五節/3
──生きて、いた?
レイフォードの思考は、目の前の少女にだけ割かれていた。
雲のような純白の髪も、煌めく菫青色の瞳も、全て少年と同じ。
違うのはただ、性別だけ。
どうして、どうして。
疑問で頭が埋め尽くされる。
それ以上何も考えることができない。
何度繰り返しても救けることのできなかった少年が、今ここにいる。
立って、息をして、生きている。
どれほどそれを願ったことか。
どれほど叶えたかったものか。
溢れ出す想いに、胸が張り裂けそうになる。
殆ど無意識だった。
唖然として見開いていた瞳から涙が零れ落ちた。
一度溢れてしまったが最後、水門が決壊した泉のように次々と涙が零れてくる。
止めようと目を抑えても、どうしても止めることができない。
それどころか状況は更に悪化するばかりであった。
「……あの、泣かないで」
鈴の鳴るような少女の声が頭の上から降ってきた。
同時に、優しく頭を撫でられる。
その心の暖かさが心地良くて、止めどころなく嗚咽を垂れ流す。
「……どうしよう……?」
音だけでも、少女が慌てふためいていることが分かる。
何でもないよ、そう言いたくても声が詰まって話せない。
少女は、泣きじゃくるレイフォードに正面から抱き着いた。
背中を擦って大丈夫、大丈夫と何度も声を掛ける。
やがて、涙も声も収まった。
目元は腫れ、声も嗄れてしまっているが、一先ず先程のような感情の大放出が止まったのは確かだった。
「……すみません。お見苦しいところをお見せしました」
「いえいえ。大丈夫です、気にしていませんので。
……何か、あったんですか」
少女の問いにレイフォードは数巡した。
あの記憶を、あの世界を全て話すことはできない。
しかし、助けてくれた少女に真っ赤な嘘を話すなんて、彼女の思いを踏み躙るようで躊躇ってしまう。
何より、少年の面影を持つ少女に嘘を吐きたくなかった。
どうにか掻い摘んで、話せるところだけ教えよう。
そうして、ぽつりぽつりと言葉を濁しながら答え始める。
「もう会えない大切な人と、あまりにも似ていて……
すみません。どれだけ似ていても、貴方は貴方であるというのに」
「……そう、ですか」
レイフォードの言葉を聞いた少女は、眉間に皺を寄せ服を両手でぐっと握り締めて、一度俯いた。
何か気に触るようなことを言ってしまったのだろうか。
不安になるレイフォードを余所に、少女は考えていた。
これ以上少年の心に踏み込んでいいものかと。
もう会えない大切な人とはどんなものだったのか、その人とはどんなことがあったのか。
言うなれば好奇心、だろうか。
少女は、どうしても訊かねばならない気がしたのだ。
だが、これ以上は駄目だと理性が囁いている。
どこからどう見ても、少年の心は挫傷していた。
今少女が踏み込めば、斬られ潰され、ぐちゃぐちゃになった心を更に傷付けてしまう。
論理もないただの勘。
それでも少女は従うことにした。
足をその場に留めることにしたのだ。
その選択がある意味間違いで、ある意味正しかったと知るのはもっと後のことだった。
俯いていた少女はゆっくり息を吐き、再びレイフォードの姿を捉えた。
上げた顔には俯く前のような負の感情はどこにもなかった。
「変な空気になっちゃいましたけど、改めて挨拶させていただきます。
私はレンティフルーレ侯爵家当主ディルムッド・エルトナム・レンティフルーレが第三子、ユフィリア・レンティフルーレと申します。
本日はよろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとうございます。
私はアーデルヴァイト伯爵家当主シルヴェスタ・エルトナム・アーデルヴァイトが第三子、レイフォード・アーデルヴァイトです。
こちらこそよろしくお願いします、ユフィリアさん」
レイフォードの涙から始まった二人の関係は、やっと互いの名を知ることができたのだった。
なまじ最初が異例だったため、二人の間には何とも言えない微妙な空気が流れていた。
「……ええと、そうだ。
レイフォードさんもごきょうだいがいらっしゃるのですか?
