幕間〈我が天使に祈りを〉
深い深い森の中。
真っ暗闇の中。
女性が一人、歩いている。
道を逸れた、揃っていない木々の隙間を縫って。
彼女は息を潜めている。
ふと、二時の方向で草木を掻き分ける音が聞こえた。
木陰に身を隠し、その正体を探る。
数秒後、姿を表したのは鹿だった。
雌と雄の番。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
異様な気配が周囲を包む。
鹿たちは慌てふためきながら、その気配から反対方向に逃走する。
どうやら、彼らはあれから逃げてきたらしい。
音もなく、姿もなく、ただ肌を突き刺すような気配だけ。
殺意にも悪意にも似た、どす黒い感情。
久しく感じなかったそれに、女性は身悶えするほど興奮した。
ああ、やはり私は──。
口角が釣り上がったが最後、女性は幹を脚がけに飛び上がる。
制服の洋袴がふわりと靡き、その下にはいくつもの暗器が揃っていた。
両の手四本ずつ、精霊術にて強化した鉄針を投擲する。
長さ三寸と少しほどのそれは、貫通力だけに特化していた。
命中五、回避二、残り一つは叩き落とされた。
音で瞬時に判断し、術式を発動させ針を巨大化させる。
悲鳴が辺りに響き渡った。
それはそうだ。
突き刺さった細い針が、柱のように変化し肉を抉ったのだから。
「逃げるのは無駄ですよ。
既に結界は構築済みですし、お仲間も全て始末させていただきました」
一歩踏み出す度に新しく術式を発動させながら、女性はそれに歩み寄った。
「さあ、洗いざらい吐いてもらいますよ。
──侵入者風情」
四肢も、眼球も鉄柱で貫いた状態で、更に術式によって拘束すれば、もう逃げることはできない。
眼下の人間は、悔しがるように唇を噛んだ。
「ああ、自死もできませんよ。
今、舌を噛み切れなかったでしょう?
思考を捻じ曲げる術式を掛けていますので」
「……このクソ女が……!」
吐き捨てるように罵倒する侵入者。
女性はそれを冷ややかな目で見詰める。
「クソ女で結構。
では、質問に答えていただきましょうか」
「誰が答えてやるものか!」
「……そうですか」
侵入者の額に、足をかける。
そして、力の限り踏み潰した。
絶叫。心地良い、声だ。
「少しはおかしいと思いませんでした?
こんな小娘が、どうやってあの人数を無力化したかなんて」
息も絶え絶えなそれから足を離し、そしてもう一度踏み潰した。
「今は、痛覚適応訓練なんてやってないのですね。
当たり前ですか。
成果よりも、犠牲のほうが何倍も多いですし」
女性が行っているのは、ただ頭を踏み付けるだけ。
しかし、侵入者にとって、その痛みは生きたまま頭を砕かれるよりも大きいだろう。
痛覚倍加術式。
対象の精神に作用するものだ。
一歩間違えれば廃人にしてしまうので、扱いには十分気を付ける必要がある。
「……少しは話す気になりましたか?」
「なる……ものか……! 穢れた悪魔憑き共が……!」
「ふむ、私は悪魔憑きではございませんよ。
どちらかといえば貴方たちの同類です」
目を潰しているから、侵入者は女性の姿を見ることはできない。
だからこそ、『言葉』で伝えなければいけなかった。
「『我らが唯一神、カルムフィアレーア様。どうか我らに神のご加護を』……でしたか?
今思えば、全くくだりませんね。
あんな邪神信奉して何になるんだか」
「貴様、どこでそれを知った……?!」
「どこでと言われましても、貴方たちのところとしか」
そして、やっとのことで侵入者は思い出すのである。
自分の目の前にいる者が、何者なのかを。
「まさか、粛清隊の先鋒の……!
いや、それは十四年前に殲滅──」
「はい、正解。
おめでとうごさいます、景品の短剣ですよ」
鋭い刃を心臓に突き刺した。
再び絶叫。
耳を劈くそれは、今は不快でしかない。
何故なら彼は、命乞いをしようとしたから。
『仲間』だから分かり合える、と自分の立場も忘れたから。
『命乞いをするくらいならば、腹を切って死ね』なんて、初歩の初歩に習うことのはずなのだが。
その理由も理解できないほど、実務部隊の質も下がっているらしい。
「もっと美しく鳴いてくださいます?
