十節/6
「そろそろ時間かな。ユフィ、帰る用意をしようか」
「……まだ帰らないもん」
「こら、ディルムッドさんやカシムさんに怒られるよ。
……その前に、ユミルさんが許さないと思うけどね」
ユフィリアの迎えに来るであろう初老の執事は、そういうところは厳しい。
彼女には、親無しで移動に数時間掛かるアーデルヴァイト領まで遊びに来る許可を得るために、いくつかの条件を厳守するという取り決めがある。
その一つが、帰宅時間の徹底だ。
夕方六時の鐘がなる頃にはシューネの町についていなければいけない。
それを考慮すると、今の時刻の出発だって、かなりぎりぎりなのである。
「ほら、ユミルさん待ってるよ。早く行かないと怒られちゃうよ?」
「……レイは私とお別れしたい?」
椅子に座ったまま、レイフォードの腰に抱き着いたユフィリアが腹部に顔を埋めて、そう言った。
整えられた彼女の髪を崩さないように、優しく撫でる。
「そんなわけ無いじゃん。僕も、ユフィとずっと一緒にいたい。
……けど、約束は守らなきゃ。じゃないと、会えなくなっちゃうでしょ?」
ユフィリアが約束を破った場合、彼女は一か月ほど一人での遠距離移動を禁止される。
かつ、それがアーデルヴァイト家からの帰宅の場合は、レイフォードとの接触も禁じられる。
これは、互いが互いに依存する状態を防ぐために、シルヴェスタ、ディルムッド両名が取り決めたものだ。
レイフォードたちは知る由もないが。
「……むう、早く大人になりたい」
「あと数か月したら同じ寮で過ごせるようになるから、そこまでの辛抱だね」
瞬間、ユフィリアは立ち上がった。
「……そう、そうだ! 私には輝かしい学園生活が待ってる!
誰にも縛られない、自由な生活が!」
「規則は守らないと駄目だよ?」
「分かってる、守った上での自由!」
青空に向けて拳を突き上げるユフィリア。
先程までの萎れ具合が嘘のように元気になった彼女は、風に靡く髪を抑えて振り返った。
「……じゃあ、私帰るね」
「うん。来週は僕がそっちに行くよ」
「了解、美味しいお菓子と紅茶を用意して待ってるね」
普段ならば、そこで会話は終わりだ。
互いに手を振って、送り出して、来週に想いを馳せる。
それを何年も続けてきた。
しかし、今日は違う。
ユフィリアは、一度大きく深呼吸をした。
これから行う、一つの大勝負に向けて。
ばくばく高鳴る心臓を抑えて、目一杯の笑顔で、はっきり彼に想いを伝える。
「ねえ、レイ」
一歩、彼との距離を詰める。
二歩、彼の顔を見つめる。
三歩、己の唇に指を添える。
さあ、あとは勇気だけ。
「──ここに、口付けして」
ああ、言ってしまった。
踏み出してしまった。
馬鹿みたいに頬が赤くなっているのが分かる。
血が沸騰しているように熱いのも分かる。
恥ずかしさと期待が攪拌された心の内。
他人にはお見せできないような欲望塗れの思考。
けれど、それ以上に──目の前の大好きな彼が、熟れた林檎の如く真っ赤になっていることが、己の心を掻き乱していた。
「……いや、え?
……待って待って……嘘……?」
「聞こえなかった?」
「聞こえてるよ!
聞き間違えじゃないよね、ないんだよね!
