一節〈終焉は刹那の刻に〉
今日は、快晴だった。
どこまでも清々しく、どこまでも蒼く澄んで。
泣きたくなるほど、綺麗な空だ。
けれど、世界というのは、そういうものばかりではない。
醜くて、穢れていて。
そして、残酷なものが大半なのだ。
丁度、眼前で喚いている民衆のように。
■■■■■は、何度目かも分からない溜息を吐いた。
襤褸切れ一つを纏っただけの姿で処刑台に磔にされ、今にも殺されようとしているこの状況。
小一時間告文を読み上げ続ける神官の声は民衆の声に紛れ、全てがただの雑音でしかない。
聞こえたところで、『悪魔憑きなどという背教者は、存在そのものが罪である。死をもって償え』なんて暴論を振りかざしているだけなのだろうが。
やっと読み上げも、講釈も垂れ終えたらしい神官が、処刑人に指示を出す。
彼が手に持つのは、一つの松明。
■■■■■の足元にある、いくつもの薪に着火するためのものだ。
■■■■■は身動ぎする。
自身を柱に括りつける縄と鎖がどうにか解けないかと、最期に一縷の望みを懸けたのである。
結果は、お察しの通りだ。
縄が肌に食い込み、鎖がじゃらじゃらと音を鳴らすだけ。
やるだけ無駄であった。
神官が何かを叫ぶ。
恐らく、『我らが神の下、この叛逆者に裁きを!』という辺りだろうか。
全く、いくつになっても『神』とやらの力を借りなければ何もできないようだ。
その叫びに呼応し民衆が雄叫びを上げ、同時に処刑人が松明を放り投げた。
弧を描き、見事に薪の束の隙間に入り込んだそれは、瞬く間に業火と化す。
轟々燃え盛る炎。
最早言語として認識不能な罵詈雑言。
熱が肌を焦がし、暴言が耳を汚す。
しかし、徐々に熱くなっていくそれらとは正反対に、■■■■■の心は冷え切っていた。
いや、ある意味熱くなっているのだろう。
その熱の意味は、彼らとは異なるものなのだが。
■■■■■は、大きく息を吸い込んだ。
相変わらず炎が己を焦がし、空気と共に取り込んだ灰と火の粉が肺を害する。
肉が焼け爛れ、骨が覗いた。
喉も、肺も焼け焦げた。
それでも、■■■■■は呼吸をする。
どれほどその身が燃えようとも、彼女が呼吸を止めることはない。
その様子を、皆が嗤った。
『まだ、意地汚く生きようとするなんて!』と。
何も知らず、何も悟らず。
ただ、愚かにも。
刻一刻、炎は高く燃え上がる。
三。
眠っていたとある少女が起き上がり、外を見て言う。
『うるさいなあ、さっさと死ねば良いのに』。
二。
偶然通りがかった旅人が、処刑場を一瞥して吐き捨てる。
『なんと醜いのだろう、生きる価値もないくせに』。
一。
粗相をし、嬲られていた奴隷が呟く。
『みんな、死んでしまえば良いのに』。
零。
そうして、誰もが死を願った。
その意志の先は異なっていても、確かに皆が願っていた。
────なら、私がそれを叶えてあげる。
だからこそ、望みは叶えられる。
他でもない、■■■■■の手によって。
ある一人の少女が、ただ瞬きをした。
火刑の余波で目が乾いたのか、はたまた別の理由か。
けれど、そんなことは関係ない。
もう、理由に意味はない。
必要なのは、『瞬きをした』という事実。
『瞬きをする時間があった』という事実だけだった。
次にその者が目蓋を開けたとき、その場で息をしていたのは己と、嘲笑い続けるもう一人の少女だけであった。
────……何が、起こって……?
その少女──奴隷は、状況が全く理解できなかった。
先程まで自身を殴り、蹴っていた主人。
彼から身を守るために身体を丸めていたところ、急に攻撃が止んだ。
不思議に思って顔を上げれば、間抜けな顔をして地面に転がっている。
天罰でも食らったのかと思い、一応口に手を当ててみた。
すると、彼は息をしていなかった。
動揺しながらも、即座に首に手を当てた。
当然、脈もない。
そこで、奴隷は異変に気付く。
余りにも、周囲が静まり返っていたのだ。
あれほどまでに処刑に熱狂していたというのに。
恐る恐る、振り返る。
そんなことが本当に起こり得るのか。
起こり得て良いのか。
既に確信に近い予想をしながらも、奴隷は答えを求めた。
────ああ、やっぱり。そうなんだ。
予想は的中した。
広場から街道に掛けて広がる、死体の山。
眠っているように、全て傷一つなく地に伏せている。
それらは、ぴくりとも動かなかった。
こんな所行が出来るのは、一人だけだ。
死体の山の中心。
炎に包まれながらも、嘲笑い踊り続けるとある少女。
悪魔憑きと呼ばれる、一人の罪人。
けれど、今の奴隷にとって、彼女は己を救った救世主に他ならなかった。
────本当に、馬鹿。馬鹿ばっかり。
願えば叶うに決まっているのに、『言葉』の使い方一つ解らないなんて!