……だから、貴方たちは駄目なのですよ」
隠し持っていた金槌を取り出し、痙攣する侵入者の頭部を砕く。
息の抜けるような声を最後に、それは沈黙した。
「ええ何々……暗殺と誘拐?
出来るはずがないでしょう。馬鹿ですね」
砕け散った脳から、必要な情報を採取する。
何故彼らがこんなところにいるのか。
何故彼らは女性たちの後を付いてきたのか。
そして、何故そんな計画を始めたのか。
碌な情報は無かった。
どこからどう見ても捨て駒であるし、主な目的は情報収集だろう。
大方、精霊術の妨害と人工精霊の作成辺り。
十何年も経っておいて、大して進んでいない教団に呆れるべきか、褒め称えるべきか。
「残念ですよね。
私を捨て駒に使ってしまったせいで、研究が進まなくなったようで」
未だ盗聴しているであろう不届き者に、文句を含めながら忠告する。
「残念ながら、この国はそんな子供騙しでは壊せませんよ。
貴方たちが崇める『神様』とやらでも持ってきたらどうですか?
『目には目を、歯には歯を』ならば、怪物には怪物をぶつけるのが道理でしょう」
まあ、出来ないからこんな小細工しかしないのでしょうが。
そう捨て吐いて、侵入者の身体から邪魔なもの全てを取り払う。
刻まれた監視用やその他の術式等々。
自爆用は予め取って置いたので、こんな悠長に話していられたのだ。
「……後始末は骨が折れますね、セリアーノさん」
「楽しんでおいてよく言うよ、セレナ」
「最初だけですよ?
隊長格なのにこんなに弱いとは思っていませんでしたし、命乞いするくらいですし」
肩を竦めて、セレナは背後から歩み寄ってきたセリアーノに状況説明をする。
「なるほど。元同僚と」
「同僚? 冗談は止してください。
彼らがこれみたいに、力も意思も弱いわけがないじゃないですか。
そうでなければ、殺す意味がありませんよ」
死体を彼が持ってきた特殊な袋の中に詰めて、封を結ぶ。
他の五体はセレナが遊んでいる間に片付けておいてくれたらしい。
「……命を懸けた殺し合い。
また、やりたくなっちゃうんですよね」
「ダメだ。模擬戦で満足しろ」
「足りないんですよ、意志の強さが!
己と相手の意志のぶつかり合い、それこそが悦びだというのに!」
文句を垂れながら、セレナは死体と気絶しているうちの二体を引き摺る。
目指すは騎士団の駐屯所。
流石に正門からは入れないので、緊急用の裏口からだが。
ふと気配を感じて上空を見上げれば、丁度セリアーノの契約精霊である梟が書状を脚に括って帰ってきたようだった。
「おつかれ。どれどれ……」
雑にどさりと侵入者を地面に置き、セリアーノは書状を開封する。
始めはすらすらと読んでいたのだが、徐々に眉間に皺がより始め、最終的には紙が歪んでしまうほど手に力が入ってしまっていた。
「……なるほど、はいはい。そういうことね」
苛つきを抑えるように深呼吸して、彼はそう呟く。
投げ捨てておいた三体を再び引き摺りながら、セレナへの説明をした。
「シルヴェスタ様への連絡は既に済ましているから、これは騎士団長のもの……なんだが」
「何か問題でも?」
また面倒事に巻き込まれた、なんて顔をして彼は言葉を続ける。
「それがな、今緊急で魔物の討伐に向かっているらしくて……」
「……こいつらの仕業ですね。先程の報告通りに」
やっぱりそうだよなあ、とセリアーノは遠い目をした。
報告通りならば、教団はまた新たに魔物を造り出すことに成功したらしい。
その実戦投入というのが今日だった。
魔物との戦闘で陽動し、裏で目的の人物を誘拐、かつ暗殺する。
それが、今回の計画の内容だ。
七年ほど前にも同じことやっていただろう。
いい加減学べ。
心の内で、セレナはそう吐き捨てる。
前回の時だって、腸が煮えくり返って仕方なかったのだ。
レイフォードはどこにもいないし、広場に現れた魔物はイヴがさっさと倒してしまうし。
クラウディアたちの護衛と、避難所の経営を手伝っていた時も、誘拐騒ぎが起きて、下手人を追いかけようとしたら駄目だと言われるし。
消化不良にもほどがある、戦わせてくれ。