これ、絶対!」
耳どころか首まで真っ赤にした彼が、慌てふためいている。
本当、こういうところが一番愛らしいのだ。
純情で奥手で、それでも相手の想いに応えようとする健気さが。
「それで、してくれるの? くれないの?」
「……あう、ちょっとだけ時間ください」
白手袋に包まれた指先を所在無さげに合わせ、視線を逸らしながら、レイフォードはそう呟く。
無限にも感じる静寂の後、腹を決めたであろう彼は頬を叩いて向き直った。
「先に謝るね。僕にはまだ、そこまで踏み込める勇気がない」
「……うん」
やっぱり、駄目だったかなあ。
蘇るのは、ラウラに言われた言葉。
──『接吻一つ出来ないへたれ恋愛弱者』
そうだ、そうだとも。
己は怖じけてるのだ。
レイフォードと関係を進めること、彼に踏み込むことに。
彼が傷付くことを恐れ、己が傷付くことを恐れ、五年間、何も進展しなかった。
あるのはただ、『婚約者』という立場のみ。
だからこそ、彼女が現れて、今日あの光景を見て、ユフィリアは恐怖を抱いてしまった。
誰かに己の立場を奪われ、レイフォードが遠くへ行ってしまうことに。
レイフォードを信じていない、ということではない。
寧ろ、彼を信じているからこそ恐ろしいのだ。
彼は、優しい。
誰かが困っていれば手を差し伸べる。
その対象に区別はない。
本当に、『誰でも』救おうとしてしまうのだ。
どれだけ感情を察せても、悪意に晒され続ければ足元を掬われることはあるだろう。
そうして奈落に落ちようとしたとき、彼は差し伸べられた手を取れるだろうか。
否、取らない。取ろうとしない。
己一人で、奈落に落ちるために。
ああ、君を繋ぎ止めるために私は何ができるだろう。
どうしたら、私は君の錨になれるのだろう。
君を救える光になれるのだろう。
触れて、関わって、そして繋がって。
抱き締めたならば、君はどこにも行かないのだろうか。
答えは見つからない。
けれど、一歩踏み出した。
先の見えない暗闇でも、止まっていてはいけないから。
進んだ先に、光があるかもしれないから。
だから、踏み出した。
と、いうのに。
感触は芳しくない。
レイフォードは、当然ではあるがユフィリアの要求を鵜呑みにしなかった。
『そこ』が超えられない一線なのだろう。
駄目なんだ、私じゃ。
無理なんだ、私なんかじゃ。
君の言う、『大切な人』には成れないのかなあ。
彼の言葉は続く。
「でも、ユフィのことは好き。
……これは、紛れもない僕の本当の気持ち」
いつの間にか俯いていた顔に、彼の何にも覆われていない手が触れた。
「……だから、ね。今はこれで許してほしいな」
──己の額とそれを覆う髪に、柔らかい感触が伝わった。
耳を覆うように触れていた手が、すっと下ろされる。
「……ユフィ?」
「……見ないで。今、凄いダメな顔してる」
蒼空色の瞳が、俯いたままのユフィリアをのぞき込んだ。
と、同時に片手で顔を覆い、もう片方の手で彼の顔を抑える。
今、己はどんな顔をしているだろう。
いや、決まってる。
馬鹿みたいに惚けきって、馬鹿みたいに紅潮して。
馬鹿みたいににやけた、だらしない顔だ。
ああ、もう。そんなつもりなかったのに。
幸福感やら優越感やら、様々混ざり合った心の内は、先程とは違う意味でお見せできない。
こんな、手痛い反撃を喰らうとは思ってもいなかったのだ。
「ユフィ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫だから!」
顔を抑えていたはずの手を両手で握り、心配そうに見つめるレイフォード。
分かっているのか、分かっていないのか。
無自覚ににやっているのならば、これ以上恐ろしいことはない。
「……他の子にもこういうこと、するの」
「しないよ、ユフィだけ。
……信じられない?」
ゆっくりと、首を横に振る。
濁りのない清廉な瞳が、今は何とも憎たらしい。
彼の言う通り、彼自身はしようと思ってしていない。
ただ、周りの人々が自分の良いように解釈してしまうだけで。
彼の周囲が、自分から彼を信奉し始めるだけで。
彼が、レイフォードが『愛している』のは。
そんな風に行動するのは、ユフィリアだけなのだ。
そういうところが大好きだ。
純情で奥手で、それでも相手の想いに応えようとする健気さ。
そして、誰か一人だけを愛する一途さ。
何を弱気になっていたのだろう。
彼の『大切な人』が、彼が一番愛している人なわけがないのだ。
だって、レイフォードが一番愛しているのは、他でもないユフィリアなのだから。
ユフィリアは笑う。
今まで怖じけていた心を投げ捨てて。
ユフィリアは踏み出す。
今まで躊躇っていた一歩に向けて。
彼の細い首に手を通し、ぐいと顔を近付ける。
咄嗟に反応出来ない彼が体制を崩してしまわないように、己の方へ引き寄せた。
息が当たるほど近付いた距離。
そこまで近付いたならば、することは一つだろう。
無防備な唇──ではなく、そのすぐ横の頬。
唇に触れないぎりぎりを良く狙って、大胆に口付けをした。
「……頑張ったご褒美!
次は、ちゃんとレイがここにしてよね!」
照れ隠しに捨て台詞を吐いて、ユミルの待つ場所へと駆け出す。
大分待たせてしまったな、怒られるかな。
そんな不安を押し退けるほど、今の己の心には幸せが満ち溢れていた。
ああ、今日という日はなんて幸せな日なのだろう。
黄昏色が覗き始める蒼天に、ユフィリアは目を細めた。
「レイくん、生きてる?
……あ、駄目そう。立ったまま気絶してる」
遠くから二人の遣り取りを観察していたテオドールは、あまりの衝撃で気絶したレイフォードを回収していくのだった。
そうして、少年たちは遊戯の月を迎える。
彼らが挑むのは入学試験。
新たな出会いと、予期しない者との再開。
賑わう都市と、蠢く陰謀。
平和な日常の裏には、常に深淵が潜んでいる。
────きみは、『きみ』自身は何を願う?
それは、まだ何者でもない人形に問う。
閉幕:四章【風吹き薫る黄昏】 ────貴方はどこへいくのですか────
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