九節/2
二人ぼっちとなった、森の静寂の中。
時々ぱきりと小枝を折る音だけが聞こえている。
その空気を切り裂いたのは、テオドールだった。
「……なあ、セレナさん」
「どうしました、テオ」
考え続けて纏まらなくなった思考を、そのまま吐き出す。
「レイくんは人で、俺は翼人で……どうしたって、レイくんの方が先に死んでしまう」
人族の寿命は、精々八十年。
限界でも百年だ。
対して、先祖返りで精霊の血が濃いテオドールは、多く見積もっても七百年以上生きられる。
努力次第で八百年ほどにも到達できるだろう。
「……そうだ、『人』なんだ。
どうしたって寿命の限界はあるし、生きていられる時間も短い」
──だから、レイくんは『神様』じゃない。
そう言った瞬間、心のどこかに亀裂が入った気がした。
ずっと信じ続けていたものが壊れていくような、喪われてしまうような気がしたのだ。
思えば、始めから歪だったのだろう。
テオドールは、『レイフォード』が見えていなかった。
強すぎる光と熱で、曲がって歪んだ虚像、蜃気楼を見続けていた。
そこに隠れた真実があると知りながら、自分の理想だけを見続けていた。
レイフォードが、それに気付いていなかったとは思えない。
彼は、願われれば直ぐ叶えてしまうような人だ。
与えてと言われれば与え、救けてと言われたら救う。
誰かの願いを、祈りを聞き届け、その身を磨り潰してまで叶えようとする。
そんな彼だからこそ、テオドールは救われたし、全てを与えられた。
名前も立場も、希望も幸福も。
すべて、彼が『神様』で在り続けようとしてくれたから。
君が『君』じゃない役を演じて。
無理して舞台の上で踊り続けて。
その果てに奈落に落っこちてしまったとしても、君は救けを求めようとはしないだろう。
だって君は、『救われる者』ではなく、『救う者』だなら。
『始める者』ではなく、『終わらせる者』だから。
誰かが嘆く地獄に終止符を打って、幸せな結末に導いて。
大団円で幕を下ろした裏で、静かに独りで泣いている。
ねえ、どうして教えてくれないの。
どうして辛いって言ってくれないの。
本音を覆い隠して、誰かのためだけに生きて。
それで君は幸せになれるの。
皆が幸せになったところで、君が幸せにならなければ、俺は──。
「あ、流れ星」
「今それ言うことですか?!」
悩み続けるテオドールを意にも介さず、セレナは空を見上げていた。
何だか馬鹿らしくなって、テオドールも共に空を見上げる。
「……うわ、本当だ」
「流星群ですね。今日は晴れていますから、よく見えます」
真っ暗な夜空に、流星が煌めいている。
そういえば、レイフォードはテオドールの髪と翼の色のことをそう例えていたか。
黒の中にいくつかある銀が、まるで夜空に光る流れ星のように見えると。
そのときは、照れ隠しに『俺のこと馬だと思ってる?』と聞き返してしまったが、鏡を見る度に思い出すほど嬉しい言葉だったのだ。
ずっと、この色は蔑まれてきた。
『黒は穢れ』なのだと、殴られ、蹴られ。
時には火で炙られたり、水を掛けられることもあった。
だから、黒は嫌いな色であったし、己が黒であることを恨み続けていた。
『こんななりで生まれなければ、皆愛してくれたのに』と。
しかし、ここに来てその想いは反転した。
綺麗な色だと褒められた。
珍しいねと驚かれても、受け入れられた。
誰も彼も否定することなく、肯定してくれた。
それがどれだけ嬉しくて、どれだけ喜ばしかったことか。
無意識に、テオドールは泣いていた。
あの時触れた優しさを、明るさを、暖かさを思い出して。
そして、彼に何も返せないことが申し訳無くて。
涙が止まらなかった。
「……テオ、先程の話ですが」
「だから、今言うこと…?」
他人の雰囲気を崩すことが得意なセレナは、相変わらず自由にいる。
今は、それが少しだけ羨ましかった。
「別に、そこまで難しく考える必要ないと思いますよ」
「……は?」
間抜けな声を漏らせば、止まっていた足を動かしつつ彼女は答える。
「シャーリーも言っていたでしょう?