何度も何度も訴えたが、その願いが通ることは無かった。
精々、騎士団の訓練に参加させてもらえたくらいか。
彼らは良い。
獣のように闘志を滾らせるし、剣筋も研ぎ澄まされている。
そんな逸材が、両手で数え切れないほどいるのだ。
流石、『修羅の東部』と言ったところか。
是非とも、命を懸けて斬り合いたい。
養父と上司に怒られてしまうので、不可能だけれども。
だから、こうやって中途半端にやるくらいなら、もっと大々的に完膚なきまでにやれ。
不謹慎ながら、そう思ってしまうのだ。
そうすれば私だって戦わせてもらえるのに、と。
唇を尖らせて、セレナは音を立てずにずんずん道を歩く。
セリアーノの先を行くのもお構いなしに。
そんな彼女に向けて、セリアーノは言いにくそうに一つ福音を鳴らした。
「……今回の規模にもよるが、もしかしたらお前の思ったようにさせてもらえるかもしれないぞ」
「本当ですか?!」
「そこまで喜ぶか……」
セリアーノは脳裏に今は亡き戦闘狂を思い浮かべながら、条件を話す。
「レイフォード様の護衛を──」
「駄目です、それは。絶対に」
食い気味に、彼女はそれを否定した。
彼が言いたいのは、レイフォードの祝福である『浄化』の力を利用し、魔物を一網打尽にしようということだろう。
確かに、彼の力は強力だ。
効果範囲は心臓から同心円状に広がっており、触れる程度まで近付けば、即座に消滅させることが出来る。
そこまでとはいかなくとも、最大三十三尺まで大小はあれど効果がある。
そこに、彼の膨大な源素量から放たれる精霊術も加えれば、戦闘自体はすぐに終わってしまうだろう。
けれど、レイフォードは『子ども』だ。
まだ準成人にも満たない、十一歳の子どもだ。
そんな彼を戦場に立たせて良いわけがない。
それは、セリアーノが一番解っているはずだった。
「……すまん、無神経だった」
「いいえ。私が無理を言ったのが悪いのです。
セリアーノさんは悪くありません」
そもそも、彼はその発言をすることを躊躇っていた。
あれは、何とかセレナの夢を叶えたいという親心だったのだろう。
もう、そんな歳でもないのに。
多少気不味くなった空気を入れ替えるように、セレナは仕事の話を掘り返す。
「今回の規模は未確定ですよね。住民の避難等は?」
「まだ待機状態らしい。
前回の反省を活かして、探知性能を上げたからな。
魔物は絶対に感知できるようにしたらしい」
「……対人はまだ未完成のようですが」
手元の侵入者を見て、セレナは呟く。
「……仕方ねえんじゃねえかな。
流石に国民と動物、侵入者の区別は難しいし。
やるとしたら、国民全員分の生命反応全てを記録できるような、クソデカい精霊石と源素量が必要になるし。
隠蔽の結界だけでも、割と維持大変らしいからなあ……」
「世知辛い世の中ですね。やっぱり教団滅ぼしません?」
そうしたいのは山々だがな、とセリアーノが返す。
この国の規則によりそれが不可能であることが歯痒かった。
アリステラ王国は、外の世界に関して不干渉を貫いている。
『手を出したら殴り返すけど、殴られるまでは何もしないよ』ということだ。
基本、存在を隠匿しないといけないのだから当然ではあるのだが。
しかし、二十年ほども定期的に侵攻を受け、その度追い返すより、一度徹底的に打ちのめしたほうが楽なのではないか。
そう思って仕方がないのだ。
これが国境に面する東部だけの問題であるから、尚更。
「……面倒臭いなあ」
「……同感です」
とうの昔に過ぎ去ってしまった流星に、一つ願い事をする。
どうか平穏でありますように、と。
己の過去を思い出したのは、保護されてから直ぐのことだった。
というより、一時的に忘れていただけだったのだ。
あまりにも強い、快楽の海に溺れてしまっていたから。
セレナ──否、とある殺人鬼は、《創世教》と呼ばれる教団の実務部隊に所属する戦闘員であった。
まあ、戦闘員というのは名ばかりの、浮浪者の寄せ集めではあったのだが。
そして、何度も戦闘に駆り出された。
