二節/3
レイフォードが依頼したものは、一見何の変哲もない眼鏡である。
半透明の青掛かった黒色の太縁に、度の入っていない水晶鏡面。
視力を矯正するためでもなく、おしゃれのためでもない。
ならば、何故レイフォードは眼鏡を製作を依頼するに至ったのか。
それは、レイフォードの持つ特殊な〝眼〟が原因だ。
アーデルヴァイト家の継承能力であるその力は、深く視ることは出来ても、視えなくすることが出来ない。
視力と結び付いているからである。
全く視えないようにするには視界を封じるしかないが、それはそれで問題がある。
知覚の大部分を視覚に頼っているレイフォードには、聴覚や触覚を便りにするということが難しいのだ。
生まれつき右耳が良く聞こえず、七年前の事件時に負った怪我で両足の感覚が鈍い。
左腕に至っては、肩から水平より上げられない。
そんなこともあって、両目を覆う眼帯を付けるという選択肢は初めからなかった。
しかし、父や兄に比べて明瞭に見えてしまうレイフォードは、その分脳に掛かる負担が大きい。
慣れていない頃はクロッサスの人口でさえ意識が保てなくなっていたほどだ。
慣れた現在だとしても、十数倍の人口を誇る王都でそのまま過ごすことは出来ない。
万が一の場合、気絶どころでは済まない可能性もある。
そして、それを防ぐための秘密兵器がこの眼鏡なのだ。
この眼鏡は、特殊な機能が付いている。
『即時情報置換』──つまり、水晶鏡面を通して見える景色を、〝眼〟に影響しない別の情報体として置換することが出来る。
写真や、絵画上の生物を視ても問題が無いように、〝眼〟の認識を誤魔化すのである。
眼鏡のつるを耳に掛け、位置を調整するとレイフォードは二人に顔を見せた。
「……おかしく、ないかな?」
「全然、これっぽっちも。良く似合ってるよ」
「こっちの設計は、おまかせだったからな。
杖より苦労したかもしれん」
控え目に笑いながらも、レイフォードは彼らを見据え、何度か瞬きする。
そうして、自分の胸辺りを見た。
「……本当に何も見えない。これが普通の視界……!」
「おう、そりゃ良かったな。
……あいつが聞いたら悲しむんじゃねえかなあ」
ハンスは二人に聞こえないよう、ぽつりと呟く。
脳裏に浮かんだのは、二十年ほど前に亡くなった友人。
彼の黄金色の瞳が懐かしかった。
「でも、少しだけ角度の調整を……ハンスさん、どうしたんですか?」
「……なんでもねえよ、角度だな。ちょっと待て」
友人によく似た少年の希望通り、ハンスは眼鏡を調整する。
やはり、目を閉じると、何度見ても父より友人に似ていると感じる。
全体的な雰囲気がそっくりだからだろう。
「よし、これでどうだ?」
「……ばっちりです。ありがとうございます」
何度か首を動かしたレイフォードは、問題が無いことを確認するとハンスに礼を告げた。
「これで依頼完遂だな。やっと趣味に走れるぜ!」
「趣味……? ああ、雑貨屋の方に出してるものですか」
眼鏡を革の入れ物に仕舞いながら、仕事の重圧から解放され、うきうきのハンスに相槌を打つ。
しかし、どうやらレイフォードの予測は外れているようだった。
「いいや、違う! それも趣味ではあるがな!」
「では、いったい何の──」
検討も付かないレイフォードたちが説明を要求した瞬間だった。
どこからともなく、彼は一冊の本を取り出す。
手に収まる大きさの厚みのあるそれは、形だけは文庫本のようだ。
異様なのは、表紙。
見目麗しい少女二人が、手を握って見つめ合っている姿を絵画調に書いたもの。
彼女らはどこか、レイフォードとユフィリアに似ていた。
「それは……!」
「知っているのか、坊っちゃん?!
それもそのはず、これは巷を騒がせた異例の一冊『私と天使の前奏曲』の第十一巻、『私と天使の聖譚曲』!
強烈で個性的な表紙と内容により、文学界に嵐を引き起こした問題作と呼ばれるが、おれとしては素晴らしいの一言に尽きる。
何と言っても主人公であるユリアと、その相棒であるレーネのやり取りが微笑ましく甘酸っぱく、そしていじらしいのが良い。
これが『春』かと青春時代をじめじめと過ごしたおれにとっては輝かしい光──」
豪雨の如く早口で語り出すハンス。
それを聞こえないように耳を抑えるレイフォード。
テオドールはそんな光景を眺めながら、レイフォードに問う。
「あれ、レイくんの部屋にいくつかあったやつだよね。
レイくんとユフィに似てる人がいちゃいちゃしてるの」
「聞こえないなあ! 僕は何も知らないよ!
っていうか見たの、いつの間に?!」
「聞こえてるじゃん」
レイフォードの不在時、掃除をしていた時に見つけたが、内容自体は軽い文章で書かれた、少し過激な小説のようであった。
平穏な日常を過ごす平凡な学生ユリアが、ある日空から落ちてきた翼の生えた少女レーネと出会い、非日常へと巻き込まれていく、というのが主題。
そこに恋愛要素や卑猥な話も織り交ぜつつ、所々に真剣な展開を差し込むことで物語に緩急が付いている。
普段文学を嗜まない者でも気軽に読めることから、急速に広まったとか。
流石に幼い子どもには見せられない、と物議を醸しているらしいが。
「うるさい、うるさい!
兎に角、僕は何も知らないから!
全部あの変人令息が悪いんだ!」
「ああ……あの人かあ……」
テオドールの頭に浮かぶ、とある青年。
数年前ユフィリアに婚約を迫ったがばっさりと断られ、斜め上の方向に目覚めたという。
その方向こそが、この小説というわけだ。
そういえば、奥付の出版社名はオルグランド社だったか。
代表はオスカー・エクスワンズ。
寸分違わず、かの変人の名である。
レイフォード自身がこの本を購入したわけではないのなら、これは献本なのだろう。
彼とその婚約者であるユフィリアの二人を参考に、この物語を執筆しているからか。
著者名のエオンズ・カスクワースは、どことなく彼の名に近い。
この作品の第一巻の刊行日が、丁度二人の婚姻の日だというのも作為的なものを感じる。
確実では無いにしろ、関わっているのは事実だ。
テオドールは唸り声を上げるレイフォードを宥め、ハンスに会計を促す。
「……ふう、愉しかった。ほい、伝票」
「約一名げっそりしてますけど。
……はい、お代丁度です」
ハンスは受け取った封筒の中にある硬貨を受付台に出し、金額を確認する。
金貨十四枚と大銀貨一枚、。
日本円にするならば、杖が十万円ほど、眼鏡が四万円ほどである。
大銀貨は材料を用意させた手数料であり、それは五千円ほどになる。
「さあ、レイくん。帰るよ」
「引っ張らないで、ちゃんと歩けるから!
ハンスさん、今日はありがとうございました!」
「へいへい。またの来店をお待ちしております」
会計が終わると、少年たちは騒がしく店を出ていく。
若い奴らは元気があるなあ。
四十代に突入したおっさんにとって、まだ年若い二人の姿は眩しかった。
己にはあんな時代があっただろうか。
あのくらいの頃は、常に人との関わりを絶ち、独りぼっちで作り続けていた気がする。
それは、親しい者を喪う恐怖からによるものだったが──。
「おまえが、ぶち壊してくれたんだよなあ」
上空に浮遊する半透明の友人を見て、ハンスは溜息を吐いた。