前に父からお聞きしたことがありまして」
「はい。兄と姉が一人ずつ」
「お姉さんですか!
私はどちらも兄なので、少し羨ましいです」
それ以降会話が続かず、再び沈黙が二人を包んだ。
それが、どこか可笑しく感じたのだろう。ユフィリアは控えめに吹き出した。
「……ふふ、ごめんなさい。
何だかちょっと、おかしくって……」
変な笑いの壺にはまったようで、抑えようとしても抑えられないらしい。
くすくすと漏れる笑い声に、レイフォードはどこが懐かしさを感じた。
──同じ、だ。
静かに声を抑えるような笑い方も、手を口に添える仕草も、どれも。
自然と頬が緩む。
そこにいる。生きていると感じられる。
でも、君は違う。君はあの子じゃない。
レイフォードの心がぎゅっと締め付けられる。
確かにユフィリアはあの少年に似ていた。
見た目も仕草も、何もかも同じだったかもしれない。
だが、彼女の名はユフィリアだ。■■■■ではない。
そこで、はっとした。
今、自分はあの少年の名を何と思っていた。
何と認識していた。
分からない。
少年の名前を思い出せない。
知っているはずなのに。
「──あ、れ? なんで、どうして……?」
思い返せば、今までもそうだった。
あの空から落ちて消えた男の名も、彼の妹の名も、父代わりになってくれた男の名も、友人たちの名も。
そして、彼が愛した女の名も、何も憶えていない。
どうして認識できていなかった。
どうして今更に気付いた。
こんなにも大切なものを、ずっと忘れていたというのか。
二つの記憶を手にして始めて知ったその事実に、驚愕と失意の念に苛まれた。
自分の『大切』という言葉は、こんなにも薄っぺらいものだったのか、と。
目の前が暗くなっていく。
視界が狭まっていく。
どくどくと高鳴っていく心臓の音しか聞こえない。
独りぼっちの世界に沈んでいく。
「……どうかしましたか?」
光が世界に差し込んだ。
その光は沈む身体から右腕を掴み、一直線に引き上げる。
有無を言わさず、お前を沈ませてなるものかと、強制的に。
真っ暗な水底から光溢れる水面上に引き摺りだされたレイフォードは、眼前にある菫青から飛び退いた。
正確には、飛び退こうとした。
その行動は掴まれ続けた右手に阻まれる。
レイフォードが現実世界から遠退いている間に、ユフィリアは急接近を果たしていたのだ。
掴んだ右手を一向に放さず、それどころか手を起点にレイフォードを引き寄せた。
鼻と鼻が触れ合いそうなほど、二人の距離は近い。
零距離で見詰めてくる瞳に、レイフォードは狼狽える。
「どこか調子が良くないようでしたら、休みますか?
私、誰か呼んできます」
「……違うんです。調子が悪いわけではなくて……」
言えるわけが無かった。
言えるはずが無かった。
それを言ってしまえば、自分は人ではなくなってしまう。
また言葉を濁すレイフォードに、ユフィリアは眉を顰めた。
何故少年は一人で思い悩んでいるのだろう。
その思考が漏れ出てしまった。
「辛いときは辛いと言えばいいのではないですか?
