ、だめだな。おれ。
ずっと、ずっと、おまえが生きていない世界を受け入れられない」
長い前髪をくしゃりと握り込み、二十年間溜め込んでいた想いを吐露する。
先程ハンスが尋ねた、後悔しているのかという言葉。
『彼女が哀しんでいたから』なんて理由を添えた、それ。
これらは免罪符だった。
彼女らの想いに、ハンス自身の想いを隠しているだけだ。
だって、彼女は──キャロラインは、この運命を受け入れていた。
辿る未来を理解した上で、彼女はルーディウスを愛したのだ。
そして、今もなお、この世界に生き続けている。
前を向いている。
前を向けていないのは、他でもないハンスであった。
初めての、一番の友を喪い。
失意のまま働き続けるうちに、再び親を喪い。
流されるまま、この工房を継いだ。
あの時から、己の刻は止まっている。
楽しくて、毎日が輝いていたあの頃から。
だから、これは一種の逆恨みだ。
死んでしまったルーディウスに向けての。
己を救ったくせに、救わせてくれなかった男に向けての。
後悔していないのか、などと問い掛けておいて。
本当に後悔しているのは、自分自身だというのに。
「なんで、あの時死んだんだよ。
なんで死んじまったんだよ。
おれは……おれは、もっとおまえと一緒にいたかったのに」
手を伸ばすことはしなかった。
もう、届かないのだ。
どれだけ伸ばしても、恋い焦がれても、その手が届くことはない。
己が目指したその星は、遥か昔に消えてしまっていたのだ。