鈴を転がしたような声が、辺りに響く。
すっと耳に入るその声は、きっと静寂の中だからというだけではない。
いつの間にか柱も拘束具も壊れ、解放されていた手足。
それをもって、■■■■■は地を踏む。
おかしくなった神経は、痛みすらも脳に伝えてくれなかった。
だが、今そんなことはどうでも良い。
復讐心と『彼』への祈りだけさえあれば、それで良いのだ。
無知で愚鈍な彼らの死体。
■■■■■はそれを見下ろす。
────何も知らないくせに、何も分からないくせに、奪い続けてきたからそうなるんだよ。
右手を空に掲げる。
細く小さな身体に、天からの光を集めるように。
奴隷には、その姿がとても美しく見えた。
まるで『天使』かと思うほど。
────灼いてあげる、貴方たちが私にしたように。
手が振り下ろされた。
瞬間、ありとあらゆるものが焔に包まれる。
死体、建物、植物。
生きるものも、生きていないものも、全て。
しかし、その焔は熱くなかった。
燃えているのに、熱を感じない。
ただ『灼く』という概念だけを顕現させているようだ。
灰燼すら遺さず、その焔は灼き尽くしていく。
やがて、全てが零に帰した。
遺っているのは、美しい蒼穹のみ。
地は荒れ地となり、生物は消滅し、文明すらも消え去ったのだ。
その終焉は、刹那の刻。
瞬きにも満たない刹那で、その国は滅んでしまったのだ。
■■■■■が奴隷を見つける。
たった一人生き残った、哀れな少女を。
────貴方……なるほど、死ねないのか。
ねえ、どうする? 今なら私が灼いてあげる。
とても生きているとは思えないぼろぼろの身体で、■■■■■は手を差し伸べた。
彼女が起こした『奇跡』。
誰かの願いを叶える、世界にただ一つの《魔法》。
辿り着く未来が幸福であれ、不幸であれ。
必ず『終わり』へと導く、希望と絶望の光。
けれど、そんな力でも『神秘』には及ばない。
だから、奴隷は生き残っていたのだ。
《不滅》の異能力をその身に宿していたから。
奴隷は逡巡した。
今ここで彼女の手を取れば、己は確実に終わりを迎えられるだろう。
蔑まれ、苛まれ続けた人生に終止符を打てるだろう。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。
世界は繰り返す。
この少女が全てを終わらせたところで、また愚者が始めてしまう。
哀しみ、絶望し、幸せ一つ得られないまま、全てを奪われたまま息絶えてしまう者が、必ずどこかに存在する。
先程までの奴隷のように。
どうすれば、己のような者を救えるだろう。
どうすれば、皆が幸せになれるのだろう。
高尚な、身の丈にならない願い。
叶うはずのない、その希望。
だが、この少女がいるならば、叶えられる気がした。
────ぼくは、まだ死ねない。
やらなきゃいけないことがあるんだ。
片側だけの天青色の瞳が、一瞬揺らいだ。
────救いたいんだ。
ぼくみたいな人を、あなたみたいに。
哀しむ人を、幸せにしたい。
しかと見つめて、しかと言葉を紡いで。
そうして、奴隷は決意を告げる。
────理想郷を創りたいんだ。
みんながずっと幸せに過ごせる、希望に満ちた世界を。
■■■■■は一度目を伏せた。
その奴隷の少女に、己が最も愛する人の面影を見たから。
もう居ないと分かっているのに、未練がましく再会を望んでしまったから。
これは、恐らく自我だ。
結末を齎す終末装置ではなく、ただ愛する人を喪った少女としての。
だから、この言葉が彼女を導けるかはわからない。
機構としての己ではなく、『人』としての己の言葉であるから。
『人』であるからこそ、間違っているかもしれないから。
しかし、それでも少女は道を示した。
その先が暗闇の道だとしても、己の言葉を灯火に進んでほしかったのだ。
諦めず、前を向いてほしかったのだ。
────この世界の果て。
海を越え、山を越え、最期に辿り着いた場所。
それが、貴方の望む世界。
この言葉に意味は無い。
けれど、確かに灯火にはなり得たのだ。
奴隷が、既に用済みとなった首輪を捨てる。
今までの己と共に。
そうして、少女は感謝を告げた。
────ありがとう、優しい人。
ぼくは、■■■■。
あなたに救われ、導かれた者。
どうか、あなたの名前を教えてくれませんか?
これは、後に聖人として崇められる少女と、名も無き一人の英雄、または《刹那の魔女》として語り継がれる少女の邂逅。
とある理想郷の原点である。
一つ、また一つ都市を滅ぼした。
それは、あの少女が征く道を拓くため。
■■■■が『不滅』の力を持っていようと、彼女自身はただの子どもなのだ。
恐らく、もう直ぐ己の命は潰えるだろう。
宵闇にも届かず、この蒼天の下で朽ち果てるだろう。
でも、それで良いのだ。
復讐は果たした。
彼を、己を害した者を全て殺した。
もう、思い残すことは──ない、とは言えない。
願うならば、彼と。
■■■■と共に、幸せな未来を歩みたかった。
朝は、眠い目を擦りながら朝食を摂り。
昼は、あくせく働き。
夜は、君と二人きりの時間を過ごす。
そんな、何でもない幸せな日。
けれど、それはもう訪れることがない。
どうしたって、■■■■■は己の願いだけは叶えることは出来なかった。
それが世界に定められた、『奇跡』の限度だったのだ。
誰かが願うならば、聞き届け、叶える。
手を組んで、空を見上げて。
星を眺めて呟かれた、祈りを。
ああ、『神様』よりも、よっぽど神様らしいじゃないか。
泣きたくなるほど蒼く澄んだ空の下。
少女はただ一人、自ら終わらせた演劇の壇上で永遠の眠りに就く。
良い夢を見れることを願って。
いずれ、醒まされることを知らぬまま。