私たちにはどうにもならないと」
「言ってたけど……っていうか、言ってたから悩んでいるわけで……」
視線を前に向ける気力も無くて、足元だけを見る。
月明かりと精霊術の灯りだけで照らされた森の中は、視線が通らないほど暗い。
「つまり、私たちが何かしようとする必要はないんですよ。
ただ、レイフォードを様と共に居続ければ良いだけです」
「……だから! それが出来ないかもしれないのが怖いんだって!」
かっと感情的に怒鳴り付けてしまったことを省みて、テオドールは口に手を寄せる。
横目で見たセレナは、特に怒っているわけでもなかった。
思考の急冷も兼ねて、一度ゆっくり深呼吸をする。
「……俺じゃレイくんを救えない、守れない。
どこか遠くに行ってしまうまで、何もできない。
それが、嫌なんだ」
「ふむ。どうして無理だと思うのです?」
「……話、聞いてました?」
「その上で、です」
飄々としたセレナの態度に疑わしい目を向けつつ、ある程度冷えた頭で整理した答えを話した。
「レイくんは、その名前によって在り方も生き方も決められています。
俺はそれを辞めさせることも、変わってあげることもできません。
それは、彼の存在を歪めて、消してしまうことと同義になりますから」
「そうですね。それは最悪の手でしょう」
そう相槌を打つ彼女。
しかし、テオドールは二の句を継げなかった。
そこで、終わりなのだ。
出来ないから、やってはいけないから。
そこから先に進めない。
思考の渦から逃れることができない。
どうやっても堂々巡りで、迷宮の中に入り込んでしまったよう。
けれど、セレナはそんなのお構いなしにあっけらかんと言う。
「ならもう、それを肯定するしかないじゃないですか」
「……はい?!」
驚愕、信じられない。
阿呆らしくて、馬鹿らしいちゃぶ台返し。
彼女は、そんな答えをさも当然かのように話す。
「考えてみてください。
レイフォード様のやりたいことを妨害する必要、あります?」
「……ない……のか……?
でも、レイくんは自分を犠牲にしてまで────」
「そこです」
びしと片手で器用にレイフォードを背負いながら、セレナはテオドールに人差し指を立てる。
「犠牲にするなら、その分手伝ってあげればいいじゃないですか。
ほぼ常に共にいるでしょう? 私と違って」
「……若干棘のある言い方だと思うけど、そうですね」
テオドールは、レイフォードと常に共にいる。
学校でも孤立しがちな彼の隣を占領しているし、屋敷ではセレナと共に殆ど専属の勢いで世話をする。
いつ消えてしまうか分からない恐怖心と、不安感が根底にあるからなのだが。
「なら、彼が動く時も直ぐ側にいるはずです。
助けてあげればいいんですよ」
「……でも、俺には」
出来やしない、と言おうとした矢先。
立てられていた彼女の人差し指が、額をぐりぐりと抉った。
「痛い、痛いです! 何なんですか急に?!」
「でもでもだって、ではありません。
愛しているのでしょう?
どれだけ難しくとも、やってみせるのでしょう?
なら、果たしなさい。
貴方には、選べる権利と力があるのだから」
最後にぐっと押し込まれて、指が離れた。
確かにそうだ。
セレナは、テオドールと違ってレイフォードと共に居続けることはできない。
彼は数か月後には高等学校に行ってしまうし、卒業後は家を出て働くことになる。
実は、彼女がレイフォードと共に過ごせるのは、後四か月ほどが限界なのだ。
しかし、テオドールは共に高等学校に通える。
進路は被りはしないだろうが、予定を合わせることだって、セレナと比べれば格段に容易だろう。
永遠にというわけではないが、共に過ごすこと自体はできるのだ。
「貴方は、何のためにここにいるのです」
「……レイくんとずっと一緒に居たい。守っていたいから」
ああ、そうだ。
テオドールはあの瞬間から、自身の夜を照らした太陽に焦がされていた。
それしか見えない盲目になってしまうほどに。
彼という光を永遠に眺めていたい。
その光を享受していたい。
永遠とするために守りたい。
それが一番の願いだった。
だから、希ったのだ。
けれど、今はそうではない。
彼という光を永遠に眺めていたいことも、享受したいことも。
全て、己の心の底からの想いではあるけれど。
彼は『神様』ではない。
彼は『太陽』ではない。
彼は永遠ではない。
だからこそ、テオドールは守るのだ。
彼が『人』で在り続けられるように。
彼がやりたいことをやれるように。
刹那でも、幸せでいられるように。
『神様』でも、『太陽』でもない。
ただ一人の『人』である、『レイフォード』でいられるように。
「……解った。やっと解ったよ」
己の心臓の前で、拳を握り締める。
これは、テオドールの意志だ。
根本的なところは、今までと然程変わりない。
変わったのはただ、彼を呼ぶ『名前』だけ。
言葉は、力そのものだ。
極限、世界を変えることができるほど強力な。
ならば、変えてやろうじゃないか。
何度も何度も呼び続けよう、彼の名を。
役名でも、偽名でも、他の何でもない彼の真実の名前を。
だって、世界そのものを変える力は、『神』の力なのだろう。
なら、届くはずだ。
どれだけ遠い空にある星だとしても、長い時を経て、手を伸ばし続ければ。
その果てにはきっと、届くはずだから。
随分と軽くなった足取りで、暗闇の道を歩く。
隣のセレナも、いつもの氷のような無表情が少し綻んでいるような気がした。