貴方にもお父様やお母様、きょうだいもいるのでしょう」
「……だから言えないんです。
大切だから、嫌われたくないから。
でも、僕の『大切』は下らないほど薄っぺらい嘘だった」
それは始めて聞こえたレイフォードの本音だった。
口にしてから、ユフィリアはしまったと思い直す。
先程躊躇った行動を。
何も考えずに、咄嗟に引いた線を飛び越えてしまった。
勿論後悔している。
だが、それ以上にやっと聞けたという思いのほうが強かったのだ。
ユフィリアはその言葉を受けて何かを話そうとした。
しかし、それは震える声で発せられた問いに掻き消される。
「……もし、自分が大切だと思っていたことを無自覚に忘れていたら、どう思いますか」
──大切だと思っていたことを無自覚に忘れていたら。
耳から入った音が、ユフィリアの心を槍のように突き刺した。
レイフォードを初めて見た時のあの感覚。
それこそ当に、『忘れていた大切なものを思い出した』感覚だったのだから。
「大切なんて言って勝手に外側を飾っているだけで、内側では、本当は大切だなんて思っていなかったんだと。
名前すら忘れてしまうほどだったのだと。
それを理解してしまった時、貴方はどうするんですか」
すべて忘れてしまっていれば良かったのだろう。
すべて忘れて、何も悩まないで、ただ生きていられれば幸せだった。
でも、そうはいかなかった。
レイフォードは憶えている。
大切なものを知っている。
何もかも忘れていたユフィリアとは違かった。
そうだ、君は憶えている。
朧気でも、中途半端でも、大切なものとの記憶を憶えている。
だから悩み続けている。
「……それでも、忘れてしまっていたとしても。
大切だと思う心は嘘じゃない。
だから『大切』だと言い続ける。
外側だけの言葉でも、思い続けていれば必ず内側に理由ができる。
──そうすればいずれ、本当に大切だって言えるはずだから」
殆ど脳を介さずに吐き出した言葉は、愚直なまでに透き通ったユフィリアの想いだった。
だって、そうだろう。
忘れていることを悩むほどに大切なものならば、その心は嘘じゃない。
はっきり、これ以上ないほどに二人の視線が噛み合った。
もう彼しか、彼女しか見えていない。
瞬きもできず、ただ美しい菫青を眺め続ける。
絡まった糸を解きほぐすような言葉に貫かれ、レイフォードは半ば放心していた。
頭ではユフィリアの発した言葉を咀嚼しようとしていた。
その裏にある意味を、隠された意味を探そうと。
だが、あまりにも透き通りすぎていたのだ、それは。
額面通り、何も偽らない言葉に脳は処理不良を引き起こす。
レイフォードにとって、偽らないこととは人であることを辞めることと同義だった。
人でない自分が人であるためには嘘を吐き続けなくてはいけない。
そんな自分が嘘を吐かなくても、偽らなくても、人で居続けられるのはユフィリアの前だけだった。
「……言い続けて、いいのかな」
「いいに決まってる」
ぽろりと呟いた言葉が食い気味に返される。
疑うことを知らない言葉は、今までの自分を肯定しているようだった。
涙で視界が滲む。
止まったはずの涙がまたぶり返す。
嬉しいのか悲しいのか、自分ではわからない。
再び泣き出したレイフォードを、ユフィリアは押し倒すようになっていた姿勢から起こした。
そうして出会った時のように抱き締める。
「誰にも話せないのなら、私に話して。私だけに話して。
私なら、君を受け入れられる」
蕩けるような甘美な言葉だった。
ユフィリアの心臓の鼓動とレイフォードの心臓の鼓動が重なり合う。
自分と世界の境界線が曖昧になる。
でも、あの時のとは違う。
死への恐怖で震えるわけではなく、寧ろ生への喜びを感じる。
────ああ、僕はこの世界に生きている。
「ねえ、レイフォード。私、君ともっと仲良くなりたい。
敬語なんて使わない、友達になりたい」
「……うん。僕も君と、ユフィリアと友達になりたい」
距離がぐっと離れた。
互いの顔が見えるように向き合う。
「ユフィ。ユフィって呼んで」
「分かったよ、ユフィ。
なら僕はレイって呼んでもらうべきだね」
「勿論、そう呼ばせてもらうから。ね、レイ」
笑い出す瞬間も全く同じに、二人は笑った。
眉を上げて、声を上げて、目を細めて。
そこに偽りの感情など無かった。
空は、雲一つない快晴である。