『悪魔憑き』なんて呼ばれる人々の拉致や、別の神を信仰する者の虐殺。
或いは、邪魔な人間の暗殺。
その度に多くの同僚が死んでいった。
無残に身体を引き裂かれたり、魔術なんて奇々怪々な現象の餌食になったり。
実験に使われ、二度と帰ってこないこともあった。
けれど、殺人鬼だけは死ななかった。
殺人鬼は、類稀なる才能を持っていたからだ。
戦闘も隠密も、魔術だって使える。
教団にとって、これほど便利な駒はない。
使い回せて、かつ成果を挙げてくれるのだ。
使わない手は無かった。
そうして、幼くとも凶悪な殺人鬼は人を殺め続けた。
言われるがまま、己の意志を殺して。
そんなある日のことだ。
殺人鬼は、ある任務を与えられた。
数年前から観測されている、悪魔憑きが集まる国への襲撃だ。
────何人でもいいから、殺してこい。
作戦の指揮官が、そう言い放つ。
投げやりなその言葉の裏には、『もう手がつけられないから、どこかで死んでくれないだろうか』という期待が込められていた。
ああ、そうだ。
殺人鬼はもう、誰の手にも負えなくなってしまっていた。
齢、約八歳のことである。
どれだけ大柄な大人でも、急所を刺せば人は死ぬ。
だから、何でも殺せてしまったのだ。
数日後、任務は実行された。
以外だったのは、殺人鬼以外の面々が所謂聖騎士であったことだ。
ありとあらゆる技能が高水準でなければ成れない、教団の最大戦力。
一人ひとりが一騎当千の、英雄たち。
その一部隊の中に、一人だけ幼い子どもが混じっている。
自覚できるほど悪名高い己は、彼らにとってさぞかし恐怖を煽る生き物だっただろう。
何せ、いつ寝首を掻かれるのか分からないのだから。
しかし、その恐怖心はある意味正しかった。
殺人鬼は、もう心に決めていたのだ。
任務の遂行も、教団への忠義も、端からどうでもよい。
どうせこの後、死んでしまうのだし。
ただ一つ、心残りなのは、己が希う強敵と戦えなかったこと。
誰もが謳うような英雄と、一線も交えられなかったこと。
ならば、今その夢を果たしてしまえばいいじゃないか。
思い立てば、行動は早かった。
先ず、足となる馬を殺す。
そうすれば、異常事態に気付いた聖騎士は、身を守るために殺人鬼を殺そうとするだろう。
そこを迎え撃てば、己が求めていた英雄との決闘のの始まりだ。
人数差では不利ではあるが、そこは各個撃破で十分。
寧ろ、乱戦のようで楽しいというのが本音だった。
そこから先は、残念ながらあまり覚えていない。
ただひたすら、嗤いながら敵を屠った記憶だけが残っている。
首を切り裂いて、心臓を貫いて。
心地良い絶叫が鼓膜を震わせて。
最後まで闘い続ける彼らの姿は、とても美しかった。
闘志に満ちた瞳は、一生忘れられないだろう。
そうして、何時間かが経った。
夕焼けの空はもうすっかり暗くなっていて、周りに死体が散らばっている。
────……死ねなかったんだ、私。
零れ落ちたその声が、やけにはっきり聞こえた。
死ねなかった。
彼らのように、死ねなかった。
行く宛もなく、殺人鬼は歩み出す。
前も後ろも、右も左も曖昧な中、ただ歩く。
そんなのだから、小石に躓いて転んでしまう。
倒れ付した地面は、少し泥濘んでいた。
そういえば、雨が降っていたか。
起き上がる気力もなく、ただ空を見上げた。
そこには、輝く銀月と青い星がある。
────綺麗、だなあ。
暗い、暗い夜に咲く星月。
それらに手を伸ばして、殺人鬼は『死んだ』。
そこから始まるのは、『殺人鬼』ではなく『セレナ』の人生だ。
セリアーノに救われ、鍛え上げられ、屋敷の人々と共に過ごし。
そして、『天使』を見つける。
己の人生、全てを捧げようと思えるほど美しい彼を。
だから、殺人鬼だった頃の自分は、とうの昔に死んだのだ。
今この世界に生きているのは、『天使』を崇め見守る、ちょっぴり殺し合いが好きなだけの普通の従者。
その平穏は誰にも壊させやしない。
もし、誰かが手を出してくるならば。
それが『神様』であったとしても、私はそれを殺すだろう。
ただ愛する、『天使』のために。